第45話 アセナの過去
アセナの家は、とても穏やかな貴族区画に建っていた。たった一人の娘であるアセナは、両親と祖父母に、ときには厳しく、ときには存分に可愛がられて、とても愛された生活を送っていた。
アセナの暮らしていた地域では、8歳を迎えると社交界にデビューする。
社交界デビューを果たせば、色々とストレスになることも出てくるだろうし、何より親に言えない悩みの一つや二つ、抱えるものだ。
ハティは、そんなアセナの8歳の誕生日にやってきた。
父がとある知り合いのテイマーから、幼いオオカミの双子を購入してきたのだ。
アセナを守り、支える弟の様な存在としてハティが。
その兄オオカミであるスコルが、父親の護衛として飼われた。
その日からアセナにとってハティは、姉弟であり、大切な友達であり、そして自身を守ってくれる騎士のような存在となった。
ある日幸せは突然崩れ去る。
アセナの家はとある不幸に見舞われた。家族そろって夕食を摂っていた時に、強盗に入られたのだった。
戦闘系のスキルを持った集団による、プロとも言える強盗集団だった。
「いいかい、アセナ。逃げるんだ。この森を抜ければ、すぐ衛兵駐屯所がある。そこにいって、保護してもらうんだ。できるね?」
「お父様は!?一緒に来てよ!一人はいや!!」
「……お父様は、アセナが逃げるまでの時間稼ぎだよ。大丈夫さ、すぐに駐屯所まで迎えに行くからね。衛兵さんに、迷惑をかけないで待っているんだよ。
それに、一人じゃないさ。アセナには、勇敢な弟がいるだろ。」
父親はそう言って、ハティを撫でる。
「ほんと?本当に迎えに来てくれる?」
「あぁ、勿論。さ、いきなさい。ハティ、アセナを頼んだよ。」
父親は優しくアセナの金糸を撫で、額に軽くキスをして踵を返した。
ハティもスコルの背中を、寂し気に見つめていた。
遠くで大きな音が連続する。それが剣戟か、悲鳴か、爆発音かは覚えていない。
ただひたすらに、その轟音が恐ろしくて、竦む足を必死に動かした。
森の中を一心不乱に走り回った。もはや真っすぐに走れているかもわからない。
「あんだぁ?おいおい、子供逃がしてんじゃねーか。」
声と共に前方から現れた男の姿は、父のものではない。すらりと腰から抜かれたそれは、月明かりを反射して嫌らしく光る。
怖い……。刃物だ。傷だらけの腕に握られているのは、普段みる訓練用のものではない、実物の剣。
「っあ……、」
足が竦む。逃げなければ。でも、動けない……。
グルルルルル!!ワンッ!!
小さな黒い影が、強盗の男に飛び込んだ。
「んだぁ?このイヌッコロが!」
「ハティ……」
飛び込んできた小さな影はハティだった。ハティも怖かったのだろう。震えている。
ハティは男の腕にくっきりと噛み跡を残したが、男は大して気に留めていないようだ。
剣を構えることもなく、気怠げにゆっくりと近寄ってくる。
「ま、足切り落とすくれぇなら、問題ねぇだろ。」
その台詞にサッと血の気が引く。切り落とす……?私の足を?!やだ、やめてっ!
