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春水  作者: 橋本ちかげ
2/2

 矢継ぎ早に日が過ぎて、週末が迫ってくる。ある日、樋川の仕事用の携帯に着信があった。相手はなんと息子の玲だ。とにかく、会って話がしたいと言う。緊急保護を求めてきたのだと、樋川は確信した。


 あの陸橋トンネルに差し掛かったときだ。

 時間はちょうど真昼、白昼なのに都市部の死角となる時間帯だ。空色の青いビル影がトンネルの入り口辺りにも色濃く落ちていて、辺りは昼とは思えないくらいに暗い。はるか先のトンネルの向こうに、重たく実った桜の花枝が風でさんざめいているのが見えた。


 そこから二人、人影が歩いてくる。

 トンネルの途中で、樋川は茫然と立ち尽くしてしまった。向こうから来るのは、電話で助けを求めてきた玲と、母親の三島春水ではないか。


 母親と話していた玲がゆっくりと、こちらに気づいた。彼は目を見開き、驚いているようだった。こんなところで、助けを求めた自分に遭遇したからか?樋川は思った。だが、それは思い違いだった。


 少年が驚いていたのは、暴漢に遭遇したからだ。樋川は気づいていなかった。つい、その背後に、凶器を引っ提げた異常者が立ちはだかっていたのを。


「三島春水ッ!」


 日常上げることのない怒声が、樋川の背中を突き飛ばした。つんのめるようにして、驚いた樋川は背後を振り返った。そこにいたのは、嶋だった。厚労省の役人を名乗る男。地味なスーツ。しかし、その手に引っ提げているのは、書類カバンなどではなかった。


 日本刀、恐らくは真剣である。柄は白木であり、遠目にも切っ先が釣り上げたばかりの太刀魚のように濡れ濡れと銀色に光り輝いていた。


「分かっている…全部、最初からネタは上がってるんだッ!」

 と、嶋は口走った。穏健だが人情の薄い役人特有の表情は掻き消え、見開いた白目が怪しく潤い、ヤニで汚れた歯を憎たらし気に剥き出していた。

「つまらんごまかしは通じんぞッ!貴様がやったってことは、分かっている。誰に頼んだのでもない、お前が直接手を下して。…なんてことをしやがる…なんてことしてくれやがるッ!三島春水、お前はとんでもない女だッ」


 だしぬけの罵倒は、憎悪を向けられなかった樋川ですらぎょっとする殺気が籠っていた。大の中年男に、道端でこれほどの怒声を浴びせられれば、並みの女性なら、平静ではいられないはずだ。だが、三島春水は、微笑んでいた。陽光に蒸れる桜の花びらのように、たおやかに。樋川はむしろ、それにぞっとした。


「こんな道端で突然、なんのお話でしょうか。…こんなところで、そんなものを持ち出して、あなたのどんな言い分が通ると言うのですか?」

「黙れッ!黙れ黙れッ!」

 言うなり、嶋は殺到した。自分が傷つけられると思い、樋川は腰を抜かして尻もちをついてしまった。

「ひっ!」

 ひきつった悲鳴を上げた樋川に引き換え、日本刀を向けられた三島春水は、涼しい顔である。

「よく見ておきなさい、玲」

 と言うと、三島春水はむしろ、後ろに息子を庇った。

「この男の得物の拵えは、極道ものが使うただの白木ではありません。これは『切柄(きりえ)』と言う試斬用(しざんよう)の特殊な拵えなのです。二枚の樫板を鋲で留め、三つの生釘と二つの鉄環(てつわ)で補強してあります。古くは首斬り、山田浅右衛門が考案したものです。これは硬い骨ごと人体を切断するのには、最も適しているの」

「…よく、知っているな」

 冷静に解説されて、激高した嶋はむしろ、肝が冷えたようだった。ごくりと咽喉の肉を動かして生唾を呑み、左後方に刀身を庇うように構え直した。樋川は今、気づいたがこの嶋も白昼堂々、こんな時代がかった武器を持ちながら、ただのちんぴらではないのだろう。

 だが、ますます、分からない。


(じゃあこの女は、何者なんだ…?)


 ただの裏社会に通じている投資コンサルタントではないことは、確かだ。樋川にはもう、何が何だか分からなかった。


「これでお相手をします」


 と言うと春物のコートを着た背中から、三島春水はこれも白木の短刀を取り出した。親指で鯉口を切るが、鞘から抜き放たないまま、それを嶋に向けて構える。短刀と言っても、刃渡り三十センチほどだ。それを鞘を払わないまま、真剣を持った男相手に構えるなんて、この女はどうかしているのか。


「それで、そんなもんで、おれに勝とうと言うのか…?」

「これは勝負ではありません。ただの後始末です。ですから、必要なものを持ってきたまでのこと」

 三島春水は言い切った。嶋は残忍そうに、唇をひきつらせた。

「後悔するぞ」

「あなたの狙いは分かっています。左の脇構え…まず一合で、戦闘不能を狙います。とどめはじっくりと、それから。残忍な殺し方で見せしめ、この場の誰も目撃者として残さない。それがあなたのやり方でしょう」

「ふっ、よく分かったな…」


 相好を崩したかと思うと、嶋は三島春水に斬りつけた。しかし、春水は飛び退きもしない。


 春水の言う通り、嶋が狙ったのは、そこに突き出された短刀を持った右腕かと思われた。まず腕を一本落として、それからなぶり殺し…など残忍な考えだが、そんな思惑通りには運ばない。

