棺桶図書館の司書……と、その弟子
――棺桶図書館の司書。
棺桶図書館と名前がついているが、これは土地や建物を示す言葉ではない。
棺桶図書館とは、『遺品』を保管する概念的存在の、架空に存在する図書館だ。
そして、棺桶図書館の司書を名乗る者は、人の死に立ち会い、その者がその者であった記憶を代償に『遺品』にするための錬金術を使う。
人の生を死の間際に『遺品』に残す送り人。
それが死神の加護を受けた、使徒たる棺桶図書館の司書の役割なのだ。
各地にある死の神シンダンデスを祭る教会。
そこにある祭壇で、司書から通行許可の祈りを受けた人々は『遺品』に触れる事が出来る。
つまり、人々は彼らのお陰で死を迎えた想い人の記憶に触れ、棺桶図書館の中でその者の記憶に触れる事が出来るのだ。
死を知らせるが、死を迎える者の記憶を刻む棺桶図書館の司書。
異世界にあって都市伝説のような彼らを、忌むべき存在ではなく、むしろ人々は崇め称える。
人々は畏敬の念を込めて棺桶図書館の司書である彼らをこう呼ぶのだ――『白菊の死神』と。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
戦場だった荒野に黒樫の扉を背負い、黒い衣服をまとう者がふたり。
ひとりは煙草をくわえた年老いた白髪頭の女。もうひとりは背の小さな髪型を三つ編にした女子高生くらいの少女。
ふたりの出で立ちは、頭に黒のキャスケット帽をかぶり、ワイシャツにネクタイ、ズボン、革靴に至るまで全て黒。
その上からボタンまで周到に黒で統一されたピーコートを羽織っていた。
地面に転がる者たちとは顔形はおろか、人種も、出で立ちも、肌の色さえ全く違う。
ふたりは、人間。この世界ではとうの昔に絶滅品種危惧に指定されている脆弱な種族だった。
くわえ煙草のまま、年老いた女が手を額に当てて目を細める。
目的のものを見つけると、立ち上がり、後ろにいる少女に声をかけることなくすぐさま駆け始めた。
少し慌てながらも少女も女の後を追う。
女は異常な速度で戦場を駆け抜ける。それは走るというより跳躍と呼んだ方がしっくりくるほどに。
徐々に少女との距離が開いていく。
なにせ足場に邪魔なものがごろごろ転がっているのだ。
死体、死体、死体の山。
歩きづらいことこの上ない。
「光ばーちゃん、待ってぇ!?」
「教官と呼べ、ボケ孫が。それに、そんな悠長にしている暇は無いよ!」
齢70を越えているとは思えねー!!
夜空野花火はそう心で叫ぶが声にはだせない。
そんな暴言を吐けば、目の前の鬼教官でもある祖母夜空野光に家に帰ってどんな罰を与えられるか分かったものではないからだ。
「ひぅうう、死体踏んだよう!?」
「む、仏様踏むとはなってないね。帰ったら腕立て、腹筋、スクワット200回ずついつものに追加さ」
…………それはつまり、500回ということですよね?
「あぁ、また私の桃色の高校生活が、青春と恋が遠退いていきますぅ!?」
花火は帰宅部でありながら、脱いだら凄い。
そりゃあもう、女子にしておくのがもったいないほどのガチムチ細マッチョなのだ。現実世界では普通に高校に通っているのだが、絞まりすぎた体がばれないようにいつも長袖を着用している。
それもこれも鬼教官様の日々のしごき……もとい、ご指導ご鞭撻のお陰だ。
「は、ははは……りょーかい」
「立派な送り人たるもの心技体強くあれ、さ!」
花火が乱れた呼吸で乾いた笑いを漏らす。
光は息一つ乱さずありがたい格言を孫へ贈るのだった。
辿り着いた先には、緑色の肌をしたオスゴブリンが小さな呻き声を漏して倒れていた。
「発見したよ、花火!」
「ぼぇ、ぜはっ、りょーかいです。かはっ……光ばーちゃん」
「……情けないねぇ。それと、教官と呼べアホ孫」
「りょーかい、鬼教官」
「帰ったらあたしをおぶってマラソン追加な」
「は、ははぁ……りょーかい」
オスゴブリンは首からかけたペンダントのロケットに焦点の合わない瞳を向けて、何かずっとうわ言を漏らしている。
誰の目にも、もう長くないと分かった。
「花火、準備!」
「はい、光ばーちゃん!」
「教官だ、バカ花火」
「了解です、教官!」
言われる前に花火は動いていた。
花火の役割は対象者のバイタル確認。
家が医者な事もあり慣れたものだ。
花火は肩から斜めがけした鞄から、手慣れた手つきでまだ蕾の白菊を取り出して、それを祖母へ手渡す。
菊を受け取った光は泥がつくのもいとわずに膝をつく。男の胸に左手を置き、頬に右の掌を這わす。
だが、男は瞳に光を映さない。
「……死神よ、間際の命に間際の時間を与えたもう」
光が小さく呟くと掌から黒い光が灯される。痛みを知らせる脳内の分泌物を錬金術で変換しているのだ。
頬に手を当てられた男が、混濁していた意識を少しばかり取り戻し、目の前の女に気がつく。
これは回復魔法ではない。
そもそもこの世界には、ゲームのように死から救うそんな都合のいい回復魔法は存在しない。
他の魔法も、錬金術も、何かを成すためには同等の対価が必要なのだ。
これは棺桶図書館の司書に与えられた権能。間際に弱く続く生命力を今この一瞬にかき集める錬金術。
不必要な時間を対価に、強い生命力を錬金するのだ。
『あんたらは……誰だ……』
「あたしらは、棺桶図書館の司書さ」
オスゴブリンの瞳が揺らぐ。
棺桶図書館の司書。
その言葉はそのまま死を意味する。
『棺桶……図書館。『白菊の死神』か』
「あぁ、その通りさね。あたしは、夜空野光。あたしらは、あんたの未練に呼ばれてやって来た」
異世界の言葉は、死神より与えられし加護により翻訳される。
死に立ち会う者として、いかなる者でも末期の言葉を聞き届けられるように。また、死を迎える者へ歌を届けるために。
黒樫の扉は棺桶図書館の司書を導く扉。
未練ある者の元へ司書を導く扉だ。
棺桶図書館の司書が念じて扉を開くと、現実と異世界が繋がる仕組みになっている。
『……そう、か』
「あんたを弔い記すためにきた。名を」
『……シャンプー・ハット』
