106.彼が選ぶ「最良」の結末
「……どうぞ。」
アベルが答え、ウィルフレッドは神妙な顔つきで姿勢を正す。シャロン達は急いで扉からベッドまでの道を空けて控え、頭を下げた。扉が開き、騎士を従えた女性が一人、入室する。
艶やかなストレートの黒髪は腰に届く長さで、後頭部に作った編み込みを花飾りのついたバレッタで留めている。冷え切った目つきはアベルに近しいけれど、瞳は爽やかな青色だった。
淡い水色と白のドレスはパッと見では派手さがないものの、よく見れば精密な刺繍が施され、あちこちに小粒の宝石が散りばめられている。
子が二人いるとは思えないツヤのある透き通った肌に、整った鼻筋、意思の強さが見える細い眉、瑞々しい唇。
王妃、セリーナ・レヴァインは部屋の入口とベッドの中ほどで足を止めた。
「…お前までいましたか、ウィルフレッド。」
美しく、しかし冷たい声だった。
はぁ、と憂鬱そうに吐かれた息は、静かな部屋ではよく耳に届く。ウィルフレッドは胸に片手をあて、丁寧に礼をした。
「王妃殿下、本日もご機嫌麗しく。今しがた狩猟場から…」
「出て行きなさい。」
ピシャリと言い放ち、セリーナはぱさりと扇子を広げた。長い睫毛を伏せ、視線を誰もいない壁へと移す。
「見るに堪えないわ。」
「――…承知致しました。」
ウィルフレッドは深く腰を折り、サディアスの名を呼んで共に部屋を退出する。扉が閉まる音に紛れて、シャロンの隣に控えるチェスターが小さく喉を鳴らした。
深く礼の姿勢を取ったまま床を見つめるシャロンには、セリーナの表情はまったく見えない。
「アベル」
「はい。王妃殿下。」
ベッドの上でセリーナに向き直ったアベルは、片手を胸にあてて目礼する。
「怪我は治ったのですか。」
「は。元より、軽く背を打った程度。ナイトリー医師の治癒を受け、既に完治しております。」
堂々と王妃に嘘をつくアベルにシャロンはハラハラしたが、王族同士の会話に割り込めるものではない。駄目よ、お母様に嘘をついたら。などと言うわけにもいかなかった。
まして元凶は自分だ。いいのかしらと不安には思っても、アベルの思うようにさせようと黙って聞いていた。
「そう。あまりわたくしと陛下を煩わせないように。此度の件、既に城内で噂になっています。お前が怪我をするなど、珍しいですからね。」
「…申し訳ありません。」
謝罪したアベルを、セリーナの冷ややかな青色の瞳がじっと眺めている。まるで見定めるような視線をアベルが真っ直ぐに見返すと、セリーナは思いきり眉を顰めた。
短く息を吐いて一度目を伏せ、黙って控えていたシャロン達に目を向ける。
「そこの娘、顔を上げなさい。」
許可を得てようやく、シャロンはセリーナの顔を見た。
長い睫毛がウィルフレッドと同じ色の瞳に影を作り、不満がある時のアベルそっくりの目つきで眉根を寄せている。シャロンと目が合った途端、扇子を持つ彼女の手にギリリと力が入った。
それを誤魔化すかのように、セリーナは扇子をぱちんと閉じてシャロンへと向ける。
「名乗る事を許しましょう。」
「ありがたき幸せにございます、王妃殿下。私は特務大臣エリオット・アーチャー公爵が長女、シャロンと申します。此度の第二王子殿下のお怪我は、私に責があり――」
「やめろ。」
アベルが短く遮った。
セリーナの目がシャロンからアベルへと移る。
「殿下。怪我の責任など、本人の力不足以外に何がありましょう。」
「まぁ……お前が令嬢を庇うなど、本当に珍しいわ。」
艶のある唇に冷笑を浮かべ、セリーナはゆったりと瞬きしてシャロンの頭からつま先までを眺めた。
閉じていた扇子を再び開いて口元を隠し、けれど目を流した先のアベルにだけは見えるように口角を吊り上げ、声を出さずに何事か呟く。
