107.リビー・エッカートの絶望 ◆
皇帝陛下は乱心した。
そんな戯言を聞く度に心は冷え、おぞましい程の憎しみが心に満ちた。口にする者の喉を一つ一つ潰してやろうかと思った。
しかし、その噂が広まる事を我が君は望んでいる。
『おやおや。可愛い彼女を放っておいていいんですか、チェスター。』
笑って軽口を叩くロイを、壁にもたれたまま眺めた。
数年振りに見たチェスターは身長も伸びて顔つきは大人びている。フードの中を見るに、アベル様が切ったという髪は短いままにしているようだ。
『ロイさん、リビーさん……』
『こんな夜中に行っても、行方不明者では公爵家の令嬢には会えませんよ。』
その言葉にチェスターが目を細める。
やはりシャロン・アーチャーに会おうとしていたらしい。サディアスに会おうとするよりは賢明な判断だ。
『教えてください、何が起きてるんです?俺は戻ったばかりで、知らない事が多すぎる。』
『ンッフフ…知っている事ばかりだと思いますよ。カレン・フルードは彼女ともお友達なのでしょう?』
『あの子の事だ、カレンだから話せてない事もあるはず…そうですよね。それを隠したいから、アベル様は貴方達を寄越したんじゃないんですか。』
『さぁ、どうでしょう。案外、私達の独断かもしれませんよ。』
チェスターは微笑むロイの真意を探ろうとしているが、早々掴ませるような男ではない。まして、何年も会っていなかったのだから。
仰々しく片手を胸に当て、茶化すように頭を下げてみせるこの男の背に、僅かな怒りが滲んでいる事を。気付けるだろうか。この、裏切り者の元従者は。
もたれていた壁から離れ、私は一つだけ剣を抜いた。
アベル様は先日、敢えてチェスター達を見逃したという。我らも、殺せとも止めろとも言われていない。教えてやれとも。
『リビーさん…?』
『チェスター。お前は我が君の願いを知っていたはずだ。』
第一王子に王位を継承させる事を。
アベル様が兄を守ろうとしていた事を、お前は知っていた。剣を握る手に力が入る。
『裏切ったお前が、今更あの方に何の口出しをする気だ。』
『…俺にそんな資格がないのはわかってるよ。でも、今のこの国を見てたら……だって、違うだろ!アベル様は…』
一足飛びに懐へ入った私の剣を、チェスターが顔を歪めながら短剣で防ぐ。
ギギギと金属の擦り合う音が響く中で、伝わってくるのはただ困惑の気持ちばかりだった。
お前が見ているのは何年前のアベル様だ?
当時あの方の心を壊したのは、引き裂いたのは、お前のくせに。
お前に裏切られ、兄を喪ってどんな思いで生きてきたと思っている。
妹の仇を取れたから何だ。
自分一人乗り越えた気になって、「違う」?
何様のつもりだ。――反吐が出る。
だんだんと眉が吊り上がり、腕に力が入る。このままねじ伏せてしまいたくなる。
『リビー。』
剣を握っていない方の手を取って、ロイが私の名を呼んだ。
思いきり眉を顰めて不満を示すが手は離れない。舌打ちしてチェスターの剣を弾き、距離を取る。
『またどこかで会いましょう、チェスター。あぁ、令嬢に会えないのは本当ですよ。今日は舞踏会の準備で、城へ泊まられていますからね。』
『待ってください!俺はアベル様に何があったか知りたいんだ!』
『教えないと言っているんです。貴方は部外者ですから。…さぁ、リビー。』
『……わかった。』
抜いたままだった剣を、静かに鞘へ戻す。
ロイが風の魔法で自分もろとも私を浮かした。困惑した様子のチェスターを一瞥し、何の言葉をくれてやることもなく私も宣言を唱え、姿を消す。
そう、お前は知らない。
アベル様の身に何があったのかも、この国に何が起きているのかも。
そして、知ったところで…
お前にできる事など、ありはしない。
『ロイ』
血飛沫が上がった事が信じられなくて、名を呼んだ。
致命傷を負うべきは私で、こいつではなかったはずだ。
『なぜ私を庇った……』
