102.うちの殿下はわかってない
食事会が行われる予定の、コテージの玄関先。
「ンッフフ。」
百九十センチはあるだろうか、長身の騎士が満足そうに笑みを漏らした。
薄緑の髪は肩につく長さで、前髪を後ろへ流してハーフアップにしている。楽しげに弧を描く目は常に閉じているかのようだった。第二王子アベルの護衛騎士、ロイ・ダルトンその人である。
「笑ってる場合なのかなぁ、これ…。」
「おや、不満がおありですか?」
「ロイさん、わかってて言ってるでしょ。」
屋根の上に危なげなく立ち、チェスターは赤茶色の髪を掻き上げた。汗ばんだ額を自然の風が優しく撫でていく。
空は晴天のままでなんとも気持ちがよいものだが、ついと視線を下に向ければ、コテージの周囲は血肉に塗れていた。
「食事会、無理だね。女の子達気絶しちゃうよ。」
「フッ!ンッグフ、ンッフフフフ…」
若干咳き込みながら背を丸めて笑うロイの周りで、庭や玄関先同様に赤黒く汚れた騎士達が収拾に向けて動いている。
コテージ待機組の護衛を任された中で、衣服に汚れがないのはチェスターくらいなものだった。
炎を吐くオオカミ十数頭に襲われ、令嬢達は即座にコテージの中へ閉じ込めた。
敵は前からばかり来てはくれなかったため、チェスターがいち早く屋根に上がって周囲の消火を引き受けていたのだ。
改めて火の残りがない事を確認して飛び下り、チェスターは風の魔法を使って着地する。
「ちょ~っとやり過ぎじゃないですか?ロイさんなら普通に倒せましたよね。」
「えぇ、まぁ、少々騒がしかったものですから。ねぇ?」
ロイはくすりと笑い、ちらりとコテージを見やる。
細い目の中にある瞳はチェスターから見えないものの、首の振りでなんとなく言わんとしている事は伝わった。血肉の飛び散ったコテージの窓の中には誰もいない。
戦闘が始まった当初は確かに騒がしかった。
閉めろと言っているのに二階の窓を開け、騎士やチェスターの戦いにキャアキャアと悲鳴や歓声を上げる令嬢が数名いたのだ。
ちょうど窓の下で戦っていたロイは、彼女達が言う事を聞かないと見るや風の魔法で強引に窓を閉じた。ぎょっとする令嬢達に微笑みを向け、閉じた窓の前へ魔法で捕らえたオオカミを浮かべ――《圧縮》を見せつけた。
もちろん、令嬢の声はそれきり一言も聞こえなくなった。
その後は同行からの脱落組が計三人、それぞれ騎士と共にコテージへ駆け込んできた。
既にオオカミに遭遇してパニック状態の彼女達は騎士に抱えられていたが、この付近の惨状を見てとうとう気絶に至った者もいた。
他には脱落組の安否確認で下りて来た騎士が一人ずつ加わり、事後処理を手伝ってくれている。
「にしても、オオカミが棲んでるって話からして無かったですよね?」
「事前調査では影も形もなかったはずです。」
「当然、誰かがやったとして…どっちが狙いだったんですかね。」
信号が上がっていた空を見つめ、チェスターが呟く。
ウィルフレッドとアベル、どちらの一行も戦闘に入ったようだった。特にアベルが向かった方角から轟音が聞こえた事が気になる。オオカミが出ただけではそうはならないだろう。
「さぁ?お二人が戻ったらわかるかもしれませんね。」
ロイは薄く笑みを浮かべたままで、誰を心配している様子もない。
「おいダルトン!お前がやったんだからさっさと手伝え!」
「フフッ、仕方ないですねぇ。」
騎士の一人に怒鳴られてまったり歩き出した彼を見送り、チェスターはアベルとシャロンがいるであろう方を見上げる。
――今回の準備が忙しくて会えてなかったけど…先にシャロンちゃんと話すべきだったかな。
『アベルだって、死んでしまうのよ。チェスター』
