109.正しい形へ
特務大臣の執務室を目指しながら、シャロンとチェスターは並んで歩いていた。
「ジェニーはもうお庭に出られるようになったのね。」
「うん。だから次は庭で君を出迎えてビックリさせるんだって話し…あ、今の、忘れといて。」
「ふふっ、わかったわ。」
柔らかく微笑むシャロンを、通りすがりの使用人や貴族が目で追っている。
純白のドレスに艶めく薄紫の髪、薔薇色の頬、優しい眼差しにまるで花のような笑顔。もし他国からの旅人がこの場にいて、彼女はツイーディアの姫君だと言われたならば、そのまま信じてしまった事だろう。
明日から、いや今日からどんな憶測が飛び交う事やらと思いながら、チェスターは彼女をエスコートする栄誉に預かっていた。
「初めて来たものだから、皆さん警戒されているわね。」
チェスターにだけ聞こえる小声で囁くシャロンは、少しだけ緊張した面持ちだ。見惚れる視線を「怪しまれている」とは、なかなか鈍い。
思わずくすりと笑って、チェスターは目を細める。
「今のシャロンちゃんはとびっきり可愛いからね。見たくもなるでしょ。」
「あ、ありがとう…。とっても素敵なドレスだものね。そういえばこれ、お城の方には「そのままお持ちください」と言われてしまったのよ。さすがに気が引けるのだけれど……。」
シャロンは困り顔でドレスの裾を摘まんだ。
靴までサイズがピッタリで、質もデザインも良いので嬉しくはあるがひたすらに申し訳ない。チェスターはからりと笑った。
「貰っておけばいーじゃん、君のために作られた物なんだろうし。」
「そんな事は…」
ないでしょう、と言おうとしたシャロンだったが、ではなぜ城にこんな物が?という疑問への回答は見つからなかった。昔の姫君の物にしては新品過ぎる。
首を捻って、白く細い指を唇にあてた。
「ウィル達の婚約者が、たまたま私とサイズが同じ、とか……?」
「まだいないでしょ、婚約者。」
「そうよね……?」
ますます不思議そうに首を傾げるシャロンを横目に、チェスターは前方の扉を指した。
「さ、着いたよ。君の父上の部屋だ。」
「ここが…。」
シャロンはつい辺りを見回し、チェスターが扉をノックする音で慌てて前を向いて軽く身を整える。
「閣下、チェスター・オークスです。ご令嬢をお連れしました。」
「入れ。」
「失礼します。」
扉を開け、二人は中に入った。
応接用のテーブルとソファの向こう、一人の男性が大きな執務机で書類にペンを走らせている。短い銀髪に同じ色の瞳、百八十センチを超える筋肉質な体躯に凛々しい眉、一級品の衣服にピカピカに磨かれた黒のブーツ。
シャロンの父にしてこの国の特務大臣、エリオット・アーチャー公爵は、書き上げた書類から目を離して二人を見た。
「失礼致します、お父様。」
丁寧に礼をして、シャロンは父に向き直る。
カタン、とペンを取り落としたエリオットは二度瞬きすると、視線を娘に向けたまま立ち上がった。
「…シャロン……?」
「はい。事の次第はもうお聞き及びとは思いますが、またご心配をおかけし…」
まず謝らねばと思ったシャロンは、父が片手で目元を覆ったのを見て首を傾げた。そんなにも怒らせたのだろうか。
「どっちだ。」
「はい?」
地に響くような低音で謎の質問をされ、シャロンが聞き返す。チェスターは顔を引きつらせた。アベルに頼まれた時から予想できていた事だ。
「どちらの殿下が、この子を?」
「それは…」
「アベル殿下です。」
チェスターが言う前に、質問の意図を履き違えたシャロンが答えてしまった。今聞かれているのは純白のドレスを着せたのは誰なのかであって、守ってくれたのが誰かではない。
エリオットが目元を覆っていた手を離す。真顔だ。チェスターは慌てて笑顔を作った。
「シャロン嬢?説明は俺が…」
「ご報告にありませんでしたでしょうか、私はアベル殿下に同行する事を選んだのです。」
「…お前も、第二王子殿下を選んだ…と?」
「……?えぇ。」
エリオットの言い回しに違和感はあったものの、シャロンは真っ直ぐに頷いた。
ナディア達と同じように、シャロンもアベルとの同行を選んだのだから。
「殿下は騎士の方々と共に恐ろしい獣と戦い、お守りくださいました。転落は私が独断で走ったがゆえの事です。それなのに…」
万一にもシャロンが落ちた責任がアベルに向く事があってはならない。彼は救ってくれたのだとシャロンは必死にアピールした。
「私が怪我をしないよう抱きしめていてくださったのです。」
「ちょっとシャロンちゃん!?」
「それに、ご自分の方がよほど痛かったはずなのに、気遣ってくださって…」
シャロンは視線を落とし、胸の前まで持ち上げた手の甲をじっと見つめた。ナディアに引っかかれた傷はもう、城についた時点で治療されていた。何の痕も残っていない。
心なしか顔色の悪いエリオットが、あまり聞きたくなさそうにしながら口を開く。
「…手が、どうかしたのか。」
「あ…申し訳ありません。つい、殿下がこの手を握ってくださった時の事を…。」
シャロンは苦笑し、思い返すように目をそらして切なげに眉尻を下げた。些細な傷を気にしたアベルを思うと、どうしても胸が苦しくなる。
――自分自身の事も、もっと大切にしてほしいのに。
物思いに耽ってしまいそうなところを持ち直し、エリオットを見上げた。とにかく今回の件、アーチャー家は第二王子に感謝せねばならないのだと、伝えなくては。
神妙な顔で口を開くと、父は何かを覚悟するようにごくりと喉を鳴らした。