ここは戦場。死が溢れる場所。
棺桶図書館の司書と聞いて、男は何かを悟り青い空を仰いだ。
『あぁ、生きてぇな……でも、それが叶わぬ願いなら、せめて頼む。……『白菊の死神』様、俺を……』
「あぁ。それがあたしら棺桶図書館の司書の仕事さね。あんたの死を任せておくれ」
腹が裂かれた男の腹からはおびただしい量の紫色の血が流れ出ていた。血みどろの臓物がはみ出て、むせかえるような臭いが鼻をつく。
オスゴブリンのそれだけではない。
ここには死の臭いが充満していた。
周囲には肉の焼ける臭い、鉄の香り、腐敗臭が立ちこめている。見渡す限り死体の山。
そこかしこに、戦の相手であろう種類の違うゴブリンも目を閉じることもなく骸と化していた。
『俺の『遺品』を、リンスに……俺の……女房に』
「あぁ、必ず棺桶図書館に納める。だから、もう喋らなくてもいい」
『そうか、ありが……とう……』
棺桶図書館の司書の制服は全て黒。
その中で唯一目を引く白がある。
「あたしの白菊にかけて誓わせてもらうさ」
制服の肩口に大きく刺繍された棺桶図書館の司書の紋章である『白菊』。
棺桶図書館の司書は、死に逝く者を弔うために黒をまとい、導くための『誠実』を白菊に添え魂を安寧へと導くのだ。
「汝、最後に記すべき言葉を」
光が男の口元に耳を寄せる。
『……が……てぇ』
言葉を聞き届けた光が柔らかに微笑む。オスゴブリンも、紫の瞳を向け目尻を緩めて見せた。
「そうかい。確かに賜ったよ」
光のその言葉で、ふらりと男の顔が揺らぐ。安心した事で意識が途切れかけているようだ。
もう、あまり時間が残されていない。
「後は任せな」
皺のある両手が蕾の菊を祈るように包む。
額に接触した蕾の菊が淡く輝きだす。男の心臓に垂直に白菊を構えると、花が意思を持つかのように茎の先から根を伸ばす。
男の体に菊が根付くと、不思議な事に死に化粧を施したかのように男の深い傷が消えた。
白菊の放つ白光が男の全身に回る。
傷は消えたが、それでも訪れる死が消えたわけではない。
これは、死を迎えるために花咲かせるための準備だ。
「光ばーちゃん!」
「教官だ、タコ花火」
「もう、脈が弱くなってます!」
オスゴブリンの手首で脈をバイタル確認していた花火が叫ぶ。
「あたしの孫とあろう者が慌てるんじゃないよ。特級司書夜空野光の辞書に不可能はないのさ!」
光が白菊の蕾を両手で包む。
「口上を捧げます」
小さな、それでも荘厳な声で囁く。
息を潜めたように風が止み静まり返る。
光が皺だらけの指をしゃんと伸ばし、印を象作り眼前へと構えた。
「――かしこみ、かしこみ申す」
光が立ち上がり口上を述べる。
口上に呼応して菊の蕾が踊るようにささやかに揺らぎ始めた。
「一つ、この世に産声上げた暦には」
――――花火が光について異世界を訪れるのには理由がある。
理由の一つは、自分に才能があるからだ。
父である星には棺桶図書館の司書としての才能が無かった。
だから、花火は棺桶図書館の司書になるために光の助手として日々修行を積んでいる。
(光ばーちゃんは、やっぱり最高に素敵です!)
だが、高校生の花火がこんなにも真剣に死に立ち会うのには別の理由がある。
前世の記憶。それが花火には残っているのだ。いや、厳密には思い出した、といった方が正しいか。
人間である花火にとって異世界であるこの世界。ここで花火は、前世人々が忌むべき魔物だった。
家族を育てるために村を襲い、人を食った。自然の摂理に従い生きていた。それだけだ。
それだけの事だが、逆もまた然り。
人々にとって忌むべき魔物となった蜘蛛花火は、村の依頼により雇われた冒険者の手によって討伐され死ぬ事になった。
暗い森でただいっぴき、孤独に、他の生物の餌になる定めを受け入れながら寂しく死ぬことに。
そして現世。
花火が14歳の誕生日を迎えたその夜、前世の死に際の記憶を夢に見て、全てを思い出したのだ。そして、その前世の記憶は花火の生き方を決めた。
蜘蛛の魔物であった醜い存在だった自分。
手足がもげて冷たく暗い水の底――死へと引きずり込まれる感覚は今思い出しても身震いする。
死と生との境界が曖昧で分からなくなり「あぁ、まだ死にたくないなぁ」と家族を思い出し、家族の笑顔を反芻しながら死に至るまどろみに沈みかけていた。
息絶えかけたその間際、蜘蛛花火の元に現れたのが棺桶図書館の司書だった。
彼女は、体液が漏れ血で汚れた蜘蛛花火をきつく抱きしめ何かを囁く。その時自分どんな未練を語ったのかは覚えていないが、とても心安らいだのは覚えている。
心も体も冷たくなった蜘蛛花火に温もりが伝わってきた。
その時、むっつの目に映した彼女の優しい笑顔を、花火は夢から覚めた後片時も忘れた事はない。
彼女は孤独で迎えるはずだった死を『遺品』にかえて救ってくれた。形残らぬ孤独な死を形にしてくれたのだ。
その時、花火を孤独死から救ってくれたのが、棺桶図書館の司書である、まだ若かりし祖母――夜空野光だった。
「二つ、お前とおっかさん二輪の微笑み花咲いた」
棺桶図書館の司書はこの世界の死神様に認められた存在だ。
そして、花火が光の元に人の子として転生したのもおちゃめな死神シンダンデス様の粋な計らいあってのものだった。
だから、花火は死神様に死ぬほど……いや、実際に一度は死んでいるのだが、とても感謝している。
素敵な死をくれた光に。
粋な生をくれた死神様に。
棺桶図書館の司書として歩める二度目の人生に。
この世界には死があふれている。
生きる事を渇望しても、それでも生物は死ぬ。
それは祖母である光もまた同じ。
普通に生きれば祖母である光は、花火より早く死ぬ。どんなに光がハイスペックババアであっても、寿命という枷は人である限り逃れる事はできない。
前世で受けた恩を、光が死を迎えるその際に安らかで幸せな死を持って報いたい。
それが、花火が異世界で光とともに死を学ぶ理由。棺桶図書館の司書として日々鬼教官の元で、死ぬほど辛い修業を重ねる理由なのだ。
「三つ、聞かせておくれ繋ぎ紡いだ君が縁の物語」
