第56話 夜はまだ続く
「ブツブツブツブツ…………」
僕とアセナは周囲の気配に注意しながら必死で走っている。ところがその後ろで、ブートレストはずっと文句を言っていた。
「…………っ!
ブートレスト卿、失礼を承知で申し上げます。少し黙っていてくたださらないかしら?
今は周囲に気配はありませんが、声を出していれば魔物に見つかる可能性が高くなりますのよ。」
「うるさいぞ!ボクに命令する気か!?ボクは現役の貴族、貴様は潰えた家にいただけの平民だ。逆らったらどうなるか、わかってるんだろうね?」
もういい加減に我慢ならないといった様子で、アセナが注意すると、ブートレストは大声で怒鳴り散らした。
失敗した、と眉を寄せて口をつぐむアセナの眼は、冷え切っていた。
「どうしてボクがこんな目に……。どいつもこいつも、役立たずめ!」
ブートレストが唾を吐きながら喚いた時だった。
ギャアアアアアアアアア!!!
森中に響き渡る轟音。
「っ?!な、なに?!」
「オオカミの悲鳴……?まさかあの男、あの巨大なオオカミをやったのかしら?」
僕らは思わず立ち止まり、声が聞こえた方へ意識を向けた。
賊の男があのオオカミを倒したのだろうか?
だとしたら彼が僕らを追いかけてくるはず。
森の気配に前意識を集中させる。期待交じりの緊張した雰囲気が、僕らの間に漂っていた。
「…………っ?!逃げるのよ!」
最初に気が付いたのはアセナだった。次いでブートレストも気が付いたのか、顔を真っ青にして走り出す。
僕はなにが起きたのかわからないままアセナに従って足を動かしたが、しばらく走ってから合点がいった。
背後から迫ってくる足音は、相当な重量を伴った4足歩行で、賊の男の物ではなかったのだ。
追いかけてきたのは、賊の男ではなく巨大なオオカミだった。
「オォォォォン」
空にまで届くような遠吠え。その声に呼応するように、周囲からは今までに僕らを襲った3種類のオオカミの群れが大量に並走しはじめた。
僕らも必死に走っているが、オオカミの速度には負ける。かなり距離があったはずなのに、既に巨大なオオカミはこちらから確認できるほど近くに迫ってきていた。
「頑張るのよニケ!ほら、走りなさい!」
アセナが僕の手を引いてくれる。おかげでブートレストの前に出たのだが。
「そ、そうだ……!へ、へへへ……あははははは!おいゴミムシ、ボクの役に立て。」
へっ……?
ブートレストの狂気じみた笑いに驚き、振り返ろうとした瞬間、後ろから強い力で襟を引かれた。
反射的に踏ん張ろうとした足も、何かに引っかかって浮いてしまう。
それが彼の足だと認識した時には、視界が空転して彼の卑下た笑みも引き伸ばされる。
そのまま重力に任せ、僕の体は地面に転がった。
「っ!!ニケ!!!!」
僕が止まったことで、巨大オオカミとの距離は急激に縮まる。
アセナがこちらに走ってくる気配を感じているが、僕は目の前に迫った巨大オオカミの姿がスローモーションで見えていた。
————っ!
死を覚悟した。
ブートレストの嫌な笑いが頭に響く。アセナが悲鳴じみた声で僕の名前を呼ぶ。
体が動かない。
「っ!ニケ!!!」
「『火球』!!」
ボッと音をたて、飛来した炎が僕の前ではじけた。巨大オオカミは当たりこそしなかったが、避けるために飛びのいたのか、僕から距離をとっていた。
僕とオオカミの間に、火が揺らめく。
「ニケ!よかったわ。あなたは……。」
アセナが僕を起こし、その人影に声をかける。
木々の隙間から姿を見せたのは、アゼスさんとアセナの従魔であるハティだった。
「アゼスさん!ハティ!」
アゼスさんが僕と巨大オオカミとの間に入って僕らを庇う姿勢をとり、ハティは怪我を押して走ってきたのか、荒い息遣いでアセナのもとに倒れこんだ。
「よかった、間に合った!大丈夫かいニケ。
アセナさん、すみません。ハティがここを教えてくれたんです。彼の傷が……その……。」
言い淀むアゼスさん。その視線に倣ってアセナのひざ元にいるハティを見ると、傷口からは未だに血が流れ出ており、もはや生きていることも不思議だといってもいいレベルだ。
「そうだったのね……。ハティ、あなたは本当にいい子ね。いま回復魔法をかけるわ。」
アセナが優しくハティの傷を撫でる。するとハティの荒かった息は次第に整い、傷も徐々にではあるが、小さくなっていく。
完全に治りはしなかったがある程度は塞がり、既に多少走る程度ならば大丈夫そうだ。
「な、治った……。」
「私たちテイマーは、従魔を強化するスキルを持っているのよ。主人の近くにさえいれば、力やスピード、回復できる傷の深さも変わるわ。
ハティはそれをわかっていて、私の元まで駆けたのね。」
「そうだったのか。あれ?それなら先日、回復できなかったのはどうして?」
「うっ……。ま、魔力も薬も切らしてしまったのよ!仕方がなかったの!だってあんなに大きなオオカミがいるだなんて聞いていなかったんだもの。
…………って、そうよ!呑気にお話している場合ではありませんわ。」
アゼスさんとアセナのやり取りを、僕はハティの塞がっていく傷を眺めながら聞いていたが、突然アセナがハッとして立ち上がった。
いつの間にか巨大なオオカミは目の前から姿を消し、周囲のオオカミの気配もなくなっていた。
だからのんびりと会話してしまったが、僕らは知っている。
これは本当にどこかへ行ったのではなく、奴らは暗がりから虎視眈々と僕らを狙っているのだと。
再び緊張が走り、ハティもアセナを守るように立っている。
「アセナさん、僕の攻撃は魔法専門で……。多数の近距離特化型を相手にするには向いていないんです。
なので魔法で牽制しながら、森の外まで逃げ切りましょう。魔力の回復薬は一応数本持っていますが、念のため節約してください。」
「えぇ、わかったわ。ニケ、走れるかしら?」
「だ、大丈夫、だと思う。」
立ち上がって足首や股関節に痛みがないことを確認し、心配そうにのぞき込むアセナとアゼスさんに問題ないと返す。
「ハティも、もう少し頑張って頂戴。」
「わふ」
低く鳴くハティは、力強く地面を蹴った。それを合図に、僕らも駆け出す。
長い夜はまだ、明ける気配がない。