アベルがぴくりと眉を動かして苦い顔をした。
「お待ちください。彼女は――」
「公爵が隠すものだから、どんな娘かと思っていましたが……これではね。無理もありません」
冷え冷えとした青色の視線を、シャロンは黙って受け止めていた。
――何かしら、この違和感。
前世でプレイしたゲームでは、国王と王妃はほとんど出番がない。
ウィルフレッドかアベルが王位を継ぎ、そちらがメインになるので当たり前だが、それでも二人が姿を消すにあたっての理由は覚えている。
王子の片方が亡くなった事に、愛情深かった王妃は心を痛めて病に伏せってしまう。主人公達が学園を卒業するより早く、憔悴した王妃は息子の後を追うように亡くなり、国王もまた妻を喪った事で気力を無くし、退位を早めたのだ。
――それがどうして、ウィルを「見るに堪えない」なんて…。
困惑と動揺を押し隠し、シャロンは失礼な視線にならないよう気を付けながらセリーナを見つめる。彼女は少しだけ眉尻の下がったシャロンを見てため息をつき、軽く首を横に振った。
「陛下のお言葉を覚えていますね、アベル。気を付けなさい。」
「…恐れながら、それは俺の役目ではありません。」
「戯言を。」
小さく鼻で笑い、セリーナは踵を返す。
最後にシャロンを一瞥し、
「いずれまた会いましょう。アーチャー家の娘。」
にこりともせずにそう言った。
扉が閉まり、チェスターが大きく息を吐く。
「は~、緊張した。相変わらず圧が強いんだから。大丈夫?シャロンちゃん。」
「えぇ…。」
シャロンはセリーナが出て行った扉を見つめたまま頷いた。冷えた目をしているのに、不思議と恐ろしくはなかった。
アベルは嵐が去ったと言わんばかりの仏頂面でため息を吐く。
「チェスター、彼女を公爵のところへ連れて行け。」
「俺が?睨まれそうだけどなぁ、了解しました。」
「アベル…」
シャロンが何か言いたげに振り返り、アベルは「あぁ」とばかり瞬いた。このタイミングで彼女が望む事は一つだ。
「またね。」
「――えぇ、また。」
ふわりと顔をほころばせて、桜色の頬をしたシャロンはチェスターと共に部屋を出た。
「びっくりしたよね、オオカミが火を吐くなんてさ。」
廊下を歩きながらチェスターが言う。
今日か明日か、国中に注意喚起が回るだろう。見覚えのある獣でも不用意に近付いてはならないと。
あのオオカミやクマは吼える事も唸る事もなかったので、それはもしかしたら見分け方の一つかもしれないと、アベル側に同行していた騎士が言っていた。
「そうね。」
神妙な顔で同意するシャロンを、チェスターは横からじっと見つめる。
「……君は、今回は《心配》してなかった?」
近くに人目がない事を確認してから聞くと、シャロンもチェスターを見た。
彼女は悔しそうな表情で頷く。
「わからなかったわ。ただ、いずれもっと強いものが出てくるのではと思う。」
「明らかに人の手が入ってるもんねぇ。」
自然の産物じゃないねと言うチェスターの言葉を聞きながら、シャロンはゲームストーリーに出てきた「魔獣」について考えを巡らせる。
それはギトギトした黒い毛並みを持ち、「魔石」と呼ばれる石を体表のどこかに埋め込まれた生き物だった。火・風・水・光・闇いずれか一つの属性の魔法を使って攻撃してくる、声のない獣達。彼らはたとえ脳や心臓を失っても、魔石が砕かれない限り暴れ続けるのだ。
しかし、登場するのは《未来編》のこと。
まさか《学園編》すら始まっていない入学前の段階で魔獣を見るとは思わなかった。オオカミが火を吐いた瞬間、シャロンは心底驚いた。あれはきっと、魔獣が生まれる前段階の産物だろう。