故に夜空野花火は、棺桶図書館祖母である夜空野光の元で異世界の死を学ぶ。真剣な表情で彼女の横顔を一瞬たりとも見逃さぬように心に刻む。
いつか、祖母を『遺品』に成すために。
「死ぬこと恐れるなかれ坊よ
生きれば誰しも死ぬのだから」
ゆっくりと口にする数え歌。
まるで子守歌のように流れる声音。
花火は光の語る口上が好きだった。
心に直接触れるような母に抱かれるような声音。
死は怖くないのだと語り、死に向い合せる数え歌。
花火が光の真似をしてみても同じ結果はまだ出せない。印も韻も全て同じようにやっているのに、何も変化は起こらない。
光曰く、死の意味と、弔いへの理解がまだ足りないのだそうだ。
数え歌で韻を踏み、指先から出された白い光の軌跡が菊の花を形作るように印を結ぶ。結んだ印は、印と印とを結びつけ、あやとりの糸のように菊の花を宙に描いていく。
糸から粉雪のように、極細の光の粒子が降り注ぎ、オスゴブリンの体に吸い込まれていった。
「昔話をたんと聞かせておくれ
泣いたり笑ったお前の半生を
宿るべき本に記憶を刻むため」
蛍のように小さな光が手もとに集い、菊の蕾がゆっくりと花開いていく。
緑の肌に花開く純白の白菊に小さな光球が集いだした。
光球の正体は、この地の微精霊。
死を弔い、死を祝い、死に寄り添うために集まった精霊たちだ。
「久遠に君の心音忘れぬように、誰かの記憶に刻むがために」
大輪の白菊を咲かせた花弁が球をカタチ作り、男の体を包みこむ。まるで菊でできた花弁の中で男は姿を変えて『遺品』に生まれ変わるのだ。
「当代棺桶図書館夜空野光が弔い記す、汝の物語ここに産声上げよ。死してなお、言の葉伝える遺品となろう、終結の言葉をくくりに置いて」
白菊の前で韻を切り、印を結び切る。
五芒の星を両の掌で白菊へ贈る。
「『栞』」
光が白菊の繭に手を差し込み、口上を締めくくる。
菊一文字の大輪が更に花弁を大きく膨らませ、爆ぜた。次の瞬間、白い菊の花の花吹雪が戦場に舞った。
光はその手に本を握っていた。
深緑の無骨な本を。
男の緑色の皮膚は背表紙に、白濁の鋭い牙は本の題名を記し、瞳の赤は背表紙に小さな宝石となって埋め込まれている。
光は手にした本をひと撫ですると、丁寧にページを捲った。その本の中で、さっきまで苦悶の表情を浮かべていたオスゴブリンは挿絵の中で笑っていた。
たくさんの子供と、リボンをつけたメスゴブリンと一緒に。
豪勢とはとても呼べない芋ばかりの食卓を囲んで、オスゴブリンは、たんぽぽのような温かい笑顔を緑色の顔に咲かせていた。
おそらく傍らにいるのが妻なのだろう。
「光ばーちゃん、この人最後何て言っていたんですか?」
「ドジ花火、教官な」
「あ、ごめん。師匠、それで最後は何て?」
例え孫であったとしても仕事につくときは公私混同しない。
それが光のモットーだ。特に異世界で仕事をする時は、呼び方を口すっぱく注意してくる。
光がため息をついて眉を上げる。
……あ、怒ってるかも。
考えれば儀式のすぐ後だ。
送り人たる司書として、死者を尊ぶ気持ちが足りなかったかもしれない。
そんな花火の心配をよそに、すぐに光は破顔する。
「花火。こいつな、まずい飯が食いたいってよ」
「え? まずい飯?」
「あぁ、まずい飯さ」
……聞き間違いだろうか?
不味い飯が食いたいと、そう聞こえた気がするが。
それが最後の言葉というのは、理解不能だ。
「ま、まずい飯? それ、旨い飯の間違いじゃなくて? 普通はもっと、こう幸せな……最後の言葉がそれ?」
残す言葉は死ぬ者それぞれだ。
末期の言葉に宿るは死にゆく者それぞれの未練。
だから、千差万別であって当然なのだが。
いや、しかし、ねぇ?
「んな顔するんじゃないよ。コイツはさ、まずい飯が好きなんだ。世界で一番好きな嫁さんの、塩辛くてまじぃ飯が食べたい……そう言ったのさ」
光がオスゴブリンの『遺品』を花火に手渡す。
深緑の表紙を開けページをめくると、木のスプーンを口に運び、顔をしかめるオスゴブリンの挿絵が目にとまった。
その顔は不満ながらもとても幸せそうだ。
「そっ、か。そういう事なんですね」
「そうさ。世界一旨くてまずい飯なんだと」
「光ばーちゃん、それ矛盾してます。でも、うん、納得!」
「教官な。ったく、このたわけた孫が」
ふと花火を見て光が笑う。
その笑顔は、まだまだ未熟者だと言っている。未練の真意を見抜けなかったのだから、まぁ、そうだろう。
「光ばーちゃん」
「あ?」
「とても、素敵な未練だね」
「あぁ、悪くないね」
死に逝く者に白い菊を添える理由は前に教わった。
菊の花言葉は『高貴』『高潔』『高尚』。
菊を添えるのはその者が例えどんな者でも、歩んだ生を誇るべきだという意味を込めて。
白い菊を添えるのは仏花としての弔いの意と、そこにその者が心から願った『誠実』な『真実』を記すため。
「かっ、花火もまだまださね。さて、棺桶図書館に『遺品』を届けにいくよ。嫁さんに連絡も届けてやらなきゃね」
「うん!」
光が指をくわえ指笛を鳴らす。
すると、何もない空間から体がつぎはぎだらけのぬいぐるみの黒龍が現れる。光のバディであるくろちんだ。
「は!? ぐぇ、て、えぇ!?」
光が花火の足を払ってこけさせた。
突然の事だが受け身はばっちり。日頃の訓練のたまものだろう。
オスゴブリンの『遺品』は、倒れこむ際にしっかり奪われた。ひょいと光が黒龍に飛び乗ると、花火が乗るのを待たずに飛び立ってしまう。
「ちょ、待って光ばーちゃん!? こんな所に置いてかないでくださいぃ!?」
「仕事中にばーちゃんって言った罰さ。何度言っても直しやしない、グズ花火は体で叩き込むしかないようだ。1キロ先で待ってるから走っておいで」
「お、鬼教官!?」
「5キロ先に変更。5分でこい」
かんらかんらという笑い声。
婆ちゃんは仕事に煩く厳しい。
いつも優しくても犯したミスには覚えるために罰を与える。
5キロ5分……単純計算で1キロ1分。プロより速いよねそれ無理ですよね!?
