第七話 実験
今回は陸軍の様子です。
若干グロい描写が出ますのでR15、残酷表現ありのタグを付けさせて頂きました。
弱い方はご注意ください。
――1945年(昭和20年)2月 ビルマ メイクテーラ北方
ビルマは日本にとってインド攻略を支える要衝である。いや要衝であった。
昨年のインパール作戦失敗とビルマ北部の失陥で、インド攻略と援蒋ルートの遮断が絶望的になった今となっては、その戦略的価値はマレーシア、シンガポール防衛の前線基地程度の意味しか持たなくなっている。
そして今、弱体化したビルマ方面軍に対して英印軍は攻勢を強めていた。
敵の侵攻を予想した第十五軍は残余の兵を再編成しイラワジ河岸に防衛線を敷いた。だが第十五軍はインパール作戦により戦力が2割程にまで痩せ細っていた。
幸い年が明けて通商路が復活したため補給は順調に行われている。糧食や医薬品だけでなくインパール作戦で失われた装備も充足されつつあった。しかしどういう訳か新たな部隊や兵員が補充される事は無かった。
逆に連合軍は補給に対してはなんら掣肘を加えられていない。日本の船団護衛は固くなったが、なぜか積極攻勢は取られていなかったためである。
このため十分に戦力を集積した英印軍は、6個師団、2個戦車旅団、3個歩兵旅団もの大兵力でもって、満を持してイラワジ河の渡河作戦を開始した。すべて完全充足の米式装備をもつ精鋭部隊である。
こうして第十五軍は2万名にも満たない兵力で10倍以上の兵力を迎え撃つ事となった。
いくら補給で装備が充足していても装備の質と兵力差は如何ともし難い。特に有力な対戦車兵器が無く制空権も握られていたのが致命的だった。
その結果、当然の様に第十五軍は防衛線を簡単に突破され、英印軍は一路メイクテーラに向けて突進した。
メイクテーラはビルマ中部に位置する都市である。イラワジ河の屈曲部に位置しラングーンや各地への幹線道路が集まるため交通の要衝でもあった。
日本はメイクテーラをビルマの重要な支援基地としていた。後方であるため、そこには非戦闘部隊である第二輸送司令部しか駐屯しておらず病院など非戦闘員も多い。
その非戦闘員を逃がす時間を稼ぐため、第二輸送司令部は絶望的な防衛戦を行おうとしていた。
「す、すごい大軍です、上等兵殿。戦車も一杯います。やっぱり転進は無しですか?」
粗末な塹壕の中で輜重特務兵が言った。怯えているのか声が震えている。
彼の目の先には戦車を盾に粛々と迫る英印軍の大軍がいた。
周囲には塹壕以外に身を隠す所などない。雨季になれば泥濘化し乾季には岩の様に固まる埃っぽい大地に灌木がまばらに生えているだけである。
彼らのこもる塹壕はその固い大地に浅く掘った溝をわずかな丸太で補強しただけの物である。防御力も高が知れていた。英印軍の事前砲撃と航空攻撃だけで部隊には既にかなり損害が出ている様だった。
「馬鹿野郎。逃げるたって、どこへ逃げるんだよ」
そう言って輜重上等兵は輜重特務兵の頭を鉄帽越しにぶん殴った。
この特務兵もあのインパールを生き抜いたのだから、丙種合格でもそれなりに肝は据わっているはずである。だが目の前の敵はこちらの100倍以上の兵力で、更に100両以上の米国戦車を盾に迫ってきていた。上空には多数の英軍機も舞っている。怖気づくなと言うのが無理な相談だった。
それに実際問題として彼らは逃げる事が出来なかった。彼らの後方には兵站病院があり今も日本赤十字の看護婦や重傷者、在留邦人の退避が続いている。それらを安全に逃がすためにも彼らは少しでも長くこの地に踏み留まる必要があった。
つまりは玉砕、ここが死に場所か。輸送聯隊から臨時編成された小隊の点呼を取りながら上等兵は思った。
その時、上空の英軍機が爆発した。
「味方の戦闘機隊か!?」
上等兵は空を見上げた。だがそこに居ると思った友軍機の姿は見えない。そう言えばビルマに展開する第五飛行師団はとっくに壊滅していたはずだった。ならば何が敵機を落とした?
