第60話 覚醒
私を宥めるように、そっと肩に触れるニケは、別人のようだった。
森で傷を負ったハティに薬を分けてくれた時とは、また違う雰囲気を漂わせ、ただ優しく私に言葉をかける。
にっこりと微笑むニケの表情は、血と煙の臭いに包まれる戦場にあまりに似つかわしくなく、彼がまるで別世界の人のようだ。
「アセナ、ハティを下がらせてもらってもいい?」
本当は引き止めたかった。彼を死なせたくはなかったから。でも引き止めたところで私たちにはもう何もできない。
ニケにまだ方法が残っているというのなら、生き残るためにはそれに賭けるほかなかった。
私はニケの言葉に従い、ハティを呼び戻す。
「この短剣であのオオカミに傷をつけることができたら、僕はあそこに見えている岩の上に行くよ。
それを合図に、毒が回るまで何とか耐えてもらいたいんだ。」
「任せて、ニケ。僕とハティで巨大オオカミは、必ず食い止める。
アセナさん、回復のスキルはまだ使えますか?」
「えぇ。あと数回なら問題ないわ。」
私の言葉を聞き、満足気に頷いたニケは、特に短剣を構えるでもなくただ静かに巨大なオオカミに歩み寄る。
巨大オオカミもその行動に不信感を抱いたのか、これまでに一度も見せなかったほど強い警戒心をむき出しにしている。
ニケが何をしようとしているのかわからないのか、目が見えない不安も相まってか。ひたすら威嚇し続けるだけで、動こうとはしない。
ニケが巨大オオカミの鼻先に触れるのではないかという距離に到達したとき、ニケの姿は消えた。
いや、ちがう。上に跳躍したんだ。
しかしそこは匂いで獲物を捕らえるオオカミ種。巨大オオカミはニケが上にいるとすぐに気がついた。
あれは……、石????
ニケは自身の着ていたシャツで、いつ拾ったのか、やや大きめの石を包み、茂みに向かって投げつけた。
その行動の意味はすぐに分かった。
背後からニケの体臭と着地音がしたためか、巨大オオカミがそちらに大ぶりな噛みつきを行ったのだ。
ところがそこにニケはおらず、あるのは先ほどニケが投げ石だけ。
思わぬところで攻撃が空を切った巨大オオカミは、バランスを崩して地面を滑る。
そんな巨大オオカミの首元に、ニケはナイフを振るが、ギリギリのところで巨大オオカミはニケの攻撃を躱した。
そのやりとりのスピードに、見ているだけなのにおいて行かれそうになる。
だがそんな心配はすぐに必要なくなった。決着はほんの瞬き一回の間。
ニケの攻撃を躱したと思っていた、巨大オオカミと私たちは、驚愕した。ニケが攻撃を仕掛けたとき持っていたのは、先ほど私を庇った際に折れてしまった方の短剣だったのだ。
つまり、その攻撃は外れる前提。
避けたと思って油断した獲物に、毒牙はすかさず突き立てられた。
「ギャンッ!!」
さらに驚いたことに、ニケが振り下ろした黒死蛇の牙はなんと、巨大オオカミの上顎を貫通し、下顎おも貫いて、その鼻先を地面に縫いつけた。
ニケは再び消えるようなスピードで横に飛び、宣言通り岩の上に移動する。
表情、動き、戦略。そのどれを取っても、いままでのニケとは全く別の何かだった。
思わず呆けそうになったが、岩に着地したとたんニケの体はぐらりと揺れ、音を立てて落ちてしまったことで、我に返る。
「ニケ……!!」
ニケをゆっくり起こすと、失神してしているのか、力なく私に体を預ける。
さらに全身が痙攣しており、今までとは一線を画す症状が出ていた。
かなりの上空に跳躍して舞い上がっていたため、その影響が大きいのかもしれない。
もしかしたら、後遺症が残るかも……。
私は慌てて回復のスキルをかける。
何事もなく回復して。どうか、どうか!
「グルゥゥゥ!バフッ!!!」
地面に縛られたままの状態で、巨大オオカミは低く唸り声をあげた。すると周囲にいたオオカミの集団が、一気に私たちに襲い掛かってきた。
ハティが弾かれたように飛び出し、私とニケに襲い掛かるオオカミからひたすら私たちを守ろうとするが、あまりにも数が多すぎる。
月下狼も多く混ざっており、ハティだけは限界がある。私も銀笛でなんとか急所は守っているが、私もニケもあちこち噛みつかれ、ひっかかれてあっという間に傷だらけだ。
「くっ……、もう少し!弱ってきてるよ!がんばって!!」
アゼスという冒険者が声を上げる。彼も私たちのもとに合流し、二人とハティでニケを中心とした円形に範囲をカバーしあうことで、なんとか耐えている状態だ。
一人でも倒れたら瓦解する。
スケルトンが無限湧きする罠部屋で、焔の巣とニケが窮地に立たされていたのを思い出した。
あの時は、罠部屋の外から「何をやっているのだろうか」と眺めていたけれど、なるほどこれは確かに、目の前の敵から身を守ることで手一杯になるのも、仕方がないわ。
――なんて、これが走馬灯というものかしら。
おそらくこの中で最も体力がないであろう私は、もはや痛みと流れ出た大量の血で意識が朦朧としていた。
せっかくニケが繋いでくれた希望だったのに……。
私たちはもうだめなのかしら。
「諦めちゃ駄目だよ、アセナ!」
背中に感じる温もりに、飛びかけていた意識が戻ってくる。
「頑張って、負けないで!」
「ニケ……。えぇ、そうね。そうよね。」
ニケの手元に武器はないが、石を拾って何とか防御している。
4人態勢になったことによる好転は無いに等しいが、ニケが無事に起きてきてくれたというだけで、私はまだ頑張れる。
まだなの……?まだあの巨大なオオカミは死んでいないの?
ニケが短剣を突き刺してから、もう長いこと耐えていたはず。それなのに一向に減る気配のないオオカミ種の群れに、私は本当にこのまま毒で巨大オオカミは倒せるのだろうかと心配になってきた。
そのころだった。
「『俺が相手だ』!!!」
「ニケ!!アゼス!!無事か?!?!」
この声は……!確か、アゼスのお仲間二人の声だわ!
「リュウ!ゴーシュ!!!」
ゴーシュと呼ばれた彼のスキルなのか、月下狼を除くオオカミ種が全員、ゴーシュの方へ威嚇を始めた。
そのおかげで攻撃してくるオオカミの数がドッと減り、加えてリュウと呼ばれた赤髪の青年が、周囲のオオカミを剣士系のスキルで追い払ってくれる。
二人が質の良い回復薬を何本か持ってきてくれたおかげもあり、私たちはその後何とか持ち直した。
そして空が白んできたころ、ようやくこの猛攻が収まったのだった。




