08_聖なるもの(Святой)
「え?」
両脚でまっすぐに立っているタミンを見て、クニカは呆然とする。タミンは、右脚を怪我していたはずではなかったのか。
「どういうこと……?」
「静かに」
答える代わりに、タミンは懐から何かを取り出した。銃だった。クニカは、頭が追い付かなかった。
「タミン?」
「隠れて」
タミンに促されるがまま、祭壇の裏側に、クニカは身を隠す。
やがて、聖堂の側面に伸びていた通路から、人影が飛び出してきた。タミンの兄・タージェだった。タージェは息を切らしていて、着ている服は破け、肩から血を流していた。
リンの姿はない。タージェは、リンを食品工場まで案内していたはずだ。
クニカの背筋に、冷たいものが走る。
「リンはどうしたの?」
「やられた!」
弟の問いに、兄が答える。
「アイツ、魔法が使える。後ろから襲おうとしたら、翼が生えてきて――地下道のお蔭で助かった」
自分の心臓が、口から飛び出してしまうのではないか――クニカはそう思った。じっとしているだけのことが、こんなにも苦しいとは、クニカは想像したこともなかった。背中に渡し込まれたナイフが、噴き出してきた汗で湿る。
――変な真似したら、承知しないからな。
別れ際、リンはそう言っていた。リンの予感は当たっていたのだ。
「待て」
タージェが言う。
「もうひとりはどうした? クニカって奴は?」
「逃げたよ」
「何だって?!」
祭壇越しに、タージェの胸の辺りが、赤い色に覆われる。今ならば、クニカにも色の意味が分かる。どういうわけかクニカは、他人の感情を、色として識別できるようだった。緑は平静、黄色は緊張、青は悲しみで――赤は怒りだろう。
「殺しとけって言ったろ。後ろからズドン、だ」
左手の人差し指と親指を立てると、タージェは銃を撃つ仕草をする。生々しい仕草だった。背中を撃たれ、床に自分の身体が叩きつけられる様子を、クニカは連想してしまった。
タミンは首を振った。
「できないよ、そんなこと」
「分かってんのか」
弟の両肩を鷲掴みにすると、タージェは強く揺さぶった。
「二人とも生きてやがる。殺されるかもしれないんだぞ、俺たち」
「逃げるさ、二人とも」
タミンの顔は青ざめていた。ただ、それは「殺されるかもしれない」という怖れのためではなく、兄と対立することの怖れのためであるように、クニカには見えた。
「殺しになんか来ない。賢いんだよ、二人は」
タミンは言う。弟から離れると、タージェは頭を抱える。
「ボクたちと違って、ちゃんと助け合おうとしている」
「オレたちだってそうだろ……!」
「罠にはめようとしていた」
タミンは答える。声は震えていた。
「それを見抜かれた。分かったんだ、兄貴。どんなに絶望的な状況でも、助け合わなきゃダメだって。だれかを殺して、奪って生きるのなら、それは違うって」
「お前に何が分かる」
タージェの心の色は、相変わらず、真っ赤に光ったままだった。
「何が分かるってんだ。言ってみろ」
金属同士の噛み合う、小さな音がする。撃鉄を起こした音だった。タミンは銃を構えていて、照準は、タージェに向けられていた。
「タミン……?」
タージェは、弟から一歩後ずさる。
「何考えてんだ」
右手に銃を構えたまま、タミンは左手で、みずからの服の襟を引っ張った。タミンの肩と首の付け根が、聖堂の明るみの下にさらされる。
祭壇の裏側から、クニカは目を細める。タミンの肩の肉はえぐれていた。噛まれたような傷痕があった。
「嘘だ」
「逃げるときに、噛まれた。もうダメなんだ」
「まだ分からないだろ」
タージェは言う。声は小さかった。
「分かるよ」
タミンは笑っていた。
「だれかを殺して、奪って生きるのなら、やっぱりそれは違うんだよ。兄さん、ありがとう――」
銃の照準が、タージェから離れる。タミンの構える銃の先端は、タミンのこめかみを目指していた。
タージェは叫ぶ。ただ、弟を止める暇は、兄には与えられなかった。
タミンは引き金を引く。銃声。タミンの頭から、真っ赤なものが飛び散った。タミンの腕や足は、電気に触れたようにして引きつる。
タミンの肉体が、祭壇に向かってくずれ落ちる。祭壇が壊れ、クニカの姿があらわになった。
「あっ」
タージェが叫ぶ。
目の前で起きたことが、クニカには信じられなかった。先ほどまで話していたはずのタミンは、今は床に横たわり、手足を投げ出している。クニカは、芝居でも見ているような気がした。
「おまえ――」
タージェが、押し殺したような声を上げる。しかしクニカは、そのとき、タミンの指が不自然にわなめいたのを見てしまった。