よく見ると背後の丘の向こうから青白い光の線が伸びていた。それに触れた敵機が次々と撃墜されていく。怪光線と言う事は、どうやら噂に聞いていた新型の高射砲が来てくれたらしい。
「やった!友軍が来てくれました上等兵殿!これで助かります!生き残れます!うっ……うっ……」
「あ、あぁ……そうだな……」
避け得なかったはずの死が急に遠のいた事で特務兵は咽び泣いていた。それに適当に相槌をうちながら上等兵は思った。確か新型高射砲はラングーンに配備されたと聞いていたが……なぜこのメイクテーラにそれが居る?
上等兵の疑問はすぐに解けた。
「はーはっはっはーー!」
ガシャガシャと言う聞き慣れない音と共に男の高笑いが聞こえてきた。そして丘の上にその声の主が姿を現す。
丸い砲塔に上下二本の砲身、そして節足動物の様な六本脚。姿を現したのは城ケ島要塞に配備されたものと同じ高射砲だった。
その上に一人の男が立っていた。
「騒がしいと思って寄ってみれば、どうやら苦戦している様だな。行き掛けの駄賃だ。ひと暴れしてやろう!」
大軍を前に自信に満ち溢れた言葉を吐く男の襟元には大佐の階級章が光っていた。
「誰だあの馬鹿は?」
上等兵がポカンとした顔でその男を眺める。彼が知らないのも当然であった。
その男は、第三十三軍の作戦主任参謀である辻政信大佐であった。
第三十三軍はビルマ北部から撤退し今はメイクテーラから北に100㎞ほど離れたマンダレー付近に展開している。そこで米式装備の支那軍を相手に第十五軍同様に苦戦しているはずだった。
辻はラングーンに最近配備された新兵器の高射砲を彼らしい強引さで奪い取りマンダレーへ向かっている所だった。不整地でも移動可能で補給も不要な事に目をつけ、不足する対空対戦車戦力として活用しようと考えたらしい。
辻は自ら高射砲の上に立って器用にバランスを取りながら指示を出していた。
「薙ぎ払え!」
辻が前面の敵に向かって手を振った。
良く見ると辻の足元にもう一人男がいた。彼は蹲って高射砲の天井にしがみ付いている。彼はこの高射砲の登録者である高射砲大隊の少佐だった。登録変更が出来なかった為、辻に無理やり同行させられていたのである。
辻の言葉に足元の少佐が慌てて板に向かって指示を出す。
しかし高射砲は砲口が一瞬光っただけで発砲しなかった。彼の指示が悪かったのではない。実は高射砲が勝手に発砲しようとした所に口頭命令受けたので射撃が中断されただけだった。
「どうした少佐!それでも皇軍最強兵器の使役者か!」
振り返った辻が少佐を叱責する。少佐は泣きそうな顔で再び板に指示した。
一呼吸遅れて今度こそ高射砲が発砲した。あたりが白い光に包まれ、光線が前方の敵集団を一閃する。
迫っていた敵戦車部隊の最前列がその背後の歩兵ごと吹き飛んだ。戦車だけでなく地面そのものが爆発したかの様に炎の壁が立ち上がる。
高射砲は更に二閃三閃と光線を放ち英印軍を切り刻んでいった。その合間に上空から攻撃しようとする敵機を片手間の様に叩き落としていく。
ものの数分で陣地の前にも上空にも、動くものは何一つ無くなっていた。
「さあ、さっさとマンダレーに向かうぞ!もたもたするな少佐!」
「はっ、はひっ!」
辻は少佐の尻を蹴りあげると戦果を確かめる事もなく高射砲に乗って去っていった。
「ちょっとやりすぎだろ……これじゃ世界が燃えちまうぜ……」
輜重特務兵らの万歳三唱の声を聴きながら、陣地前面の惨状を眺めて上等兵は呆れ顔で呟いた。