「お父様……アベル殿下はとても頼りになる方ですし、本当にお優しくて――」
どさっ。
エリオットが視界から消えて、シャロンは瞬いた。
何の魔法かしらと考えて、床に倒れているだけと気付く。あまりに突然過ぎて反応が遅れてしまった。慌てて傍らに膝をついて肩を揺する。
「お父様!?どうなさったのですか、今までお元気にされていたのに!」
「……公爵閣下と言えど、やっぱ父親って娘に弱いよねぇ。うちもだけど。」
「白目を剥いていらっしゃるわ…あら?前にもこんな事があったような。」
あれはいつだったかしらと首を傾げ、シャロンは記憶を遡った。
確か数か月前、アベルと出かけた事について話した時だ。自分が攫ってくださいと頼んだのですと伝えた途端、屋敷の玄関ホールで今と同じようにばったり倒れてしまった。
シャロンの視界に入るように手を振って、チェスターが苦笑する。
「シャロンちゃん、説明は俺に任せてくれない?ちょっと誤解が生まれてそうだから。」
「誤解?」
きょと、と目を丸くするシャロンに、チェスターは内心「駄目だこりゃ…」と呟いた。そもそも、着ているドレスが花嫁衣装に見えるという事から理解していないのだろう。
この後チェスターによってドレスを用意したのは王子ではないという事が伝わったものの、それはつまり国王もしくは王妃が用意したという事になる。
話を聞きながら、エリオットは複雑そうに眉を顰めたのだった。
◇
玉座の間に、国王が小さく笑う声が響いている。
「アベル、お前は本当に規格外だな。」
――俺の子とは思えないよ。
後に続く言葉を喉の奥へ飲み込んで、ギルバート・イーノック・レヴァインは薄い笑みを浮かべた。
少し癖のある金の長髪は左側だけ耳にかけて背中へ流し、煌めく金の瞳を抱く目は穏やかなのに、どこか自棄的にも見える冷淡な光を宿している。目鼻立ちは彫刻のように整い、王家伝統の青地に白布を合わせ、金の刺繍を施した衣服がよく似合っていた。
彼は玉座の肘置きに頬杖をつき、長い脚を組んで階段下に立つ息子達を見下ろす。
「…は。」
アベルは直立不動のまま寡黙な騎士のように相槌を打った。
数時間前に数十メートルもの高さから落ち、それも令嬢を庇って全ての傷を受け、その治癒を終えたばかりらしいというのに、そんなダメージは感じさせない佇まいだ。
魔力のない第二王子。
それを補って余りある身体能力と剣術、頭脳、風格。ウィルフレッドと双子で生まれなければ、ギルバートは本気で自分の子かどうかを疑ったかもしれない。
妻であるセリーナにはとても言えないが、アベルの瞳が銀色だったなら、どれほど納得しただろう。
――反対に、ウィルは俺とそっくりだ。可哀想な程に。
アベルの横に立つ第一王子へ目を移し、ギルバートは心の中でため息を吐いた。
自分の上位互換と常に比べられる、その息苦しさはよくわかっている。
兄弟のいないギルバートにとって、その相手は同い年の公爵令息、エリオット・アーチャーだった。
座学も剣も魔法も何もかも彼の方が上なのに、生まれた家の違いだけでギルバートが王子でエリオットは従者。
若い頃には、自分が死んで彼に王位を譲った方が国のためになると、何度も考えた。
なのに――…結局、できなかった。
回想から意識を戻し、ギルバートはにこやかに笑う。
「よくアーチャー公爵家の娘を守ってくれたな。褒めて遣わす。ウィルフレッド、お前も事態の収拾ご苦労だった。」
「ありがとうございます、陛下。…公爵達との会議はいかがでしたか。民にはどのように?」
「すぐに触書を出す。報告を聞く限り、帝国の《キメラ》とも違うようだからな……同盟各国にも知らせる予定だ。」
「左様で…」
神妙な顔で頷くウィルフレッドの隣で、アベルは黙って話を聞いている。
こんな時、非凡な者は何を考えるのか?問うてやりたい気持ちを抑え、ギルバートは意識して穏やかに口角を上げた。
「二人とも今日はもう休め。そして早くシャロン嬢を娶り、俺を安心させてくれ。」
軽口のように言ってやると、ウィルフレッドが目を見開く。
「娶るとは…」
「無論、そのままの意味だ。アーチャー家とは家族ぐるみで仲良くしていきたいと前に言っただろう。あぁ…それとも、シャロン嬢に何か問題でも?」
「いえ!彼女は素晴らしい人です。」
「では構わないな。」
ゆったりと脚を組み換え、ギルバートは視線を遠くへ投げる。息子達がどんな表情をしているかは興味がなかった。十二年前からの決定事項だ。
「来月の女神祭には各国の来賓…王子達も来るのだから、横から攫われないよう気をつけておけ。お前達の代ではシャロン・アーチャーを王妃にするといい」
ウィルフレッドは何か言いたげにしていたが、今はただ目を伏せて頭を下げた。ギルバートの言葉は提案であって、命令ではなかったからだ。
アベルは黙っている。父王の提案は何の問題もない、既に兄が解決済の話であるため、自分が何か言う事ではない。
息子二人から異論はなかった。
当然の事だと満足そうに微笑みを浮かべ、ギルバートは目を閉じる。
誤った選択と知りながら生き延びて王冠を戴き、権力を振りかざしてセリーナを妃にした。本当はエリオットのような人物が王になるべきだと知っていたのに。セリーナは彼に憧れていると知っていたのに。二人には婚約の話まで出ていたのに。
全てを壊したギルバートはせめて、次代の王家を正しい形に導かなくてはならない。すなわち、
――お前の血を、王家に。




