第5話 開戦
パライさんに背中を押され、パーティーの庇護下から外れ、前に出る。
より一層強く唸るオオカミに対峙して、鞘から抜けずにいる短剣を落とすまいと、懸命に抱きかかえる腕は、ひどく震えているのが感じられた。
「いいかい、背中を見せちゃダメだ。敵に不用意に背中なんて見せたら、相手の方が弱いのだと思って、一気に距離を詰めて、襲いかかってくるからね。真っ直ぐ目を見て。そらしたらダメ。大丈夫、相手をよく観察すれば、何も怖いことはないからね。」
僕に語りかけてくれるパライさんの声が、どこか遠くから聞こえている。
言われなくてもあのオオカミから目をそらすなんて事できない。
脳が危険だと叫び、ヤツの一挙一動を逃すまいと生存本能が働いている。
全身の筋肉は強張り、瞬きすら出来ない。
「ニケ、剣を抜くんだ。君ならできる。馬車で言ってたじゃないか、お兄さんは凄い人だったんだろう?その姿を思い出すんだよ。」
パライさんの声が、今度は妙に近くで聞こえた気がした。
そうだ、兄さん…。
僕にとっての兄は、朗らかで優しくて、でも強くてカッコいい。
それで、そう、僕の憧れだ。
兄さんなら、自分の後ろに人がいる状況で怯えを見せるだろうか。
兄さんなら、自分がやらなきゃいけないことを、出来ないと弱音を吐いて諦めるだろうか。
いや…。兄さんなら――。
僕は、目の前のオオカミをもう一度見る。
小さい頃襲ってきたゴブリンに比べれば…、いや、兄が戦ってきたこれまでのモンスター達に比べればきっと、こんな小さなオオカミ一匹は何でもないはずなんだ。
兄さんの姿を思い浮かべる。
出てくるのは後姿ばかり、だけど僕が憧れたのはその背中だ。
僕はオオカミから目をそらすことなく、深くそして鋭く息を吐いた。
しゅるりと紐の解ける音。
オオカミの右耳が過敏に反応する。
一気に鞘から短剣引き抜き、鞘を投げ捨てる。
――カツン。
軽い乾いた音、4束の爪が打ち鳴らされる音、安物の靴が地を蹴る音。
音が耳に届く頃には、既にお互いが持つ刃の届く位置にいた。
寸分の狂いなく喉元に喰らいつこうとするオオカミ。
それを避けるべく、既に動いていた僕。だが僕はヤツを見てはいなかった。より正確に言えば、ヤツの動きに反応したわけではなかった。
僕に兄さんの姿を映す。
兄のその背中だけを思い浮かべて、僕は牙の掛かる寸前に前傾し、無防備にさらされた目前の腹にナイフを突き立てる。いつだったか兄がそうしていたように。
上手くハマった!!!
高揚した。でもそれは、一瞬だった。
「ひっ…あっ…」
ナイフから伝わる悪寒。
肉を断つ感覚、飛び散る鮮血、肉から伝わる粘着質な音。
明らかにそこに存在する生命を、毟り取る事への生理的拒絶。
僕は堪らず手をナイフから離してしまった。
その隙を見逃さず、オオカミが僕の二の腕に噛み付いた。
まともな防具のない僕の体は、あっさりと歯牙の侵入を許した。
衝撃、熱、次いで痛み、そして滴る血液。
ひゅっと喉の鳴る音が聞こえ、上手く息を吸えなくなっていることに気づく。
マズい!!
頭が警笛を鳴らし続けているが、反して身体は痛みに神経を蝕まれ、どんなに力を込めても一向に動く気配はない。
チャンスと見たらしいオオカミが、僕に再度向かってくる。
その目は確実に獲物を仕留めんと、急所である首筋を睨んでいた。
ナイフは刺さりが甘かったのか、ヤツが一歩踏み出すと音を立てて抜け落ちた。
手元に武器はない。
それに気づいた途端、次に僕を支配したのは恐怖。
"兄の幻影"という偽りで彩られた心の鎧は、その恐怖に塗りつぶされ、あっという間に砕け散った。
もう体に力を込めることすらできず、ただただ真っ直ぐ飛び掛ってくるオオカミに目を見開く。
僕は首筋への痛みを覚悟して咄嗟に目を瞑る。
けれども、痛みは襲ってこなかった。
代わりにドスッと重い音が鼓膜を揺らす。
薄眼を開けて何が起きたのかを確かめると、そこに見えたのは、空中で力無く四肢を投げ出すオオカミ。
そしてその胸に生える長い棒、いや、これは槍だ。
槍の出どころである後ろを振り向くと、メノウさんが槍をしっかりと支え、その先端に刺さるオオカミを睨みつけていた。
緑色の霧が僕とメノウさんを包み込み、2人にそれぞれ入り込むのが見える。
体がぽかぽかと心地いい暖かさを持ち始め、これがミストを吸収する感覚か、と頭の片隅で思った。
そして同時に、もう恐怖の対象は、僕の前から去ったのだと理解した。
「め、メノウさん、僕、その、もうダメかと…ありがとうございます…グスッ」
緊張が抜けたからか、僕は腰が抜けて座り込んでしまい、汚らしく涙が溢れでるのを止められなかった。
麻の袖で乱暴に拭うと、目元がヒリヒリと痛んだが、今はそれが逆に嬉しかった。
生きている実感が湧き、身体中に止まっていた血が回り始める感覚。