死体だらけの歩きづらい荒野を半泣きで全力疾走する黒服の女子高生。
夜空野花火は鬼教官でもあり、祖母でもあり、尊敬する憧れの特級棺桶図書館の司書でもある夜空野光の元で今日もしごかれる。
いつかその憧れの祖母を弔い、幸せな死を贈る立派な棺桶図書館の司書になるために。
「ひ、光ばーちゃん待ってぇええ!」
その日はまだまだ遠そうだが。
☆ ☆ ☆
国立神奈川大学付属高校医学部。
ここは、夜空野花火が通う高校だ。
偏差値は全国トップクラス。
熾烈な受験戦争を勝ち抜いてきたいいとこ出のエリートさんばかりが通う、名の知れた有名国立大学の付属高校だったりする。
異世界に棺桶図書館の司書として光と修行に行けばポンコツに見えてしまうが、実は花火は優秀なのだ。
ゆくゆくは兄の流星が夜空野病院を継ぐことになるのだろうが、それは妹である花火が医学の勉強を怠る理由にはならない。
何より文武両道を維持できなければ、光は花火に異世界への同行を許してくれないのだ。
「花火さん、これ受け取って下さい!」
「や、あの、困ります」
「放課後、来てくれるまで待ってる」
地味でもいいから、少女漫画のような青春と恋の甘酸っぱい高校生活をエンジョイしたい。それが花火の高校で切望するささやかな夢だ。
そう、普通の、願わくばティーンズ向けの恋愛漫画のような青春がしたいだけ。
「果たし状なんて……いらないよぅ」
だから、花火は、こんな挑戦状なんて断じて望んでいないのだ。
「はじめ!」
「やぁあああああ!」
「ひぅ、もうこんな高校生活嫌ぁああああ!?」
だからと言って負けていい理由にはならない。負ければ鬼教官に勝つまで鍛練させられる。きっと自衛隊の訓練など子供の遊戯に感じてしまうほどの地獄を味わうに違いない。
異世界には危険がつきもの。
送り人である棺桶図書館の司書が、殺されては死にゆく者を『遺品』にすることなどできない。
なので花火は光に武術を含めた訓練の手解き……いや、正に生き地獄の修行の日々を高校生になるまでの今日まで生き抜いてきたのだ。
「いっ……一本それまで!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、帰りますできればあのような手紙もうご勘弁して頂けると助かります、さようなら!」
脱兎の如く柔道場を後にした。
ちなみに、今花火が背負い投げしたのは今年全国大会に出場した、オリンピック候補生にも選ばれている猪熊君だ。
まぁ、乙女に瞬殺される相手の名前など花火は知るよしもないのだが。
「花火お姉さま、流石です凄いですわ!」
「止めて下さい、空ちゃん。うぅ、羞恥で死んでしまいそうなのですよ」
「成績は入学以来トップ。剣道、柔道、ボクシング。おまけに、水泳、バスケ、新体操。現在に至るまで無敗。無冠の女帝の渾名は伊達じゃありませんわね」
「……その渾名止めて、空ちゃん」
花火をお姉さまと慕うのは、三鷹空。花火の後輩であり貴重な友人だ。
そうは言っても、彼女もまた女帝の噂を聞きつけ、挑んだフェンシングで花火に完膚なくぼろ負けした口なのだが。
負けて以来、空は花火にこうして付きまとい友人にまで昇華した。
「うぅ、体が痛いよぅ」
「お姉さま、投げた時にどこか痛めましたか?」
「鬼教官が……いや、何でもない。あっはは、全然大丈夫だよゲンキゲンキ!」
流石の花火も先日の筋トレメニュー500回は筋肉痛になった。
腕立て伏せ、腹筋、ヒンズースクワット各500回は流石に冗談かと思っていたが……マジでした。
えぇ、マラソンもしましたが何か?
「三つ編み眼鏡も止めたら絶対可愛いですのに勿体ない。でも、どうやったらお姉さまのように完璧なレディになれるんですの?」
ファンクラブがあるほど美形な空。
天使の輪のキューティクルが長く艶やかな黒髪に輝く彼女は、正に大和撫子という言葉がぴったりのお嬢様だ。
空に可愛いなど言われても普通は嫌味になるのだが、それを本心から言ってくれているのが分かるからこそ、花火も空と友人を続けている。
花火が髪を三つ編みにするのは仕事に邪魔だから。眼鏡は勉強のしすぎで単純に近眼。コンタクト……怖い。
裏家業の事を、ましてや異世界に行ける戯れ言をべらべらと喋れる訳もない。
「憧れ、かなぁ」
当たり障りのない答えを返す。
だが、嘘ではない。大切にして唯一の友人の空に嘘はつきたくなかった。
花火は、棺桶図書館の司書として、白菊の意味する『誠実』で『真実』のある答えを考えながら空に尋ねられた質問の答えを説明していく。
「花火お姉さまが、憧れ、ですか?」
「うん、そう。私のおばーちゃんは、本当の完璧超人なんです。凄く口が悪くて自信家ですけど、いつだって最高に素敵な私の憧れですね」
「最高に素敵、ですか」
「うん、そして最強で不敵」
「ぷっ、なんです、それ?」
はにかんで空に向く。
その笑顔をうっとりと見つめられているのは、気のせいではないだろう。
「だからね。私も頑張ろうっていつも思えるんだ。いつか、恩返しができる私になるために」
「……素敵です。憧れの君に近づくため努力し続ける。それは、正に愛。私がお姉さまに抱く感情はまだまだ未熟と知りました、――お姉さま!」
「は、はひ!?」
なんか、後輩の目が怖い。
これを狂気というのだろうか?