振り下ろされる刃物に、私は痛みを覚悟してギュッと目を瞑る。
しかし、痛みは襲ってこない。恐る恐る目を開けると、ハティが再び男の腕に噛みついていた。
そのおかげで軌道が逸れたのか、剣は地面に突き刺さっている。
「チッ……邪魔しやがって。あっち行ってろ。」
「キャインッ」
大振りに振られた男の腕に逆らわず飛んで行ったハティは、悲痛な声を挙げて脇の大木に背中を強く打ち付けた。
「ハティ……!」
「はっ、自分より犬コロが可愛いか?」
「……っ!!」
再び振り下ろされる剣。今度は、全てがスローモーションに感じられた。
だから、しっかり見ていた。ハティの牙が、男の喉笛を捉えた瞬間を。
飛び散る鮮血。赤く染まるハティの口。私の顔にも生温かい、不快なものが付着した。
ハティは暫く、倒れたままの男の首元から口を離さなかった。
フーフーと荒い息をたてて、微動だにしない。
「は、ハティ……?」
怖くなって、恐る恐るハティの名を呼ぶ。
声に反応して、ゆっくりと振り返ったハティは、耳も尾も垂らし、どこか寂しそうにしていた。
そんなハティを見ていられなくて、思わず抱きしめる。
「私を……、守ってくれたのよね。大丈夫、大丈夫よ。ありがとう、ハティ……。」
遠慮がちに頬を擦り付けるハティ。彼が何を思うのかはわからないが、大怪我を負いながらも、動けないでいる私を助けてくれた。それだけが全てだ。
背中を打ったせいか、ハティは上手く歩けない……、というよりも、もはや立っていることすら難しいといった様子だ。
私の体には、やや重いハティを一生懸命持ち上げて、抱えながら歩く。
森を抜けなければ。森さえ抜ければ……。
もはや方角はわからなくなっていたが、重たい脚を懸命に動かし、せめてもの目印に明るい方をめざす。
もうすぐ森を抜ける。
ガサリと最後の枝を手で避け、その先に開ける空間を覗く。
眼前に広がるのは、衛兵の駐屯所であると信じて。
しかし、実際に広がっていたのは、絶望だった。
……?燃えてる……。
何が燃えているのか、最初はわからなかった。
炎の中には、見慣れた屋根、見慣れた外壁、見慣れた庭。
「あっ……あぁぁ……。」
家だ。私の、家だ。家が燃えている!
どうして……?お父様は……、お母様は?おじい様と、おばあ様は?!
絶望の中、家族の顔を見たい一心で、足を動かす。
「お父様……?お母様……。どこ……?どこに居るの?」
足元もおぼつかず、足を引きずるようにして歩いて行く。表門に回ったとき、息を飲んだ。
あちらこちらに、血が飛び散っている。緑が美しかった草原は、血と炎で赤く染まっている。
バラバラと散らばる死体の中に、見知った服装の人物が倒れているのを見つけた。
「お、おじい様!!!」
転びそうになりながらも、全力で近寄る。
「おじい様、おじい様……?」
何度ゆすってみても、肩を叩いて呼びかけても、返答はない。
「おじいさ……っ!?」
おじい様を起こそうとするのに必死で気づかなかったが、彼は胸部より下がなかった。
炎の明かりに照らされたその肌は、既に無機物の色を浮かべていた。
「あっ……、あぁ、うっ……オエッ」
咽かえるものを抑えきれずに、血まみれの芝生へぶちまける。
おじい様に縋ろうとして、再び現実を叩きつけられて内容物を戻す。
「うっ、うっ、お父様……、おじい様が……、」
天地がひっくり返るような感覚に襲われながらも、もはや父親に抱きしめてほしいという思いだけを原動力に、足を動かす。
「ひっ……お、おばあ様、お母様も……。」
後ろからスキルを使われたのだろう。二人は折り重なるように、死んでいた。
踏みつけにされたような足跡が、強く目に焼き付いた。
「うっうっ、うぇぇ、お父様……お父様!!お父様どこぉぉ」
呼びかけに答えることを期待して……、あるいはもはや縋れるものが、「父親を呼ぶ」という行為そのものしか、残されていなかったのかもしれない。
もうすぐ一周するというところで、その遺体を発見した。
父親は意地でも強盗を、森へ行かせまいとしたのだろう。背中には斧や短剣がいくつも刺さっている。
また剣や槍が正面から突き刺さり、それがつっかえとなって、斜めに立っていた。
スコルも背中に色々な武器が刺さったまま、後ろと前の足が一本ずつになり、首が胴と切り離された状態で、父親の後ろに横たわっていた。
恐らく父親に代わって最後の一人を、殺したのだ。森の入り口には、喉元にスコルの頭をぶら下げた死体が転がっていた。
もはや感情は湧いてこなかった。ここにはもうかつての幸せはないのだと理解した。
家の燃え盛る音が、悪魔の笑い声に聞こえてならなかった。
温かなハティだけをギュッと抱きしめる。ハティは弱々しく鼻を鳴らして、私の頬を舌で撫でた。