9.その味を飲み込んだ。
「百三…百四、百五…」
一心不乱に剣を振っていると、あっという間に汗が噴き出してくる。
私を見守るメリル達は、最初こそキリの良い数に来る度「休憩されては」と心配していたけれど、今では私が自ら止まるまで待ってくれている。
「百二十!…百二十一、百二十二…」
目の前の空間を睨みつけ、レナルド先生の言葉を反芻しながらひたすらに真っ直ぐ。
集中が途切れると一気に力が抜けてしまうから。自分を追い込んだ時こそ己の弱さがよくわかる。
休んでしまいたいと叫ぶ心を叱咤して、さらに剣を振った。
ガシャン。
庭の柵に何かがあたった音。
反射的に見上げると、ちょうど飛び乗ったばかりらしいアベルがこちらを見下ろしていた。
「あ……ッ」
声を上げてしまいそうだった侍女達が口を噤む。アベルが人差し指を唇にあてたからだ。高い柵を彼は平然と飛び降りて、すたん、と軽やかに着地した。
三つも歳上で背も高いチェスターがやるのと貴方がやるのでは、全然難易度が違うはずなのだけれど。
「僕が来た事は内密にしてくれる?あの執事に会いたくなくてね。」
「…わかったわ。」
メリル達にちらりと視線をやって、皆が頷くのを見てから視線を戻す。アベルは冷ややかな目をして私の手元を指した。
「何に驚いても、剣から手を離したら駄目でしょ。」
「えっ…あ!」
言われるまで気付かないのも駄目ね、私の手は空っぽになっていた。レナルド先生から借りた剣は芝生の上に落ちている。
私が慌てて拾い上げるのと、侍女達が紅茶をティーカップに注ぎ始めるのは同時だった。元々、私が望めばすぐ休憩できるようにと、テーブルセットを準備してくれていたのだ。
「急に来てどうしたの、アベル。……というか、どうして貴方達は柵を越えて来るの?流行りなのかしら。」
「達?…あぁ、チェスターか。この裏がちょうど通り道だから仕方ないね。」
アベルはどうでもよさそうに言う。
屋敷の正面側ではないから、脇道にあたると思うのだけれど…そんな所を通ってどこへ行くのだろう。もしかして適当に言っていないかしら。
「シャロン様、こちらを。」
「ありがとう」
メリルが渡してくれた濡れタオルで手を拭い、もう一枚乾いたタオルで額の汗を拭く。
自分の庭のように気楽な足取りでテーブルへ向かうアベルは、やはり今日も腰に剣を提げていた。
「ベインズの教えを受けているらしいね。」
椅子に座ってすぐ、アベルはそう言ってこちらを見やる。
私は向かいの椅子に座りながら頷いた。
「えぇ、お仕事から離れる短期間だけ…という約束だったとは、私は後から知ったのだけれど。」
アベルも知り合いなのね、と少し驚いたものの、ちょっと考えればすぐに納得した。
レナルド先生が言っていた「チェスターは職場に来る事がある」というのは、アベルの用事で来ていたのだろう。
「…もしかして、アベルも先生の教え子なの?」
ふと思いついて聞いた。あり得ない話ではない。ゲーム中、剣術でも圧倒的な強さを見せたアベルだけど、その理由については語られていなかった。優秀な師の存在があったとしたら。
アベルは紅茶に角砂糖をポトリと入れて答える。
「確かに手合わせした事はあるけど、お互いそんなつもりはないと思うよ。」
「そう…」
違ったようだ。
ちなみにどっちが勝ったのと聞いてみたけれど、アベルは軽く笑っただけで答えてくれなかった。スコーンを上下に割りながら彼が聞く。
「それで?何で君は急に鍛え始めたのかな。」
「もちろん、守るためよ。」
それ以外にあるだろうかと、少しきょとんとしてアベルを見つめる。
彼の視線は取り分け中のジャムとクリームに向いたままで、言葉の続きを待たれていると考えた私はまた口を開いた。