鼻息も荒いし、なにやら求めていない覚悟も感じる。
花火はベンチを後退する。
その分空が距離を詰め寄ってくる。
キーンコーンカーンコーン
キーンコーンカーンコーン
「あ、もうこんな時間帰らなきゃですね、じゃあ!」
「あぁ、花火お姉さま!?」
クラスでは女帝の渾名が邪魔をして、気安く話しかけてくれる友はいない。
素敵な後輩がいて、部活にいそしむ猛者たちから果たし状を貰う日々には退屈はしない。
だが、先に述べたように花火は普通の青春ラブストーリーは泣きたくなるほど超無縁なのだ。
「でもさ、絶対なるんです。立派な棺桶図書館の司書に」
土日だけとはいえ、異世界に行くのは得難い経験だ。
祖母から技を盗む機会があるなら、勉強や学校の勝負事の成績を下げ自分の怠慢で同行を却下されては本末転倒。
だから、花火は努力する。
強く正しく誰にも負けないように。
女帝と呼ばれ、切望する花色の高校生活が遠のいたとしても。
憧れである光を追い続ける花火であり続けるために、必死に努力を重ねているのだ。
「あぁ、普通の青春はいずこでしょうか」
まだまだ、花火にその日は訪れそうにない。いや、光を追い続ける限り諦めなければならないだろう。
だが、花火には、恋よりも、青春よりも大切な目標がある。
「帰ったら、次の司書業の準備しなきゃ」
憧れ。そう空に話した祖母の顔を思い出し、少し胸が弾む。同時に訓練の事を考えて胃が痛んだが、心は軽い。
「いつか、誉めさせてやるんです!」
当面の目標を口にする。
家路につく帰路でオレンジ色の夕焼け空に少しせっかちな星を見つけ、誰かさんのようだと花火は微笑んだ。
☆ ☆ ☆
棺桶図書館自体は形としての建造物は無く、棺桶図書館に『遺品』を納める手続きはシンダンデス教団本部でしなければならない。
教団本部が雲の上を漂う浮遊島にあるところなんかは、いかにも異世界っぽい。
浮遊島には年中枯れる事のない白菊が咲き乱れ、すり鉢状に螺旋になった島の中央に教団本部『白菊の塔』はあった。
「おーい、あたしが来たさね」
まぁ、そんな常人が辿り着けない立地など棺桶図書館の司書には関係ないのだが。
司書は階級に応じて本部の許可された場所直通の扉を開く事ができる。
特級司書の光ともなれば、本部のほとんどの場所へ自宅の扉を開くだけで行くことができるのだ。
黒樫の扉を開くと広いロビーだった。
ここは教団の最深部。花火もまだ数えるほどしか来たことがない場所だ。
床は光沢のある黒曜石に象牙を思わせるようなアイボリーの太い柱が等間隔で配置されている。
床も壁も全てが黒いが、星石と呼ばれる天然石が部屋中にちりばめられており、仄かな銀色の灯りが夜空を照らす星のように瞬き、その景色は非常に幻想的だ。
「やっぱりここは綺麗ですね。プラネタリウムを見ているみたいですよ、光ばーちゃん」
「また頭ぶつけんじゃないよ。それに、今は仕事中。教官だ、ボケ孫」
死は待ってくれない。なので、『遺品』を棺桶図書館に納める手続きは24時間受け付けている。納品対応するために、専用の司書も交代で本部に常駐しているのだ。
「お待ちしておりました」
「げ。迎えはあんたかよ……クロロ・フィル」
緑髪のミディアムボブに、青空を思わせる碧眼は女の花火が見とれるほど美しい。尖った耳は、どの物語でも度々登場する有名種族エルフだ。朗らかな笑顔をもって光と花火を出迎えてくれた。
「げ、とは久しぶりなのに随分な挨拶ですね。それに、愛称でクロフィーとお呼びくださいといつもいってるのですが、ヒカリん」
「は、絶対御免だね。あとそのヒカリんってのも止めてくれ。あんたにそう呼ばれるとぞわぞわして仕方ないさね」
瑞々しいお肌は、どう見ても20代にしか見えないがこう見えて光より年上。
司書の等級も光と同じ特級司書で、この異世界にも100人といない有能な人物だ。
花火が光の助手になってから色々と面倒を見てくれる優しいお姉さん的存在だが……年齢に触れる事だけはご法度とされている。
「こんにちは、クロフィーさん」
「あら、花火ちゃんまた綺麗になりましたね。そして、逞しく。逞しく?ちょっと……ステータスを見ても?」
「はいどうぞ。オープンステータス」
この世界では人の能力が数値化され、見ることができる。胸の辺りに青く半透明の四角い枠が表示され、花火のステータスが現れた。
ステータスはこの異世界でもプライバシーに当たる個人情報だが、クロフィーになら見られても問題ない。
「……なんですか、これは?」
「はっ、育ちまくって驚いたか?」
光の言葉を受けてピクリと尖った耳をクロフィーが動かし、片眉がつり上がる。
「この筋力数値だけがAの異常に成長した状況をどう誉めろと?いいですか、ヒカリん。花火ちゃんは女の子なんですよ?」
「うるせぇ、人の孫にケチつけてくださんなよ」
「確かに他の数値もビックリするくらい成長していますが、この育ち方は、キチガイじみた訓練でもしなくてはこうはなりません」
うん、キチガイじみた訓練してます。
だが、花火も大人の会話に首を突っ込まない程度には処世術を身につけている。
特にこのふたりの会話には。
「うるせぇって。死んじまってから後悔するんじゃ意味ねぇさね――ごほっ、か」
「全くあなたは……大丈夫ですか?」
花火が光の背をさする。
「最近、光ばーちゃん調子が悪そうで」
「あらあら、そうなんですか? もうババアですからね。こんな可愛いお孫さんがいるんだから無理しちゃダメですよ?」
「コイツに余計な事言うんじゃないよ、バカ花火。それにあたしがババアなら、クロロ・フィル、年上のあんたは超クソババアさね」
「あらあら、あらあらあら、ぶっ殺してさし上げましょうか?」
「おう、上等さ」
クロフィーの雰囲気が一気に剣呑なものへと変貌を遂げる。女子としてはしたないと思うが、その気に当てられて花火は怖くてチビりそうだ。
何やら二人とも両手に黒い光がバチバチさせてガンつけ合っている。
「こんなところでいい歳して喧嘩しないでくださいよぅ!?」
「喧嘩なんか生温い事しねぇよな?」
「えぇ、これは戦争です」
「それもっとアカンやつです!」
特級司書がわざわざ出迎えに現れる事自体来ビップ待遇なのだが、他の棺桶図書館の司書でも知っているくらいクロフィーと光は犬猿の仲なのだ。きっと、シンダンデスの仕業に違いない。
くそ、あのおちゃめ死神め余計な事を。
「いい歳とか言われていますよ、ババア?」
「花火はあんたの事言ったんだよ、超クソババア?」
なんか空間が軋んでる。
だから、嫌なんです。
「はいは~い、二人ともそこまでだよ☆」