この戦闘で機甲戦力が壊滅し歩兵部隊にも大損害を負った英印軍はイラワジ河の対岸まで後退した。またこの半日後にはマンダレーでも同様な風景が現出し、ビルマ戦線は一応の落ち着きを見せる事となる。
――1945年(昭和20年)3月 東京 狸穴坂 喫茶店
日本国内では南方や大陸との輸送路が復活してから物資にも多少の余裕が出て来ていた。お蔭でこれまで営業を控えていた喫茶店も昔の様に店を開いている。世間の空気も多少明るくなったせいか客足も戻りつつあった。
しかしこの狸穴坂にある喫茶店は開店しているにも関わらず店内は閑散としていた。客は店の一番奥のテーブルに男が一人いるだけである。
しばらくしてもう一人男が入ってきた。よお、ああ、と挨拶しつつ先の男と同じテーブルに座る。
それから二人は他愛もない話をしていたが、女給がコーヒーを置いて店の奥に去ると声を潜めて話し始めた。
「まったく……辻の阿呆がまたやらかしてくれたな」
「はい。ビルマの噂を聞いたフィリピンでも現地部隊が早速真似を始めたそうです」
会話の様子からみて二人は上司と部下の関係らしい。身なりこそ背広を着た地方人にしか見えないが、その所作や口調から明らかに軍人である事が見て取れた。
「奴のお蔭で陸の戦況も好転した。負けが遠のいたせいで日和見の佐官連中も多くが抗戦派に鞍替だ。これでまた終戦が遠のいた」
上司らしい男が憮然とした顔で吐き捨てる様に言った。
その男は松谷誠陸軍大佐であった。向かいに座っているのは元部下の橋本正勝中佐である。
二人はかつて参謀本部二十班に所属していた。その時に松谷はソ連を仲介とした終戦工作を当時の東条首相へ直訴している。そのため一時は閑職へ飛ばされたが、今は杉山元陸軍大臣の秘書官を務めていた。
「上の方も何やら様子がおかしいとか」
「あぁ、終戦派は皆なぜか抗戦派に宗旨変えしている。まるで人が変わった様にな」
「やはり洗脳……でしょうか?」
「その疑いが強い、と思う。俺は松代が怪しいと踏んでいる。あそこに行って帰ってくると皆、人が変わると言う噂だ」
「早く手を打たないと、取り返しのつかない事になりますね」
「そうだな。なんとしてもソ連に仲介してもらわないと、新国家建設の夢が遠のく」
流石に抗戦派も米国を占領するまで戦うなどと言うとは思えないが、今の戦況では米国主導で講和してしまう可能性があった。そうなれば今の日本を破壊し彼らの理想とするスターリンに導かれた人民国家を築くという夢を実現できない。
日本の戦況が好転しているにも関わらず彼らは焦っていた。
二人が黙り込んでいると一人の客が入ってきた。白人の男性だった。赤坂近辺には中立国の大使館も有るから白人が戦時下の日本で街を歩いているのも不思議な話では無い。だがここ狸穴坂となると、その出身国はかなり限定される。
その男は松谷らの隣のテーブルにつくと、松谷らに背を向けて座った。女給にコーヒーを頼むと鞄から取り出した本を黙って読んでいる。体調が良くないのか男は時折咳をしていた。
女給がコーヒーを置いて立ち去ると、男は本を読むふりをしながら小声で話し始めた。
『待ったかね?』
『いえ、我々も先程着いたばかりです』
松谷も橋本と世間話をしながらロシア語で答えた。
『それは良かった……昼過ぎから体調が悪くてね。どうやら風邪でも……引いたらしい。申し訳ないが……今日はあまり長話も出来そうに無い』
咳をしつつ白人の男もロシア語で言った。その男は近くにあるソ連大使館の駐在武官であった。
『では手短に。貴国を通しての仲介工作は進んでいますか?』
『本国と相談して……慎重に進めている。その点は……安心してほしい』