「…貴方達は、命を狙われる事もあるでしょう?これからも一緒にいるのだから、私だって力がなくては。」
「自分の身は自分でと?」
アベルは短く息を吐いてスコーンにジャムを、続けてクリームをつける。ウィルとは逆の順番だ。
「えぇ。そしてできるならもちろん、貴方達の事も。」
「ふぅん」
なんの期待もない声色。
本気と思われてないかのようで少しだけ気落ちしてしまうけれど、それも当たり前ね。彼は既に大人より強く、私はまだまだ弱い。
アベルがスコーンを口へ運び、ちらりと見えた歯の奥に赤い舌が見え隠れした。私はテーブルの上で両手を軽く握り締める。
「もしもの時……自分に力が無いせいで誰かが傷つくのは、嫌だもの。」
ウィルは、友人である私を大事にしてくれている。
私が弱くては人質にされたり、逃げる時に出遅れた私のせいで不利になったり。まずい状況はいくらでも考えられるもの。そんな時に手を煩わせないように。
咀嚼していたものを飲み込んで、アベルは紅茶を喉へと流した。
「…まぁ、君が危機感を持つのは良い事だよ。」
カップをソーサーの上へ戻し、そう言って立ち上がる。
もう帰るのかしらと思ったら――
私の首に、刃が突きつけられていた。
「シャロン様!!」
メリルが飛び出して来ようとするのを、手のひらを向けて止めた。
射抜くような金色の瞳を見つめ返し、それでも私の背中にどっと冷や汗が噴き出して心臓はバクバク鳴る。全く反応できなかった。
鞘から剣を抜く瞬間も、それをこちらへ向ける動作も見えなかった。
彼は、私なんていつでも殺せるのだ。
「――失礼。」
静かに、アベルは剣を引いた。
目礼して刃を鞘に納めるまでの動作は、厳格な騎士のようで。
彼が口元に笑みを浮かべた途端、張りつめていた空気は消えた。
「鍛えるのもいいけど、自分の力量は常に弁えておくといい。下手な手助けほど無駄なものは無いよ」
「……はい。」
アベルの言葉を真摯に受け止める。
彼の懸念はもっともだ。もし私が、多少訓練したからと慢心して飛び出せば――そこには、悲惨な結果しか残らないでしょう。
やり遂げるだけの実力が伴わないなら、手を出さずに任せる事も大切だ。
私の答えに満足したのか、アベルは瞬きと共に小さく頷いた。
「君が本気でよかったよ。中途半端な足手まといはいらない」
「えぇ。…貴方ほど強くなれるとは思っていないけど、使えるくらいにはなるつもり。」
「まさか、将来は騎士?」
「決めてないけれど……案外、それも悪くないかもしれないわね。」
もし大人になるまで私が生き残っていたら、それは事件を越えた後の話だ。
ウィルも、アベルも、チェスターも。まだ会えていない彼も、皆との未来だったら。
結婚して女主人として家を守るのも、静かに暮らすのもいいけれど。
皆がいるこの国を自分の手で守れるのなら、それはそれでとても素敵な事だと思う。
「変わってるね、アーチャー公爵のご令嬢は。」
「そうかしら?」
「…血筋か。」
「なぁに?」
「何も。」
私は首を傾げたけれど、聞き逃した言葉を言い直してくれる気はないみたい。
アベルは席に戻ると残りのスコーンを手に取る。……やっぱり、食べる度にジャムとクリームの順番を交互にするのね。そこはウィルと同じ。
自分のスコーンをぱかりと割りながら、私はふと疑問に思った事を口にした。
「貴方は、将来何になりたいの?」
「は?」
入学もまだの子供に対する普通の質問、だと思うけれど……眉間に皺を寄せて聞き返されてしまった。
能力が高い分、貴方自身はどう考えているのかしらと思って…。
「聞いたら駄目だったかしら……。」
怪訝な顔をするアベルの視線につい、しゅんと眉尻が下がってしまう。
返ってきたのは呆れ声だった。
「君…城中の誰もが避ける話題を、よくそんな気軽に投げられるね。」
「避ける?」