『行ってください、リビー。まだもちます。』
『私よりお前の方が速い!私を捨ててお前が戻るべきだっただろう!!それをなぜ…!』
『さぁ、なぜでしょう…ッ、フフ』
襲い来る魔獣を叩き切って、ロイは私に笑いかけた。
あの傷ではもう帰りつけない。どちらかは必ず戻らねばならないのに、かの者の裏切りを伝えなくてはならないのに。
『答えは、次にお会いした時にでも。さぁ、我らが主の元へ。』
『くっ…』
『伝えて頂けますか。…楽しかったですよ、と。』
『――必ず!』
私は自分に出せる最高速度で城へ戻ったが、もう一歩早ければ救えた命もあった。
やはり、ロイが戻るべきだったんだ。
…私の事など、捨ておけばよかったのに。
『お前だけでも戻ってくれて助かった。…よく生きていてくれた。リビー』
『…ロイが…楽しかったですよと。申しておりました。』
『……そうか。』
次に会ったら答えを言うなどとほざきながら、最期の言葉を託すなど。
あいつを置いて行く以外、私に何ができたというのだろう。血が滲むまで拳を握っても、何も変わりはしない。
『遠征だ。片を付けるぞ』
『はい。どこまでもお供致します、我が君。』
『クロムウェル、お前に留守を任せる。』
『御意に。レナルドに持っていかれた魔力も、もう戻っています。』
団長の言葉に頷いたアベル様は、手にした何かを数秒見つめ、懐にしまった。
『最後の人殺しだ。……待っていろ、――』
微かに誰かを呼んで、歩き出す。
この時も、アベル様が見事に敵将を討ち取った時も、これは戦争の終わりだと、私は思っていた。
「最後」とは、これからの平穏を思っての事だと。
地響きと共に床が揺れる。
じきに崩壊するだろう玉座の間で、チェスターとカレン・フルードが信じられないというように目を見開いていた。
視線の先ではアベル様が膝をつき、その身体からはボタボタと血が流れている。
私は爪が食い込むのも構わず自分の腕を握りしめた。
『なんで……!』
アベル様の血がついた剣を握ったまま、チェスターが叫ぶ。びしゃりと聞こえたのはアベル様が吐いた血が床に落ちた音。
我が君は俯いたまま、ぼそりと呟いた。
『……もう、疲れた。』
私は声を出さぬよう歯を食いしばる。胸が握り潰されるような感覚に襲われ、涙が溢れる。私は、私はとうとうこの方を支えきれなかった。
叫び出したい衝動を堪える時、頭に浮かぶのはもういないあの男の顔だった。ここにいるのが私ではなくお前だったなら、結果は違っていただろうか。
『待って!治す、私が治すから!』
呆然としていたカレン・フルードがはっとして駆けだしたが、床に入った亀裂が二人とアベル様の間を割いた。
顔を上げたアベル様は口元をぐいと拭う。
『もう魔力がないだろう。早く行け…どの道助からない。』
『貴方が死ぬわけない!!』
チェスターが叫んだ。
強引に駆け寄ろうとしたその前へ瓦礫が落ちてくるのを見て、カレン・フルードが慌ててその腕を掴み引き戻す。チェスターの目には涙が光っていた。
『俺なんかの剣であんたが死ぬわけないだろ!!俺は……貴方を止めて、それで、アベル様に殺されるために、ここまで……!』
『ウィルはお前の死を望まない。』
アベル様の言葉に、チェスターが愕然として動きを止めた。
地響きが強くなり埃や天井の欠片が降り注ぐ。チェスターの腕を引きながらも躊躇う様子のカレン・フルードに、アベル様は笑みを作ってみせた。
『チェスターを頼む。』
『っ…わかった!』
『待ってくれカレン、俺は……アベル様!!』
何度も振り返るチェスターを、カレン・フルードが強引に引っ張って走る。二人の後ろを塞ぐように瓦礫が落ちていく。もう戻ってはこれないだろう。
『俺は、こんな結末を望んでなんか…!』
胸を引き裂くような声が、最後だった。
玉座の間が壊れていく。
床に倒れたアベル様の周りを、大量の血が彩っている。
『…リビー』
『ここにおります。』