花火が死を覚悟した絶妙のタイミングで、まるで見計らったように、可愛いリボンを付けた骸骨が空を飛んでやってきた。
棺桶図書館の司書の最高責任者でもあるシンダンデスだ。
「花火ちゃんをいじめない。ボクのお気に入りなんだからさ」
ホッと胸を撫でおろす。
キュートな髑髏が片目をウインクすると、昂った二人の魔力が霧散した。流石腐っても神様だ。これで争いは終結だろう。
「シンダンデス、あんただろう。クロロ・フィルをあたしの所によこしたのはさ?」
「いや~、光ちゃんもそろそろ寿命が近いからね~。死ぬ前に仲直りした方がいいとボクは思ったんだけど……無理そうかなぁ?」
「「無理」です」
ぴしゃりと声がハモリ、犬の糞でも踏んだように顔をしかめる二人。本当は息ピッタリなんじゃね? そう思ったが花火は黙する。
これ以上火に油を注ぐわけにはいかない。
「はぁ、気分悪ぃからさっさと帰るさね。クロロ・フィル、ほらよ」
「はい、とっととお帰りくださいな」
「何でまた喧嘩するかなぁ? 二人とも、まだ40年も前の事をまだ根にもっているの? 頼みたい大きな仕事もあるし、そろそろ和解してよ」
花火がクロフィーに、この前扱った獣人狼族男性の『遺品』を手渡す。
オスゴブリンの時は本になったが、獣人狼族男性の場合は飾りのない無骨な槍の『遺品』になった。
儀式を受けてどんな形になるかはその者次第。故郷に残してきた弟子が彼の未練。
家族を持たない彼は、自分の技と心を弟子へ知らせるために槍の『遺品』を残した。
司書は、棺桶図書館に『遺品』を納める前にどの司書でも探せるように個別の整理番号を付与する。
特級司書のクロフィーさんがやる事ではないにしろ『遺品』管理も棺桶図書館の司書の大切な仕事だ。
「大きな仕事?」
「うん、ちょっと特級司書、それもベテランの君らにしか任せられない仕事かな」
「聞こうじゃないか」
「まだ、その時じゃないんだけどね。追って連絡するよ。覚悟だけはしておいてって話」
シンダンデスとクロフィーが花火にチラリと視線を送る。
「あぁ……そういうことかい。分かった。連絡を待つとするさね。いくよ、花火」
「あ、待ってください。シンダンデス様、クロフィーさん、またなのです!」
踵を返し、すたすた来た道を歩く光。花火が慌ててお辞儀をして光に並ぶ。
いつもお約束の「教官だ、バカ花火」を口にする事もなく、思い詰めた表情をしている。少し恐い。
「どうしたんですか、光ばーちゃん?」
不安を覚え、花火が尋ねる。
「ん、なんでもないさ。あと、教官だ。帰ったら……みっちり口上と儀式の練習だ」
「え、筋トレじゃないんですか?」
むしろ、口上と儀式を教えてくれるなら願ったり叶ったりだ。
花火がこれまでやり方を教わろうとしても、ちゃんと教えてくれたことはなかったのだから。
「楽できると思ったら大間違いさ。いいね、私がいいと言うまで続けるから覚悟しな?」
「う、うん。じゃなくて、はい!」
なんだか光が認めてくれたみたいで嬉しかった。扉から自宅に帰るまで、にまにまが止められない花火。
だが、宣言どおり光は鬼教官っぷりを遺憾なく発揮し、修行の中断が言い渡されたのは午前2時を回ってのことだった。
修行を終えると体重が3キロも減ったが、ベッドに倒れこんだ花火の顔は晴れ晴れとしている。
また少し憧れの光に近づけた、そう思いながら笑顔で眠りにつくのであった。
「まったく……本当に可愛いバカ花火さね」
スピー、と気持ち良さそうに寝息を立てる花火の寝顔を見て、光は部屋の扉をそっと閉めた。
☆☆☆
教団本部に顔を出してからひと月。
花火はあれから一度も異世界へ行っていない。光が今回の仕事に花火の同行を許可しなかったのだ。
理由は「実力不足」の一言。シンプル故にそう言われては食い下がる訳にもいかず、花火はここ最近で最も平穏で、物足りない土日を家で過ごしている。
居間で集中できぬ頭のまま参考書を眺めていると、扉が開いた。
「ふぅ、やっぱり我が家は落ち着くさね」
そこには汚れた黒づくめの制服を着た光が、顔を泥だらけにして立っていた。
「光ばーちゃん!」
「おぅ、ただいま。花火」
光が家に帰ってきたのは3日ぶり。
花火が同行して異世界に仕事に出掛けたときでも、これほど長期に家を開けたことはない。
「おかえりなさいです! 今お風呂沸かすから待ってて下さい。あ、それよりも食事。いやいやまずは熱いお茶を。それともそれとも」
オロオロとする花火。
そんな花火を見て、光は目を細め笑う。
「そんな慌てなくても大丈夫さね。それよりも、花火。あんたの話を聞かせておくれ」
「私の話 ですか?」
「あぁ、学校の事とか修行の事とかさ。駄目かい?」
「はい、大丈夫です! なら、お茶とせんべいすぐに用意してきます」
ひまわりのような明るい笑顔を咲かせると、花火は台所へ駆けていく。
光は居間の座卓にどかっと腰を下ろすと、微笑みながら花火を目で追い、そのまま眠ってしまった。
台所から帰ってきた花火は、眠る光を見つけると「……ぁ」と声を漏らして少し残念そうな顔をしたが、毛布をそっとかける。
こんなに疲れていたのに、花火の話を聞こうとしてくれた光の優しさに感謝しながら、祖母の寝顔を眺めて自主学習に精をだすのであった。
「悪かったね。今の仕事が落ち着いたらまた話を聞くさ。あと、修行の方も死ぬほどしごいてやるさね」
「はい。楽しみに待ってます」
声はいつもどおり。だが、子犬のようにしょぼくれた様子の花火に皺だらけの手が伸ばされる。光は花火の頭を撫でてくれた。
「……光ばーちゃん。私、もう子供じゃないんですよ?」
「かっかっか。孫はいくら大きくなろうと可愛い孫さね。じゃ、行ってくるな花火」
「はい、光 ばーちゃん。いってらっしゃい」
修行絡みや勝負事が絡まなければ光は優しいお婆ちゃんだ。花火にとって憧れの師匠でもあり、大切な家族でもある。
「光ばーちゃん、体は大丈夫?」
「ん、心配ないさ。それで元気がなかったのかい。へいちゃらさ。最近は咳もでてないだろう?」
「……うん。そうだね」
かんらかんらと笑ってはいるが、体調を崩し、病み上がりの光が花火は心配だ。
夜明け前に光は家を後にした。
シンダンデスが光とクロフィーに言った特級司書でなくてはこなせない大きな仕事。
内容すら話さないという事は、きっと花火の面倒を見きれないほどの危険が伴う現場なのだろう。
ついて行きたくとも、ひよっこですらない花火は足手まといにしかならない。
ならば、花火は今できる事をするだけ。
せっかく見送りで朝早く目覚めたのだ。時間を有効活用するとしよう。
「よし、光ばーちゃんが頑張ってるんです。私も少しでも頑張らなくちゃなのです!」