「オオカミ達の死骸は回収されたのかしら?」
「うん、解剖とか分析に回されると思うよ。贅沢言うなら一頭くらい生け捕りにできたらよかったんだろうけどね。ま、そこは女の子達の安全が優先って事で。」
「何かわかるといいわね…。」
シャロンは険しい表情で呟いた。
未来編に魔獣が登場するのならきっと、今回の件で手がかりを掴めたとしても、一網打尽にはできないのだろう。それともゲームシナリオの入学前にこんな事件は無く、全く違う未来に繋がっているのか。
「……それで、君はアベル様の何を知ってるの?」
チェスターの問いに、すぐには反応できなかった。
つい足を止めてしまったシャロンの数歩先で、チェスターは振り返る。廊下の窓から夕日の光が差し込んでいる。オークションハウスでの話の続きだろうと、シャロンは彼に向き直った。
「あの人…死ぬの?」
どうか否定してほしいと、そう願うような笑みだった。
いつの間に人のいない方へ連れてこられていたのだろう、廊下は静まり返っている。
『貴方が死ぬわけない!!』
シャロンの脳裏には、前世で見たチェスターの悲痛な顔が浮かんでいた。
『俺なんかの剣であんたが死ぬわけないだろ!!俺は……貴方を止めて、それで、アベル様に殺されるために、ここまで……!』
――きっと、想像もしなかったのでしょう。
自然と姿勢は正され、両手はお腹の前で組み、背筋を伸ばして顎は軽く引く。シャロンは目を閉じ、ゆっくりと開いてチェスターを見据えた。
「ウィルがいなくなってしまったら、私達はどうなると思う?」
「…どうって。」
ちらりと、チェスターの目が改めて周囲を確認する。
「そうなればもちろん、アベル様が王になるよね。」
「えぇ。でも彼は望んでいないわね。」
「……だから?あの人は、望んでないからって簡単に投げ出したりしないよ。自分以外にいないなら余計にね。」
シャロンは頷く。
だからこそアベルは王位を継いだのだと、知っていた。
「ただ、王位継承には別枠があるわ。その法律も条件も、公爵家である私達は知っているでしょう。」
「――…冗談でしょ?」
私が言わんとするところを察して、チェスターが顔を歪ませる。
国の歴史上まだ一度たりとも、その別枠が使われた事はない。国民のほとんどはそんな法がある事すら忘れているだろう。
「ウィルを喪ったアベルが玉座に上がれば、待っているのはきっと…そういう結末だわ。」
「……あぁ、なるほどね……。」
組んだ両手に額を押し当て、チェスターはその場に屈んだ。
――王家が全員死亡した場合、王に連なる血筋である五公爵家の一つを、次の王家とする。
「…その場合、アベル様は…そうだよな、ただ死ぬだけじゃ……あー、はは。参ったな。」
シャロンに見えないよう手で顔を隠して、奥歯を噛みしめる。ただの想像力豊かな女の子の話だとするには、あまりにも。
――あの人ならやりそうだって、思っちゃったよ。
「そうならないためにも、チェスター。」
名前を呼ばれて、ゆっくりと顔を上げた。
オレンジ色の夕日が薄紫の瞳を照らし、どこか悲しげな光を宿している。
「たとえ誰に脅されようと、貴方一人で背負っては駄目よ。」
「…どういう意味?」
「貴方はとても妹思いで、私は味方だということ。」
言われた言葉の意味を考えようとしても、よくない想像しか生まれなかった。
チェスターは立ち上がり、くしゃりと髪を掻き上げる。
「君に協力するべきだって思った俺は、間違ってなさそうだね。」
「とてもありがたいわ。私一人では難しいでしょうから。」
「……シャロンちゃんって、ほんと何者?」
苦笑して聞くと、彼女はにこりと笑った。
「ただの公爵令嬢よ。貴方のお友達のね。」