「まぁ、子供だからな……。」
貴方も同い年のはずなのだけれど。
アベルがため息まじりに吐いた呟きに不満を感じつつ、私はジャムとクリームをたっぷりつけたスコーンを口に運んだ。
「……この前会った時に聞いた言葉、覚えてるよ。」
アベルがぽつりと言う。
ここでウィルとお茶をした日に彼が乱入してきた時だろう。
「僕に面と向かってあんな事を言ったのは、君が初めてだった。」
別れ際、貴方に追い詰められた私が言ったことね。
『だって――王になるのは、ウィルだもの。』
金色の瞳が、楽しそうにこちらを眺めている。
「君なら、僕の未来をどう思う?」
質問をそのまま返されてしまったわ。答えてくれないみたい。
私は咀嚼していたものを飲み込むと、頬に手をあてて「そうね」と呟いた。
王位を継いだアベルは国の在り方を変え、「皇帝」として君臨する。
けれどそれは……失ったから。
裏切られて、失って、それでも守ろうとして、自分がその位置に立つ事を選んだからだ。
――失わない未来だったら、彼はどうしたのだろう。
目の前にいる少年をじっと見つめる。
手はとっくに血で濡れているのだろう。自分が陰で何と言われているかも知っているのだろう。
でも貴方はきっと…
「…貴方は、騎士団長になるわ。」
はっきり口にすると、アベルが僅かに瞠目した。
そして――…
「あっはははは!」
こちらがポカンとするほど豪快に笑い出す。
王子でなければお腹でも抱えていそうな勢いだわ。かなり珍しい光景では?
「なるわと来たか!はは、これはまた、ウィルもすごいのを見つけてきたね。」
「そんなに可笑しいかしら?」
結構、いえかなり、妥当だと思うのだけれど。
同意を求めるべく壁際に待機する侍女達を見ると、全員目をぱちくりさせていた。口を真一文字に結んで、今にも「お、お嬢様…」と戸惑いに満ちた声が聞こえてきそう。
「それはね、まぁ、僕は王位継承権がないからこそ、大体の人は気を遣うよ。」
「!いえ、そんなつもりで言ったわけではないのよ。」
貴方じゃ王になれないでしょ、なんて貶めたつもりは全くない。
前世ではむしろ貴方が頂点にいる未来ばかり見ていたのだから、王位継承権がどうのなんて全く関係ないのだ。
予期せぬ誤解を生んでしまったけれど事情は話せない。
おろおろしていると、アベルは「わかってる」と言って笑いをおさめた。
「今日来たのは正解だったな。君と話せてよかったよ」
「私も会えてよかったわ。噂通り、本当に強いのね。」
子供とは思えない動きだった。
それを見る私の目がまだ未熟だから――という以上のものがあった。大人でも勝てないという噂も本当なのでしょう。今の時点で噂が広まっているのだから、最初に負かしたのはもっと前のはずだ。本当にすごい。
ゲーム中では一切語られなかった、彼が強い理由。
何かあるのかしら、「ラスボスだから」という事以外に。
「…どうして、そんなに強いの?」
そう、聞いてはみたけれど。
やっぱり彼は、笑ってこう言った。
「さあね。」
綺麗に片付いた皿とカップだけ残して、立ち上がる。
今度こそ帰るつもりだろうと、見送りのために私も立ち上がった。…これ、ちゃんと玄関から帰ってくれるのかしら?
「じゃあ、またいつか来るよ。」
「えぇ、ぜひ。楽しみにしているわ」
「シャロン」
初めて呼ばれた名前に、私を導く手の動きに、足が自然と前へ出る。
腕を引かれて、耳元で声がした。
「君の言う未来も悪くない。――内緒だけどね。」
手が離れて、アベルは一度だけ微笑んでから私に背を向けた。
そして高い生垣と柵がある方へ軽く助走して――タン、と芝生を蹴る。
ガシャン。
たった一度のジャンプで柵の上まで飛び上がった彼は、振り返る事なく向こう側へ飛び降りていった。