口上と儀式の訓練を重ねる花火。少しずつだが成果は上がっている。
言葉と印、口上と韻、そして集中したときに胸の辺りにもやもやとした熱を感じるようになった。
それと、仄かに白菊の蕾が明かりを灯すようになってきたので、あともう一歩で蕾を花開かせる事ができそうなのだ。
「でも、花開かないんですよね」
さわさわと蕾の先が動く。
動きはするのだが、いくら力んでも、集中しようとも、そこから先花開くステージに進めないのだ。
あと一歩。あと一歩なのだがその一歩がとてつもなく遠く感じる。
「よし、もう一回」
学校が休みの土曜日。この日は花火は一日中ひとりで儀式の訓練に没頭した。
それでも、白菊が花を咲かせる事は無かったが。
☆ ☆ ☆
気を失うように床で寝てしまった花火は、夜中に目を覚ました。
時間を確認すれば午前2時過ぎ。少し根を詰めすぎたようだ。
雨戸がガシャガシャと騒がしい。
女性の悲鳴のような風切り音が外から聞こえてくる。雨が吹き付ける音もした。
「そういえば台風がくるってニュースでいってました」
雨戸も締めずに寝てしまったのか。
窓から夜の闇の中で、レジ袋や葉や木が吹き飛んでいく様子が目に入る。
「……!」
ふいに胸がざわつく。
理由が分からないが、胸の動機が激しくなりひどく落ち着かない。
これは、虫の知らせだ。
以前、光が話してくれた。
虫の知らせは、誰かが未練を叫ぶ心の声なのだと。
棺桶図書館の司書は未練の声を聞く才を持つ者。誰に声が届くのかは縁のみが知るところ。そして、今は誰かの虫の知らせが花火を呼んでいるのだ。
初めての経験だが間違いない。
胸のざわめきが花火に訴えている。
未練を聞き届けて欲しい、と。
「……呼ばれてる」
花火は立ち上がる。
今まで一度も自分の手で異世界の扉を繋いだ事はない。いつも光の後に続いてついていっていただけだ。
だが、今光はいない。
そして、なぜだか分からないが花火が呼ばれているのだとはっきりと分かった。
「私を呼んでます。間違いありません。行かなきゃ」
クローゼットの中から制服を取りだし着用する。ネクタイを結び、革の半長靴の紐をきつく結び、仕事用の肩かけ鞄をかける。
棺桶図書館の司書たる者慌てるべからず、それはさんざん光に叩き込まれてきた事だ。
現場で自分が死んだのでは弔う命を『遺品』に残す事など叶わない。
仕事に失敗のいいわけなど作らないために常時準備は怠らない。死が絡む現場で、ああしてれば、こうしてれば、と後で呟いた所で手遅れなのだから。
いつでも光と異世界に行けるように鞄の中に必要な道具は揃っている。
キャスケット帽を目深に被るとドアに向き直った。
「今行きますからまだ頑張ってください」
まだ顔も見ぬ相手の無事を祈る。
自室の扉のドアノブに手をかけた。
花火を求める声の元へ、そうイメージをたどり着くように念じて扉を開く。
「……できた」
室内に生暖かい風が吹き込んできた。
現実とは違う精霊たちの気配も感じる。繋がった、そう確信して扉を開放する。
『がうぅ』
「……え、くろちん?」
扉を開けると、目の前に見覚えのあるパッチワークだらけのぬいぐるみがいた。黒いボタンの瞳が花火をじっと見詰めてくる。光のバディペットであるぬいぐるみ黒龍くろちんだ。
花火はすぐに異変に気づいた。
ボタンの瞳は片方失われ、右腕は肩から千切れており、腹から綿がでている。
おまけに、体は黒く焼け焦げた後が残っており、ぬいぐるみに大怪我と呼んでいいものか迷うが、とても無事な姿とは言えない。
「くろちん、大怪我しているじゃないですか! 大変です、すぐに修復してもらわないと!?」
くろちんは、昔光の友人だった者が光に残した『遺品』だ。シンダンデスの許可を得て、光に従事する意思ある玩具の龍だった。
『遺品』の修復管理は専門の司書が必要で、門外漢である花火ではどうすることもできない。
後ろの黒樫の扉をくぐって教団本部に行けばきっと誰か司書がいるはず。ここに来れたのだ、きっと大丈夫。
そう思って踵を返した。
「すぐに司書を呼んできます。はぐぅ!?」
花火はくろちんにピーコートの襟首をくわえられ、乱暴に背中の方へと放り投げられる。
「は、ほぇええ!?」
背中から落ちたが、幸いにして落下先はぬいぐるみのクッションで怪我はない。
「花火ちゃん! どうしてここに……」
目を見開いてクロフィーが声を上げる。
花火もまた目を見開き声を失った。
「光、ばーちゃん……?」
「ばか……花火。……仕事中は……きょう……かん、だ」
半身を失い、なんで生きているか分からないほどの重体の光が花火を待ち受けていた。
☆ ☆ ☆
空には暗雲が立ち込め、雨が激しく激しく降り注いでいた。
周囲は背の高い針葉樹に囲われているのだが、なぜか花火の周囲の地面はアイスをスプーンですくったように深く抉れている。
近くで雷が落ち轟音が響いた。
花火の目の前にはクロフィーが光を抱きかかえて座っている。
こんな状態で生きているのが奇跡だ。光はもう間もなく……死ぬ。
「いけすかねぇ……女のひざまくらで……まったかいがあったさね……」
光が言葉を紡ぐ。
花火の視界がみるみる涙で埋まる。
その光の言葉で理解した。
――花火を呼んだ未練は光なのだ、と。
「ごめんね、花火ちゃん」
「……クロフィー、さん」
光を抱きかかえ、クロフィーが唇を噛み締めながら花火へ謝罪を口にする。
「……私たちは荒魂、それも禍津日神弔いの儀式に当たっていたの」
「禍津日神……」
死に逝く者の未練は綺麗な感情ばかりではない。憎しみや、殺意、悪意ある未練もある。それを荒魂と呼ぶ。
その中でも世の不合理を全てを憎み、生ある時から憎悪を蓄え、穢れた魂を払う司書を呪い殺してしまう死を拒絶する危険な未練がある。
それが、禍津日神だ。
「シンダンデス様のお力添えもあって、どうにか『遺品』へ変える事ができたのですが、同行した他の特級司書は残念ながら……全員、呪いに食い殺されてしまいました」
自我を失った未練である禍津日神は獣を象どり、死を拒み、死に抗い、生ある者を食らうのだと、光から聞いた事がある。
「今回の依頼対象は元勇者の後始末。彼は彼が救った者に、行き場を失った力が自分たちに向くことを恐れられ、共に旅をしてきた仲間に殺されたのです」
「……救った者に殺された……」
酷すぎる話だった。
現実も異世界も変わらない。いつだって醜い心が不幸な未練を産みだすのだと、光が以前話をしてくれた。
「本当に……醜いです」
そんな輩のために光は死ぬ。
考えれば、この禍津日神だって被害者ではないか。