『一日も早く進めて下さい。このままでは貴国が関わる事無く戦争が終わってしまう可能性があります』
『物事は早く動かすには……見返りが必要だ。本国は……この国の状況に……大変……興味を……持っている……』
焦った様子の松谷にソ連武官は答える。咳をする数が増えていた。彼の体調は店に入ってから急速に悪化している様だった。
『例の兵器については陸海軍で共同開発した事と松代で生産されている事以外は分かっていません』
『もっと情報が必要だ……君達が急ぐなら……もっと努力を……ゴフッ!』
ガチャンと音がして床にコーヒーがぶちまけられた。
慌てて松谷が振り向くとソ連の駐在武官はテーブルに突っ伏していた。ゼーゼーと呼吸が荒く苦しそうに胸を掻いている。
「ど、どうし……」
「ごぶぁぁぁぁっ!!!」
思わず松谷が声を掛けようとした瞬間、駐在武官は口から血をまき散らしながら椅子から転げ落ちた。そのまま床に大の字に仰向けになる。
松谷はその姿を見て凍りついた。なぜなら駐在武官の様子があまりにも異常だったからである。とてもでないが単なる風邪の症状には見えなかった。
痩せていたはずの駐在武官の身体は倍くらいの大きさに見えた。ズボンやワイシャツがパンパンに膨らんでいる。その服から見えている肌は真っ赤に爛れていた。
そして口だけでなく目や鼻や耳といった体中の穴という穴から赤黒い血をダラダラと垂れ流していた。
「……こひゅー……こひゅー……」
まだ息はわずかに有るが既に意識は無い様子だった。大きく見開かれた目は真っ赤に染まり虚空を見つめている。
「こひゅ……」
その息もすぐに止まった。
すぐにこの場を去るべきだ、駐在武官の死を確認した松谷は思った。ソ連の人間と密かに会っていた事が公になると非常にまずい。彼は固まっている橋本を促して店を出ようとした。
しかし事態はまだ終わっていなかった。
パァァン!
二人が死体の脇をすり抜けようとしたその時、死体が膨張し爆発した。服が弾け飛び、どろどろの赤黒い液体が周囲一面に撒き散らされる。
「なっ!?」
想像だにしない事態に、全身が血濡れとなった松谷と橋本は逃亡する事も忘れて呆然と立ち尽くした。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
真っ赤に染まった店内に女給の悲鳴が響き渡った。
この日の前後から日本国内に居住する非黄色人種の間で謎の病死が相次いだ。
微熱と咳という初期症状は風邪に似ているが、症状が急激に悪化し最後は体組織が液状化して全身の穴から流れ出す。そして死亡後に身体が膨張して液状化した体組織を周囲にまき散らす。
発症から死亡までの時間はバラバラであったが症状はすべて同じであった。
体液を顕微鏡で調べた結果、病原体はすぐに特定された。新種の細菌だった。まるで雪の結晶のように整った六角形が特徴的なそれにはペニシリンやキニーネも全く効果が無かった。
そして多くの日本人も既に感染している事が確認された。だが不思議な事にハーフやクォーターでも無い限り日本人の中に発症した者はほとんど居なかった。
逆に非黄色人種の特徴を持つ者は、老若男女を問わず全員が発症し死亡した。
――1945年(昭和20年)3月 皆神山 基地
「周辺サンプルを使用した調整実験は終了でス」
「遺伝情報による分別は正常に機能していまス」
「敵対勢力地域への散布準備をはじめまス」
実験完了です。
隔離を防ぐため発症からの時間は短いですが、感染可能な潜伏期間は長いため感染力は極めて高くなっています。