「見れば分かります。狙いは短刀を持つ拳、これは柳生新陰流『逆風(さかかぜ)』の応用」


 そのときさっと、白木の鞘がトンネルの天井を舞った。


「しかしプロなら、無駄な血を流さずとも刃で命は奪えるもの」


 刹那、春水の細長い身体が嶋を飛びすがった。嶋は迎撃したはずだった。だが刃は、亡霊でも払ったかのように、三島春水を通り過ぎた。


「ううぅ…!」


 低いうめき声のような断末魔は、嶋のものだった。すれ違いざま三島春水が掲げた短刀の切っ先が、嶋の右のこめかみを、ざっくりと斬り飛ばしたのだった。出血はぽたり、と一滴、血の珠が舞ったに過ぎない。


 日本刀を握ったまま、嶋は前のめりに仆れた。無論、即死している。


「これなら後始末も楽です」


 と、三島春水は薄く張った短刀の血糊を、ポケットティッシュでそっと拭った。


 やがて黒塗りのバンが、トンネルの入口に乗りつけてくる。そこから降りてきたものたちが、あわただしく嶋の死体をボディバッグに仕舞い、凶器の日本刀も回収し、残らず痕跡を消してしまう。


「お春さん、うぇい!短刀一本でやるねえ秘剣音無」

 その中の、黒いマスクをつけた大柄な女が、春水にハイタッチを仕掛ける。

「あの死体袋(バッグ)のお客さんで全員かい?」

「そうですね。裏柳生の使い手でしたし、情報通りでしょう。もうここで、すべきことはなくなりました」

「よっし!じゃあ、撤収。…ちなみにこっちのお客さんはどうしようかねえ」

 女は、樋川に目を向ける。そこで樋川は初めて、自分にも危険が迫っているのだと言う実感が湧いてきた。

「いいんです。樋川さんは、わたしたちの相談によく乗ってくれました。…こうして、役にも立ってくださいましたし」

 短刀を仕舞うと同時に、三島春水は樋川の方を見た。そこにはいつも見ていた、真水のような、不思議に澄んだ眼差しがあるばかりだった。

「『お元気で』…樋川さん、お仕事、これからも頑張ってくださいましね?」


 三島春水たちは消えた。あとには都会の真昼の静寂と、樋川だけが取り残された。それから十分以上も、樋川はそこにそのままでいた。


 今、そこで嶋が斬殺されたことも、三島春水がいたことも、すべては質の悪い白昼夢なのだと思った。


 樋川は三島春水から、別れの挨拶を受けた。三島玲に関わったもので、春水から別れの挨拶を受けた人間は、みな命を喪うのではなかったか。樋川は最初はあとで命を狙われるのではと恐れていたが、やがてその意味を悟った。三島春水は、「お元気で」と言った。あれは自分の仕事に戻れ、と言ったのだ。樋川にとってこの案件は、最初から仕事ではなかったのだ。


 結論から言って厚労省に嶋と言う役人は、いなかった。

 警察の情報を得て動いていることを仄めかしていたが、県警が三島玲の事件で母親の春水を疑った事実はなく、勤め先と裏社会とのつながりも事実無根であった。

 そしてその警察からの本当の情報だが、この男こそ、別の事件の関係者だったのだ。


 樋川が三島春水親子と出くわす前日、一人の男が自宅で命を絶った。男は、県警本部長まで務めたキャリアだった。この男こそ三島玲の事件をその発覚当初、事件の関係者の一人から依頼を受けてもみ消しに奔走した、そんな黒い噂が走った張本人だったのだ。


「私は関係ない」


 と言い張って休職していたその男は、罪を告白する手書きの遺書を残して、出刃包丁で首を掻き切って死んだと言う。監視カメラも設置された自宅には文字通り蟻のはい出る隙間もなく、自殺は誰の疑う余地もなかった。


 だが、あの女ならやるだろう。なぜなら恐らくは、この死んだ男は三島春水から別れの挨拶を受けた、最後の人物だったであろうから。


 嶋らしき男は、この自死した警察官の周囲で出入りが確認されていた。現場で三島春水の犯行を主張したが、採り上げられなかったと言う。私設で雇われた警備員だと言うが、きな臭い世界の住人、とみて間違いないだろう。


(その人物を抹消するべく、自分は利用されたんだ)


 三島春水は、樋川が役に立った、と言った。あの嶋と言う男をおびき出すべく、三島春水は樋川とあえて接触を持ったとみて間違いなかった。その報酬は、生きたまま元の仕事に戻れる、と言うこと。その解釈に確信が持てたとき、樋川はこれ以上、事実を追及することを止めた。


 今ではあれは、ただの幻だったのではないかとさえ、思うことがある。

 あの嶋の死体も、玲も、三島春水もその他の何もかも、陸橋トンネルの桜が見せた、狂った幻ではなかったのかと。桜の花が魔性なのは、それが狂い咲きであるからだと言う。あのあどけないほどに美しい親子も、本当は、そうだったのではないか。


 彼らはどこにいるのだろう。恐らくは、樋川の想像すらつかない場所で、仇花のように、その狂い咲きの美貌を咲きほこらせているのか。自分にはもう関係ないと思いながら、樋川は夢想してしまう。三島春水が、あの玲を連れ去ったそのどこかを。


 それでも桜の花が散って、葉桜が群れるようになったら、自分はどうせこのトンネルで起きたあのことなんか、忘れ去ってしまうんだろう。樋川はトンネルの向こうのあの桜がすべて枯れ散ってしまう日のことを、待ち焦がれるようになった。


 すべては満開の桜の花雨が見せた幻。

 桜の森の満開の下での出来事。







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