すぐにスピネルさんが駆け寄ってきて、何やら呪文を唱えると、傷口の周りが淡く発光した。その光が消える頃には、傷はすっかり無くなっていた。
そういえばパライさんが、スピネルさんは癒しの魔法が使えるとか言ってたっけ…。
「あ、ありがとうございます、スピネルさん」
スピネルさんは僕のお礼に無言で頷くと、辺りの警戒に戻っていった。
その後トルマリンさんが僕に手を差し伸べてくれたが、その手をとるよりも先に、パライさんに両脇を抱き上げられた。
一度宙に浮いてから、ゆっくりと地面に足がつく。
パライさんがそうしたタイミングが、なにかを横取りするような雰囲気があり少し不自然だったが、気のせいだろうと思いなおしてお礼を言う。
「ありがとうございます、パライさん…。」
「うん、危険な目にあわせてしまってごめんね。よく頑張ったね。初めてミストを浴びた感覚はどうかな?中々心地がいいよね。冒険者の中にはこの感覚を味わいたいがために、この道を選んだ者も、少なからずいるんだ。」
「その冒険者の気持ち、なんだかわかる気がします。ポカポカとして、ボーッとして暖炉の前にいるみたいでした。」
僕の言葉に対し、うんうんと満足そうに頷くパライさん。
その嬉しそうな様子に僕まで嬉しくなって、つい先程まで肌で感じていた死の気配が少し薄れた気がした。
そうして周りを見渡す余裕が出ると、トルマリンさんとオパールさんがオオカミの死体に屈み込み、何やらガサゴソとしているのを見つけた。
何をしているのかと覗いてみて、ギョッとする。
2人でオオカミにナイフを突き立て、死んだ体をいじっていたからだ。
「え、あの、パライさん、アレは…」
目線をオオカミだったモノから外せないまま、恐る恐る声をかけると、パライさんはゆっくり僕の頭を胸に抱き、とても優しい声色で説明をしてくれる。
彼等はただ悪戯に死体を傷つけていたわけではなく、毛皮や牙など広く"素材"と呼ばれる物を収集しているらしかった。
この世に存在する多種多様な魔物を討伐した際に、その部位を剥ぎ取ると、様々なことに利用できるそうだ。
さらにこういった素材と、ダンジョン内に稀に出現する宝箱が、冒険者の主な収入源となる。
ちなみに宝箱の中身は様々で、強力な武具や巨万の富が得られる財宝の時もあれば、逆に単なるゴミや魔物を倒せば得られるような、大してお金にならない素材もあるらしい。
そういえば、と村での生活を思い出す。
なるほど、確かに彼等の体の一部は僕らの生活を助け、僕らにとって欠かせない生活の一部となっていた。
たった一度狩猟に参加した時は、ずっと兄さんの後ろに隠れていたので見ていなかったが、たしかにこうして解体しないと、僕が普段見ていたような材料にはなりえない。
他の街より、断然自然と親密な生活をしている村暮らしが長いのに、こんなことも知らないなんて、恥ずかしい限りだ。
今日の目的は、本当に僕にミストを吸収させるだけにあったようで、僕が一人で歩けるまでに精神を回復させると、そのまま帰路に着いた。
パライさんから聞いていた宝箱は、今日は見かける事はなく、来た時と同じ場所にある石扉を抜けて、森の中へと戻る。
ちなみに言うと、石扉はやはり中側から向こうを見ても、ただひたすらに暗黒が広がっているだけで、その奥にはなにも見えなかった。
ゼノン市街地に帰って来る頃には陽が傾き、もうすぐ沈み切るという時刻になっていた。
今日も観光や冒険者登録はお預けとなり、夕食後はそれぞれの部屋で就寝する。
パライさんのベッドと円形テーブルを挟んで向かい側、ドアから遠い側のベッドが、僕の指定された寝床だ。
外で着る服を脱いでベッドヘッドに放り投げ、寝巻きに着替えると靴を脱いで潜り込む。
ふぅ、と深く息をついたところで、何やら書き物をしていたパライさんから声をかけられる。
「ニケ、明日は僕らとは別行動をしてもらうよ。ニケはまず教会にいってレベルを上げてもらうんだ。そのあとは、冒険者登録を済ませておいてね。組合の人は初めての人の対応にも慣れているから、1人でも問題ないはずだよ。」
そう指示を受けるも、疲れていた僕は起き上がることができず、寝転がったままかすれた声で、「わ、わかりました」とやっとの思いで答えた。
それを聞き届けたパライさんは満足げに、「おやすみ」と優しく声を落として部屋から出ていった。
おそらくだけど、他のメンバーと明日のダンジョン探索に向けて、会議でもしに行ったのだろう。
除け者にされたみたいで少し寂しくもあったが、そこは新入りな上に全く戦力にならない自身が悪いと割り切る。
というよりは、明日はいよいよ冒険者としてのスタートを切れると思うと、興奮でそれ以外の感情が吹き飛んだという方が、正しいかもしれなかった。
翌日パライさんに揺すり起こされると、もうみんな出発準備を終えていた。