一
三島春水:『戦国恋うる君の唄』156話より登場。虎ちゃんたちを最も追い詰めている最強の暗殺剣の達人です。
トンネルの向こうで、桜が花びらを降りしきらせている。
暗い闇の彼方が、目もくらむような白い光に塗りつぶされている。昭和の終わりに作られたタイル張りの陸橋トンネルだ。中高生たちの通学路に使われるせいか、通学時間はいつでも制服を着た子たちの笑い声が絶えることはない。だが白昼のひと時、ここにはいつまでもまったく人の気が絶えることがあった。
樋川は外出の仕事のとき、わざとこの道を択ぶことがあった。満開の桜の森の下には、この世とは違う世界が広がっている。昔、そんな小説を読んだ記憶がある。だが樋川にとってはトンネルの向こうにある桜並木より、遠くの闇に桜の花びらが放つまばゆい光を眺めている方が、より異界の実在を感じた。
だからあのとき見た『あれ』は、異界から来た化生のものであったとすら、思うのだ。人はどこかで、死を象るものに魅かれている。タナトスの衝動は破滅的でありながら、どこか甘い感傷を伴う。それは人間のふだん口にしたがらない、後ろ暗い種類の快楽なのだ。
樋川はそれを経験で知っていた。しかし、人前でそれを口にすることは、これからも決してないだろう。なぜなら樋川が取り扱うのは、そのタナトスの衝動に否応なく惹き込まれていく少年少女たちだ。
発達臨床の心理士として、樋川が県内の児童相談所に出入りするようになってもう十五年近くになる。臨床心理士は、樋川が学生時代の頃からようやく活躍の幅を広げ始めた新しい職種である。
スクールカウンセラーと言う言葉が認知され、平成二十九年から全国の児童相談所に専門家として配置が義務付けられたが、まだまだ掛け持ちでもしないと、生計が立たない仕事だ。
非常勤の仕事を渡り歩くことになるため雇用状況も不安定で、職を離れるものも多い。加えて虐待に限らずとも、思春期の子供たちの持ち込む問題は複雑多様で、逆に精神を病むものも少なくない。
そんな樋川のもとに児相から持ち込まれた重要案件は、男子高校生の虐待だった。ある程度、成熟した青少年の虐待は、複雑な家庭問題に根差すものが珍しくない。
いざ介入してみると親の精神疾患や生活苦などが飛び出したり、言葉によるカウンセリングでは解決しない抜き差しならないものであったりするのだ。
三島玲。
カルテに付された写真は、二次性徴を過ぎた少年とは思えないほどに初々しい少女と見まがう美貌の少年だ。本人と面談した樋川ですらも、ブレザーの男子高校生の制服を着たこの少年が、最後まで自分と同じ男性であることが信じられなかった。
生まれながらの母子家庭ではあるが、家庭に生活苦の落とす陰りはまったく見られない。母親は国際的な投資コンサルタントと言う。北海道に生まれ、ほどなく本州に籍を移したが、オートロック式の賃貸マンションに住み、生活に不自由したことはなさそうだ。
素行にも、瑕疵はない。引っ越しを繰り返す母親について何度か転校しているが、学業成績は常に上位で、中学生のとき全国模試で五教科トップを採っている。絵に描いたような優等生だ。
しかし高校一年生のとき、とんでもない事件に関係する。地元非行少年たちの暴力沙汰に巻き込まれたのだ。玲自身は完全な被害者で、責任は問われなかったが、犯歴のある少年たちが集団で玲に暴行を加えていた事実が明らかになり、母親は逃げるように玲を転校させた。
転校先は、樋川の管轄内の公立高校である。しかし、慢性的な不登校で出席日数は足りていない。虐待の疑いは、貧血で運び込まれた保健室で担当医が、少年の身体の新しい生傷があることに気づいたのだ。樋川は唯一の接触者であるはずの保護者に、面会を求めた。
母親の名は春水。
彼女と初めて出会ったとき、樋川はあの陸橋トンネルの果てのさざめく桜を思い浮かべた。どうしていきなりそんなイメージが飛び込んできたのかは、分からない。しかし母の春水は、息子の玲と生き写しと言うほどに儚い、透けるように白い肌を持った美しい女性だった。
「玲が怪我を。…その話は、本人から?」
と、真水のように色のない眼差しで、春水は樋川の顔を見上げてきた。
このたおやかな女性が、高校生の息子を虐待するとは、到底思えない。樋川は乞われるままに、発覚までの事実経過を話した。