「きっと、危険な仕事以前に花火ちゃんにこんな汚れ仕事をさせたくなかったのでしょうね」
「……光ばーちゃん」
「白菊が花散らす前に禍津日神が暴走して、私をかばったヒカリんは下半身を食い千切られたのです」
クロフィーが唇を噛み、肩を震わせる。
いつも柔和な彼女が涙をこぼすところを花火は初めて見た。
その手には、錠前のついた黒表紙の本が握られている。おそらく、それが禍津日神となった勇者の『遺品』なのだろう。
「は……な……び」
光が花火を呼ぶ。
「光ばーちゃん、死なないで……ください。まだ、私は、ひとりじゃ……ダメなんです」
「ばか……はな、び……」
今にも光の瞳は閉じそうだった。
死にかけているというのに、出来の悪い弟子を叱咤して、言葉の続きを眼差しが語り継ぐ。
「無理です……私には」
「で……きる……さね」
あたしの死を弔っておくれ。
花火ならできる。なにせ、あたしのバカ弟子で自慢の孫なんだから。
そう、瞳が語りかけていた。
「こんなときに、誉めるの……ズルいです」
光は何も言っていない。
ただ、花火の言葉に目尻を僅かに緩めただけだ。それでも、花火は涙を袖で拭い光に向き直る。
「花火ちゃん、もう!」
「……私、やります」
今、花火が何をしなければいけないのか、光が花火に何を望んでいるのか、最初から分かっていたのだ。
まだその時はこないと思っていた。
花火はそう遠くない未来に棺桶図書館の司書になり、そのうち光に認められ、そして、これからも一緒に仕事をして……いつか恩返しをするのだと、そう思っていた。
勝手に思い込んでいたのだ。
いつか訪れる未来がいつかなど誰にも分からないではないか。
それは確かに数年先だったかもしれないし、明日かもしれなかったのだ。
「クロフィーさん、手を貸してください。光ばーちゃんを、弔うために」
「……花火ちゃん……」
今、目の前に花火に救いを求める未練がある。棺桶図書館の司書として、憧れに報いる機会は、いつかではなく今なのだ
それでいい。
光の目が花火に語りかける。
「……死神よ、間際の命に間際の時間を与えたもう」
クロフィーが『間際』の錬金術を行使する。
花火はまだ未熟。足りない力は誰かに借りてでも、花火は花火に向けられる未練に答えねばならない。
光に求められているのは、他でもない花火なのだから。
「汝、最後に記すべき言葉を」
涙は留まることなく流れ落ちる。
それでも、花火は光に顔を寄せて凛とした声で訪ねる。
「り……なししょ――」
泣き崩れそうになるのを歯を食い縛り、耐え涙声で花火は答える。
「……賜りました」
光は微笑んだ。
花火の胸中に、色々な記憶や感情が渦巻いている。とても集中している状態とはほど遠い精神状態だ。
しかし、まるで背中越しに光が手を添えてリードしてくれているかのように体が動く。
涙は止まらない。それでも瞳を閉じずに花火は光の顔を見て、光もそれを受け止める。
口上を口にする。
鞄から取り出した白菊の蕾に指をかざすと、光の心臓に根が伸びていく。あんなに失敗したのが嘘かのように、根を張った白菊の蕾がさわさわと揺れ始めた。
「――――かしこみ、かしこみ申す」
光の表情が穏やかな物へ変わっていく。韻と印、花火の数え歌に呼応して蕾の花弁が徐々にほどけていく。
『――『栞』』
純白の菊一文字の大輪が咲き誇り――花吹雪が舞った。
☆ ☆ ☆
――あれから1年。
花火は棺桶図書館の司書として、異世界を訪れていた。赤い菊が内に刺繍されたキャスケット帽をかぶって。
このキャスケット帽は、光が花火に残した『遺品』だ。
「汝、最後に記すべき言葉を」
異世界の晴れた空を瞳に映し、赤子を抱いたまま死に逝く女が言葉を紡ぐ。
「……確かに、賜りました」
女の瞳が赤ん坊を追う。
伝った涙を赤子が拭い、不思議そうな顔で手についた液体を見たが、すぐに笑いまた母の頬を小さな手で触れる。
その様子を見た母の目から、とめどなく涙が頬を伝っていく。
花火が白菊をかざす。口上を語り、数えの韻を歌いう。病に犯され続け、苦しんだ彼女は最後に安らかな表情を赤子に向けると、部屋に白菊の花びらが爆ぜた。
「あらあら、随分と上達したわね、花火ちゃん」
「ありがとうございます、師匠」
現在花火の師匠を務めるクロフィーが儀式の手際を誉める。
「もう、また師匠って呼ぶんだから。昔みたいにクロフィーって呼んで欲しいんですよ、私は?」
「公私混同は避けないと、甘えが出てしまいそうだと思って。すいません」
「もぅ」
まだまだ師匠つきの身分の花火。だが、最近はやっと一連の作業が板についてきた。
「ヒカリんは散々名前で呼んでいたのに?」
「はい。あれはワザとでしたので」
「あらあら、あらあらあら。じゃあ、仕方ないわね。私にはあんなに……優しく鬼教官なんてできないもの」
花火は光の孫である事を何よりも誇りに思っている。その関係を何よりも大切にしていると光に伝える意図で「光ばーちゃん」と呼び続けた。まぁ、大分苦労はしたが。
「そう言えば、この方は最後なんて?」
「いい男に会いたいって言ってました」
にっこりと花火が答え、それを聞いたクロフィーがキョトンとする。
「いい男? 坊やを抱いて、末期の言葉がそれですか?」
それで地獄の訓練を命じられようと。
それで高校での青春を捨てようとも。
花火は光を師匠ではなく「光ばーちゃん」と呼びたかったのだ。
「えぇ、その坊やが成人していい男になったとき、棺桶図書館で会えたならと、そう言ってました」
「まぁ、それは」
「えぇ、素敵な未練ですよね。でも、師匠もまだまだですね。そんな事じゃすぐに追い越しちゃいますよ?」
「あらあら、あらあらあら、花火ちゃんに喧嘩を売られてしまったわ。どうしましょ。ふふっ、とても素敵だわ。確かに、私もまだまだね」
異世界の柔らかな風がふたりの髪を揺らす。空を見上げると、澄み渡る青空がどこまでも広がっていた。
花火は泣きそうになったが、笑う。
光が花火に伝えた末期の未練。
「立派な司書になるんだよ」と花火の事で、どこまでも師匠で、光らしいものだった。
だから、花火は司書を目指す。
――光のような特級司書を。
その代わり残した『遺品』。
キャスケット帽の内側に刺繍された赤い菊の花言葉は『あんたを愛している』だ。
常に花火とともにいるという意味を込めてか、制服のひとつであるキャスケット帽子に『遺品』を残した。
特級司書への道はまだまだ長い。
ならば、焦らず歩いていこう。
花火は黒いキャスケット帽を目深にかぶりなおした。
「さぁ、棺桶図書館に納めに行きましょう、師匠」
光の残した『遺品』とともに。