オークションハウスでそう言ったシャロンの姿を思い出し、胸がざわついた。
出発前に見たシャロンはわくわくした様子だったので、彼女もきっとこんな襲撃があるとは知らなかっただろう。
予測という意味ではもう一人心当たりがあるものの、そちらも特に何も言っていなかった。
カタン、と音がして、チェスターは振り返る。
血のついた二階の窓を内側から指で押しやって、優雅に扇子を広げたクローディア・ホーキンズ伯爵令嬢がこちらを見下ろしていた。その横からひょこりと顔を覗かせたノーラ・コールリッジ男爵令嬢が、周囲の惨状を見て顔を引きつらせる。
仰け反ったノーラの肩にクローディアが優しく手を添えた。部屋に戻るのは許さないらしい。
「まぁ、チェスター様。お一人だけご無事なようで。」
「さぼってたわけじゃないからね?消火メインだったの、俺は。クローディアちゃんこそ、読めなかったの?」
「残念ながら。力不足で申し訳ない限りです。」
微塵も申し訳なく思っていないだろうとわかる落ち着きようで、クローディアは長い睫毛を伏せる。
彼女の《先読み》は《未来視》とも呼ばれる非常に珍しいスキルだが、当たり外れがある。未来は固定されたものではないからというのが通説だ。
「わたくしが見たのはただの闇。何も見えなかったに等しい結果でした。」
試してはいたのかと、チェスターが僅かに眉を上げる。
クローディアにその仕草は気付かれなかったようだが、彼女はふうと息を吐いて言葉を続けた。
「念のため、殿下にだけはお伝えしておりましたが。」
「…そうなんだ。」
クローディアの言う「殿下」は当然、アベルの事だ。
チェスターは詳細を知らないが、彼女達はアベルに恩があるらしく、度々彼に協力している。ノーラは面倒事を嫌がりつつも渋々、といった様子ではあったが。
《ロイーーーーッ!!!》
独特な反響を伴って、リビーの大声がチェスターの鼓膜を揺らした。
「っ、なんだ!?リビーさん!?」
慌てて振り返ると、一人の騎士が鏡を抱え、片耳を押さえながら山道を駆け下りてくる。遠距離連絡用の魔法の鏡だと察して、チェスターはそちらへ走った。
珍しく笑みの消えたロイが先に到着し、騎士から鏡を奪い取る。
「どうしました、リビー。」
《シャロン・アーチャーが崖から転落し、アベル様がそれを追われた!私も行く、お前もすぐに来い!!》
「なるほど、わかりました。」
「シャロンちゃんが転落!?」
唖然として聞き返すチェスターに鏡を押し付け、ロイが走り出す。
同時に水面からリビーの姿が消え、後ろにいたウィルフレッドとサディアスが茫然と彼女を見送った。
「チェスター、後は任せます。宣言――」
「ロイさん!?場所まだ聞いてない…」
「風は空へ、遠き地へ。」
一際強く地面を蹴ったロイを強風が押し上げる。
誰が止める間もなく、二人の護衛騎士は主の下へと飛び立っていってしまった。
「えぇ~…崖から転落って、シャロン様大丈夫なのかなぁ……。」
騒ぎを聞いていたノーラが、丸眼鏡をかちゃりとかけ直して不安げに眉を寄せる。
ウィルフレッド達と情報共有するチェスターを見下ろしたまま、クローディアは目を細めた。
今回アベルから依頼されていたのは、食事会での各令嬢達の会話内容に気を付ける事だ。
特に、シャロン・アーチャー公爵令嬢について誰が肯定的で誰が否定的な様子だったか。クローディアがノーラに事前の面通しをさせたのも、それとなく手伝わせるためだ。
令嬢の人数が多いため、食事会ではクローディアは常にアベルから遠い位置を取り、彼の耳に届かない会話を押さえておくつもりだった。もっとも、この状況では食事会など開かれないだろうが。