足音に気付いて呼んでくださった我が君の傍らへ、跪いた。
背中へ腕を回して上半身を起こす。アベル様は少し、眉を顰めていた。
『お前も早く逃げろ。』
彼らが来たら手を出すなという命令を守ったのは、チェスターにもカレン・フルードにも、アベル様を殺すつもりがなかったからだ。なのに。
『なぜ……避けなかったのですか。』
『ただの我儘だ。』
アベル様はきっと、最初からそのつもりで彼らを玉座の間へ導いたのだろう。
殺させるために、殺されるために。
アベル様が退位するのなら、新しい王の陣営には、彼を倒せるほどの力があると諸国に示さねばならない。でなければ国はまた戦争の嵐だろう。
…そんな事の、ために。
地響きも、瓦礫が落ちていく音も何もかも、世界全てが壊れていくように感じた。
私が動こうとしないのを見て、アベル様は諦めたように言う。
『……連れ出してくれるか。』
抜け道を通って、私は森の中にアベル様をお連れした。
ろくに力が入らない様子の身体をそっと横たえ、金色の瞳と目が合うと、視界は滲むばかりだった。嫌だ、嫌だ。懸命に涙を拭ってアベル様を見つめる。
『あいつらは、国を変えるだろう。…元の、ように……』
国がなんだと言うのですか。
私はただ、貴方が生きてくださっていれば、それでよかったのに。
『俺の代わりに、見守ってほしい。』
涙が勝手に溢れて止まらない。
私を知っている貴方は、私を生かすための命令を口にする。
弱々しく伸ばされた手を握って瞬くと、涙がぽたりと落ちた。
『はい、アベル様。』
『…頼んだ。』
『私は……貴方にお仕えできて、本当に…幸せでした。』
口元を覆う布を下ろして、精一杯微笑みを浮かべた。伝えたかった。感謝も、忠誠も、敬愛も、この心にある全てを貴方に捧げてきた事を、それを誇りに思っている事を。
『…ありがとう。リビー』
アベル様は掠れた声でそう言ってくださった。
そしてふと視線を横に向け、力なく笑い――…目を、閉じた。
握った手から力が抜ける。微かに動いていた胸も止まっている。
静かに吹いた風が、私の肩をそっと撫でていく。
『っ……う、ぅわぁああ゛あ゛ああああ゛ああ!!!!!』
私は泣いた。
喉が枯れ果てようと構わない、この方が私の全てだった。
あの夜からずっと。
『申し訳っ…りません、申し訳ありません、アベル様……!』
お守りできなかった。
その心を、命を、私は。私は!!
『申し、け、…りませ……』
恐れ多くもその頬に触れると、涙がとめどなく溢れ出す。
まだ暖かく、けれど生きているそれよりも冷たくて、どうか置いて行かないでくださいと身体に縋り付く。もう聞こえていない事を知りながら、時を忘れて嘆き続けた。
どうか、もう一度ご命令を。
もう一度貴方の声を。
私の名を、どうか。
『っ…う、うぅう……』
ゆっくりと、ゆっくりと時間をかけて、私は生涯の主の墓を作った。
私などでは相応しいだけのものが作れない。けれどそれ以上に荒らされてはいけない。これがあの方の墓標だとは知られない方が良いのだ。
守るために使えなかった魔力を使いながら、寝食も忘れてアベル様の事だけを考えて整え、足が動く限り花を集めた。
『……アベル様』
最後の祈りを終えて、私は剣を抜く。
――俺の代わりに、見守ってほしい。
貴方は、そう言ってくださったけれど。
『申し訳ありません。』
剣を胸に突き立てた。
ここで、アベル様の元で果てたかった。ご命令に背いてでも、少しでも近くで死んでしまいたかった。
たとえ貴方の願いでも、貴方がいない世界を見るのは苦痛だった。
『ご叱責、ならば…いくら、でも……』
だから、だからどうかもう一度、私を。
墓標とした岩に縋りつくようにして、私は倒れた。
涙が血溜まりに落ちて溶けていく。
どうすれば救えたのだろう。
もし――もしも時を戻せるのなら、私はどうなっても構わない。
アベル様を救い、彼が笑って過ごせるような世界を、どうか。
どうか……




