103.隠しごとの代償
沢山の枝が折れる音と、身体に伝わる衝撃で私は意識を取り戻した。
木々の中を落下していると認識し、一緒に落ちている誰かに思わずしがみつこうとするけれど、それは叶わない。勝手に動くなとばかりにがっちり抱きしめられている。
大人にしては細い腕、恐怖に目を閉じてしまう前に見えた服の色、自分が下側になって庇ってくれていること。
浮かんだ人の名を呼ぶより早く、一際強い衝撃と共に私達の落下は止まった。
おそるおそる目を開ける。
地面に落ちた感覚ではなかった。枝に支えられているだけだ。私が耳をくっつけている彼の胸は少し乱れた呼吸と共に上下し、心臓がドクドク鳴っている。
すうと大きく息を吸って、彼はため息を吐いた。同時に腕の力が緩まり、私はそろそろと顔を上げる。
葉っぱを何枚か頭に乗せて、不機嫌に眉を顰めたアベルが私を見ていた。
「……無茶をするな。さすがに焦った」
「ごめんなさい…ありがとう、アベル。」
「地面までどれくらいある?」
聞かれて、ちらりと下を見る。
奇跡的に引っかかっているだけだから、迂闊に覗き込んだりはしない方がいい。
「二メートルくらい、かしら。」
「なら大丈夫か。降りるよ」
アベルが起き上がりながら私の腰に腕を回す。
飛び降りるのだと思って、背中の怪我は大丈夫なのかと不安になりながら彼の肩にしがみついた。
枝から離れた瞬間に風が私達を包んで、浮遊感の後にアベルの足が地面につく。
ひょいと下ろされた私はぱちぱちと瞬きした。……魔力が尽きたわけではなかったの?
「結構な高さだね」
上を向いてアベルが言う。
同じように見上げてみると、背の高い木々が広げた枝葉に遮られ、崖のてっぺんどころか空もあまり見えなかった。私達が落ちてきたところだけ、歪に穴が空いている。
「ナディア様は大丈夫だったのかしら。思いきり投げてしまったのだけど…。」
「ベアードが間に合ったはずだよ。」
「そう。よかった」
私はほっと胸を撫でおろし、アベルを見つめた。いつも通りしゃんと立っている、けれど。
「…貴方、背中は大丈夫なの?ひどく打ったでしょう。」
彼の頭に乗った葉っぱをそっと取りながら聞く。
もちろん魔力を流して防御していた可能性もあるけれど、彼は自然に止まるまで風の魔法を使わなかった。嫌な予感がする。
アベルは一度瞬いて、私の髪を軽く掃った。こちらも葉っぱをつけていたらしい。
「大した事はないし、自業自得だから君は気にしなくていい。」
「何が自業自得なの?私のせいだわ。ね、せめて座りましょう。」
怪我してないと言わなかった事に「大した事なくない」気配を感じ、私は着ていたジャケットを脱いで草の生えた地面に敷いた。土が露出しているところよりは柔らかいはず。
さぁどうぞと手で示したら、アベルは呆れ顔で自分のジャケットのボタンを外した。
「それは君が座ればい――…」
脱ごうとして一瞬、僅かに顔を歪めたアベルの手が止まった。
私ははっとして彼の腕に触れる。
「…背中、見せて。」
譲らないという意思を込めてじっと見上げると、アベルは諦めたようにふいと目をそらした。
後ろに回ってみると、左腰に折れた太い枝が服を貫通して刺さり、グレーのベストに血が滲んでいる。顔を歪めたのはきっと、ジャケットを脱ごうとした時に枝が引っかかって傷口を抉ったのだろう。思わず息を呑む。
「貴方、これは…」
「抜かなくていいから、引っかかってるとこ外してくれるかな。」
「わ、わかったわ。」
抜けば出血がひどくなる。私は傷に響かないよう細心の注意を払って、枝からジャケットを取った。
穴の空いてしまったそれを地面に放って、アベルはその上に座る。痛々しく枝が突き刺さっているのに、しれっとした顔で。
私はハラハラしながらその横に座った。
……申し訳なくて涙が込み上げてきた。私を庇わなければ、そんな怪我はしなかったのに。
何もできない事が情けなくて、自分の手を握り締めた。
「ごめんなさい、魔力がもうないの…残っていれば、治癒を…」
「怪我の事は謝らなくていい。わざとだよ」
「……わざと?」
「僕は魔法が使えないんだから、この高さで無傷だったらおかしいでしょ。」
「あ…」
そうだ、アベルは魔法を使える事を隠しているから。
だから風の魔法を使わなかっ…いやいやいや!