『彼女の評判が知りたい、という事でしょうか?』
ノーラに茶会への招待状を渡す前日――ホーキンズ家の応接室で、かの王子はソファに座り優雅に脚を組んでいた。
『特務大臣の娘だ。彼女への態度で、各家の考えが見える事もあるだろう。』
クローディアはゆったりと瞬きして肯定を示す。
かつて、アベルはフェリシア・ラファティ侯爵令嬢に指示を出した。シャロン・アーチャーと親しくなり人柄を確認すると共に、彼女がどこぞの令息に絡まれるようなら助けてやれと。これは恐らくその続きなのだろうと予想できた。
妃候補を内密に見定めるかのような指示――しかし、それがアベル自身の妃候補であるという可能性は、クローディアは低く見積もっていた。
そして現に今日、シャロンに選ばれたアベルは「何故だ」という顔でウィルフレッドを見やった。やはり兄の妃候補としてシャロンを探っていたのだろうが、彼女に気に入られてしまったのはアベルだったというわけだ。
――お優しいのですから、その気がないなら気を付けて接しなくてはなりませんよ。殿下。
扇子を広げて表情を隠しながら、心の中でくすりと笑ったものだった。
崖に落ちた彼女をアベルが追ったというのなら、まず間違いなく救っているだろう。そうしてますますシャロンはアベルに惹かれてしまう、とは《先読み》がなくともわかりきった事だった。
パチンと扇子を閉じ、クローディアは山道の先を見つめる。
シャロンは明るく優しい子で、好ましい令嬢だ。勤勉な努力家でもあり王妃教育も順調だと聞く。茶会でも様子を見たが、友人付き合いと女社会の付き合いの差も理解している。
まさに、ウィルフレッドの妃に相応しい。
「ま、殿下が一緒に落ちたんなら大丈夫ですかね。クローディア様。」
「……えぇ、そうですね。」
「最強の王子様ですもんねぇ。」
窓枠に両腕をついたノーラの薄茶色の髪を、風がふわりと揺らす。
朱色の瞳はどうやら、チェスターの周りに集まる騎士達を見ている。信頼ゆえにか、アベルの心配はしていないようだ。
「殿下、これを機にシャロン様とお近付きになれるといいですね。」
「ふふ」
見当違いな事を言うノーラに、クローディアはつい笑みを漏らす。
もしシャロンがアベルを好きになってもそれは本人の自由だが、果てが失恋と決まっていては少々可哀想だし、アベルも今日以上に困惑するだろう。
「素直じゃないんですよね。見ました?シャロン様に選ばれた時の顔!」
「見ました。」
「女の子が勇気出してるっていうのに、しかめっ面はないですよね!そういうとこがなぁ、うちの殿下はわかってないですね、まったく。女の子の気持ちってやつ、ちょっとは教えた方がいいのかなぁ。」
ぺらぺらと話すノーラを横目で見やり、クローディアはうっそりと微笑んだ。
「やめておきましょう。」
「…クローディア様、さては面白がる気ですね?」
「面白がるなんて、そんな。単に不要と思っただけですよ。」
「ほんとですかぁ~!?」
くるりと踵を返せば、大げさな声を上げていたノーラが慌てて後ろについてくる。
小鴨のようで愛らしいこと、と思いながら、クローディアは第二王子の姿を脳裏に浮かべた。
王妃殿下譲りの艶のある黒髪。六つも年下とは思えない、大人びた冷淡さを持つ切れ長の目。全てを見透かすような金の瞳。
――貴方様は輝かしい星。
他を圧倒する力、鋭い思考。王よりも皇帝という呼び名が相応しく思える、強い意志。弟を救い出してくれたあの夜、クローディアは生涯彼に仕える事を心に誓った。
何よりも貴い主君。神聖なる唯一。
そう、だからこそ彼は。
――誰のものにも、なりはしない。
この時クローディアが浮かべた笑みを、誰も見てはいなかった。