「玲くんの登校は不定期で、その間、同級生の接触はほぼないと聞いています。…となると、あと心当たりがありそうなのは一緒に暮らしているお母さんしかいません。なので今日はお話を」
樋川は言い方に気を配ったが、身体的な虐待があるなら、母親との関係を疑わざるを得ないことを仄めかしたようなものだ。しかし、この春水と言う女性には、桜の花明かりのように、まったく陰りのようなものが見られない。
「玲は家では大人しくしています」
春水からはどんなに水を向けても平板でいて、なんの情報も読み取れない答えが返ってくるばかりだった。
「これはあくまで可能性ですが、自傷…と言うケースも考えられます。なんと言うか、あのような事件に巻き込まれたあと、でもありますし」
と樋川は恐る恐る、核心に触れてみた。
今ではPTSD(精神的外傷後ストレス障害)と言う言葉も普及し、色々な場面で使われることも多くなったが、その症状がもたらすものは専門医も把握することが困難なほどに広い。
このようないじめや暴力沙汰の被害者で、抑うつ状態になる青少年が、生きている実感を求めて自分を傷つけるケースも少なくはないのだ。
「心配はしています。…でも、わたしたちで解決する問題ですから」
振り返ればかなり頑なな物言いだが、三島春水のその口調で言われると、なぜか引っかからない。まるで濁りのない雪解け水を口にしたときのように、すっとそれを受け入れてしまっている自分に、樋川は戸惑うしかなかった。
「それは、母親が隠していますね。玲くんは、明らかに家庭で虐待を受けています」
面会後、厚生労働省から来たと称する人物が、樋川に断定的にそう告げてきた。嶋、と言う見慣れない中年男は、どことなく警察畑の空気を漂わせていた。
「実は母親の春水の勤務する投資コンサルは、暴力団のフロント企業として闇社会の資金源になっている、と言う警察からの情報がありましてねえ」
嶋はあくまでオフレコで、と言いながら、かなり重大な話をした。
「玲くんが事件を『起こした』学校で、関係者の事故や不審死が相次いでいます。…あまりこんなことは言いたくないんですが、母親が闇社会のコネを使って報復を依頼した可能性があります。玲くんもなんらかの形で、口封じを受けているかも知れません」
そうなると、緊急案件である。暴力団による脅迫、傷害の立件を視野に入れて、早めに玲の保護を求めねばならない。青くなった樋川は事実確認を急いだ。
事件はもう、マスコミに食い荒らされた後だ。実話スキャンダルをネタにする週刊誌にも、真贋判別しがたいことが描かれていた。
しかし、当該事件の関係者が、相次いでこの世から消えて行っているのは、事実だった。ふいの事故や病気による急死もあったが、いずれにしても死んでいったものには、共通点がある。彼らはいつも、被害者である玲の母親から別れの挨拶を告げられてから、消えていると言うのだ。
どこまで行ってもそれはただの噂話であり、事実を突き止める術はないが、あの嶋と言う男の言う通り、春水が裏社会に復讐を依頼した可能性は否定できない。だが息子の玲同様、三島春水に、瑕疵のかげりはない。
樋川は首をひねった。普通、人間はどんなに自分が正しいと思っていても、非合法の報復行為を仕組んだと言うことに対して、後ろめたさのようなものを覚えるはずである。
また守ろうとした当の息子が、口封じの危険にさらされているなら、動揺や後悔をあらわにしてもおかしくない。しかし、母親の春水とはそのあとも何度も会ったが、長い面談の間にも、そんな表情はひとかけらも見せなかった。
(本当にあの春水と言う女性は、どんな人間なんだ…?)
嶋のような人物が接触してきたと言うことは、どのような名目でも玲の保護を急がせることで、あの春水と裏社会とのつながりを明らかにして立件したい、と言う思惑があるのだろう。
だが不気味なのは当の春水の態度がまったく変わらないことだった。
虐待事件の当事者になりつつあるのに、彼女だけはまるで地に足のついた人間ではないようだ。児相に呼び出され、警察の疑いをかけられながらも、弁護士一人雇う気配もない。この手ごたえのなさはなんだろう。
普通の神経の通った人間なら、たとえ無実でも、この渦中に巻き込まれたら、ストレスフルな反応を見せたり、逃避を企てたりする。なのに、どうして春水は、いつまでも受け身でいるのだろう。