「し、死んでしまったらどうするつもりだったの!」
「そのまま君に返すよ。」
「はい……。」
私はしゅんと項垂れた。それはもう、その通りだ。
アベルが間に合わなければ十中八九私は死んでいた。魔力もさほど残ってない中で、風の魔法だって使いこなせないのに、崖がどれくらいの高さかも知らず飛び出したのは無謀だった。
「ナディア・ワイラーより君の命の方が重い。騎士達の処分にも関わる事だ。」
少し低い声でアベルが言う。
ナディア様を一人で追ったのも、崖に飛び出したのも私の独断だ。でも死んでいたらきっと、騎士様は守れなかった責任を問われていた。誰の命だって大切なものだけれど、国に与える影響という意味において、命の重さは同じじゃない。
私より、アベルやウィルの命の方が重いように。
「見殺しにしろとは言わないけど、自分が死なない程度に留めるべきだ。公爵令嬢殿。」
「……はい。第二王子殿下。以後、留意致します。」
私は目を伏せ、彼より視線が高くならないよう、座ったまま静かに礼をした。
アベルはそんな私を眺めていたようだけど、一つ息を吐いて目を離す。緊張していた空気が和らいだのを感じて、私は顔を上げた。
「それと、僕は死なない程度には落下速度を緩めたよ。折れた骨も肺に刺さらないようにしたし」
「折れたの!?」
「……折れるでしょ、普通。」
さも当然のような顔でアベルが私を見返している。骨折している人の表情ではない。まさか痛覚が麻痺するくらいに重傷という事かしらと考えて、すぐに思い直す。枝が引っかかって顔を歪めていたのだから、痛みはあるはずだ。
なのに元凶の私は無傷だなんて、ものすごく申し訳ない。
「ごめんなさい、私が落ちたりしなければ…」
「それは否定しない。けど、魔法を使わない判断をしたのは僕だ。自業自得って言ったのはそういう事だよ。それに…」
アベルは私の手を取って、血の跡が残る引っかき傷をじっと見た。
「その判断に君を巻き込んだくせに、庇いきれなかった。」
数秒、言葉が出てこなかった。
自分のほうがよほど重傷なのに、助けてくれたのに、こんな些細な傷を気にして、貴方はそんな事を言うの。
驚いてしまったからか、悲しく思ったせいなのか、胸がぎゅうと締め付けられたように苦しくなる。
ゆっくり口を開いた私は何か言おうとして、勘違いを正すのが先だとはっとした。アベルの手を握り返し、こちらを見た金色の瞳と目を合わせる。
「貴方は私を守ってくれたわ。これはナディア様に引っかかれてしまっただけなの。」
「引っかかれた?どうしてまた。」
予想外だったのか、アベルが呆れたように返した。
「パニックになっていたから、私からも騎士の方からも逃げようとしていて…そういえば、あのクマは大丈夫だったの?ものすごい音が聞こえたけれど。」
「あぁ……あれは火ではなく風を使ってきた。君が聞いたのはタリスが吹き飛ばされた音だね。」
「風を?その、タリス様は…」
「あのくらいでは死なない。」
元々よく知っている間柄なのか、アベルは即答した。
確かにタリス様はとっても筋骨隆々でたくましいお姿だった……とはいえ、木々がバキバキと倒れる音がしていたのに、本当に大丈夫なのかしら。
「むしろ、タリスの目がなくなったから僕が魔法を使えて助かった。剣と矢で応戦してたら、君を助けるには間に合わなかったからね。」
なるほど、だからアベルはすぐにこちらへ駆けつける事ができたのね。
そこまで聞いてふと、アベルが弓を持っておらず矢筒も背負っていない事に今更気付いた。
私の視線で疑問を察したアベルが、聞くより先に「邪魔だから置いてきた」と答える。上で投げ捨てて来たらしい。騎士様が回収してくれているといいけれど。
ジャケットの上で手を重ねたまま、私は背の高い木々を見つめた。
時折ささやかな風の音と鳥の鳴き声が聞こえてくるだけで、辺りは静かだ。アベルが一緒にいてくれるのは何よりも心強いけれど、その彼を治してあげられない事はどうしようもなく私を不安にさせる。
私に魔力が残っていれば、少しは治癒の魔法を使えたかもしれないのに。
頑なに自分で治そうとしないアベルを見て、私は眉尻を下げる。
「……私が治癒をした事にして、治すのは駄目?」
「駄目だ。」
なにも即答しなくたって!
むむむと口がへの字に曲がってしまう私の手を、アベルが宥めるように指先で叩く。
「それは僕が追いつけた言い訳に使う。」
「言い訳?」
「君は咄嗟に風の魔法で落下を緩めた。そのお陰で僕が追いつけたんだ。」
……と、いう事にするのね。
そしてそれ以上に私の魔力が残っていた事にしてしまうと、実際との差があり過ぎる。だから治さない。うぅ…私にもっと魔力があれば。
「わかったわ、もし聞かれたらそのように。」
「…ウィルの方は、騎士を多くつけたから心配するな。リビーもいる」
「えぇ、ウィルならきっと無事でいるわ。」
同行希望の方が多かったせいなのか、アベルへの信頼もあるでしょうけれど、あちらの方が騎士が多い事には気付いていた。
リビーさんの姿を見た記憶はなかったものの、アベルが言うからにはそうなのだろう。
重ねた手が僅かに擦れて、私はアベルを見た。
表情は険しく、汗が首筋を伝っている。痛みが増してきたのだろうか。私は今度こそ自分のハンカチを出して、彼の肌にあてた。額や頬に張り付く髪を指先で避けて、軽くあてるようにして汗を拭う。
もう何も気にせず全て治してほしいと言いたい気持ちをぐっと堪え、涙をこぼしてはいけないと自分を叱咤して懇願する。
「ね…お願いだから、もう少しだけでも治して。見ていられないわ」
「……治し過ぎたくらいだ。」
「なら、せめて目を閉じて休みましょう。今はオオカミだっていないのだし、こちらに寄りかかって良いから。」
私は背中に強く触れてしまわないよう気を付けながら腕を回し、肩をそっと支えるようにしてこちらへ引き寄せた。アベルが朦朧として抵抗しないのをいいことに、もう片方の手で彼の頭を私の肩口に乗せる。
「…何かあれば絶対に起こせ。一人でやろうとするな」
「わかったから。ね、少しは私にも責任をとらせて。」
その言葉に返事はなかったけれど、重たくなった身体を肯定と受け止めた。
風がざわざわと木の葉を揺らしている。
少し頭を傾ければそれだけで柔らかい黒髪に触れた。もう何度彼に守られたかわからない。ゆっくり瞬きをすると、一筋の涙が頬を伝う。肩を動かさないよう気を付けて深呼吸をする。
ジャケットの袖から細身の投げナイフを二本取り出して、周囲に視線をはしらせた。




