07_大いなるセツ(Великий Сет)
――セツ(※キリストのこと)は人に、次のように言われた、「王のものは王のところへ、神のものは神のところへ、そして私のものは私のところへ返しなさい」と。(『トマスによる福音書』、第100節)
「記憶がないんだ?」
リンたちと別行動になってから、タミンと一緒に、クニカはヤンヴォイ市の聖堂を目指していた。
「うん」
「家族じゃない?」
タミンは尋ねる。
先ほどからずっと、クニカの肩を借りながら、タミンは歩いていた。段差を登るときには、タミンは器用に左足で踏ん張りながら、登っていかなければならなかった。この調子では、ウルトラを目指すどころか、ヤンヴォイを抜け出すことさえ、タージェとタミンの兄弟には難しいだろう。
「そう」
「フーン? 変なの」
タミンが言う。挨拶をして分かったことだが、タミンはクニカよりも年下だった。タージェと離ればなれになって、却って気が楽になったのか、クニカとタミンは、割と早くに打ち解けた。
タミンの言葉に、クニカはドキリとする。
「変? そうかな?」
「家族じゃないのに、なんで助けるのかなァって」
「それは――」
答えようとして、クニカは口をつぐむ。そういえば、リンは、クニカが川を流れてきたところを助けた、と言っていた。しかし、なぜクニカを助けようと思ったのか、そこまでは話していなかった。
「分からない」
「はじめさ、姉妹だと思ったんだ」
空の様子をしきりに見ながら、タミンが言う。
「リン? がさ、面倒見がよさそうだったから。でも兄貴は、違う、っていうんだ」
「どうして?」
「似てないからだよ」
タミンの言葉が直截だったので、クニカは噴き出した。
「やっぱり、そう思うんだ」
「うん。リンはチカラアリ人っぽいけれど、クニカはさ、なんだか、ビスマー人っぽいし」
「ビ、ビスマー人?」
「そう」
タミンが答える。
「ビスマー人。おっとりした、のほほんとした感じの人が多いんだって」
「そうなんだ」
タミンに悪気はないのだろうが、間接的にからかわれているのでは――という気がしないでもなかったため、クニカは手短に返事をした。
(わたし、おっとりして、のほほんとして見えるんだ……)
「うん、間違いないと思う。川を流れてきたんでしょう? キリクスタンの川は、みんな南から流れてくるんだから。それに、ビスマーにはまだ、“黒い雨”が降っていないらしいし」
「ホント?」
「らしいよ。噂だけど。ビスマーは山の上だから」
「じゃあ、ビスマーの方が安全なのかな?」
「無理だよ」
タミンが首を振った。
「北から南へ向かうには、山を越えないといけないんだ。鉄道もない」
「そうなんだ……」
「鉄道は、大陸を横断するものだけさ。シャンタイアクティから、チカラアリ、ウルトラを通ってね」
「シャンタイ……?」
「シャンタイアクティだよ。南大陸では、一番の街さ。あの街なら何でもある。逃げるんなら、そこが一番だ」
そこまで言うと、タミンは鼻を鳴らす。
「どうしたの?」
「シャンタイアクティ人ってさ、変な奴らばかりなんだよ。偉そうでさ、何かあるとすぐに『法律が』とか、『先例が』とか言うのさ。チカラアリ人とシャンタイアクティ人は、仲が悪いんだ」
フーン、と、クニカは生返事をする。
それでも、クニカには分からないことがあった。タミンはまるで、シャンタイアクティ人を、異国の人のように言っている。どうやら、キリクスタン国の国民は、東西南北で強い地域性があって、一枚岩ではないようだった。
そのとき、遠くの空から、雲のうなる音が聞こえてきた。
「ごめん、しゃべり過ぎた」
タミンが舌打ちする。
「聖堂が近いから、急ごう」
「うん」
タミンに肩を貸しながら、クニカは聖堂まで足を速める。雲に覆われ、薄暗くなった街を、稲光が一瞬照らし、雷鳴が震わせた。
◇◇◇
聖堂の門にたどり着いたときには、いつ雨が降りだしてもおかしくないくらい、空気は湿り気を帯びていた。
「急いで、いそいで!」
タミンにせかされ、両開きの扉を開くと、ほとんど転がり込むようにようにして、クニカは聖堂へ入る。
安堵したのも束の間、雷が瞬いた。天を割るような大きな音が、聖堂全体を軋ませる。
「ビックリした」
「静かに。コイクォイに気付かれる」
「コイクォイ?」
「化け物のことだよ」
そう言うと、タミンは肩をすくめてみせる。
「――なんてね。この聖堂は大丈夫だよ。兄貴といっしょに、調べたから」
「そうなんだ」
しゃべることがなくなったので、クニカもタミンも、静かになった。
外ではすでに、雨が降り出していた。雨の黒さを前にして、町全体が、闇に包まれたようになる。
先ほどまでの気温が嘘のように、周囲は冷え込んでいた。寒さを我慢するために、クニカはTシャツの袖を引っ張る。タミンは、懐からランタンを取り出していた。ランタンの明かりを前にして、聖堂全体が、うっすらと照らされる。
「そうだ」
タージェと、リンは大丈夫だろうか。クニカがそう考えた矢先、タミンが口を開いた。
「見せたいものがあるんだ。手伝ってくれる?」
「いいよ」
「それじゃ、支柱にロウソクが掛けてあるから、それに火をつけて」
そう言うと、タミンはランタンを差し出してきた。それを受け取ると、クニカは支柱を巡り、ランタンの火を、ロウソクに移して回る。
明かりが増えるにつれ、聖堂の全貌が明らかになっていく。クニカは自然と、ヨーロッパの教会に近い構造だと思い込んでいたが、実際は違っていた。聖堂は丸い構造をしており、入り口側が一番高く、最奥部が一番低くなるよう、段差で区切られている。椅子はなく、近くの箱には、毛布が積まれていた。
最奥部には、祭壇と椅子がある。祭壇に派手な装飾はなく、鏡と、杯とが、埃を被っていた。祭壇の中央には十字架が据えられているが、十字の先端は、円で結ばれていた。
祭壇の隣には、小さな椅子がある。玉座と呼んでもいいような、堂々とした椅子だった。手すりにも背もたれにも、細かな彫刻が施されている。
「気になるの?」
タミンの声が、背中側から届く。
「うん」
「坐っちゃダメだからね。セツ様の椅子だから」
クニカには、耳慣れない固有名詞だった。
「セツ様ってだれ?」
タミンからは、返事がなかった。
「タミン?」
「十字架にぶら下がっている人だよ」
「えっ?」
思いがけない言葉に、クニカはランタンを取り落としそうになる。
クニカの常識の中で、十字架に磔にされた聖者は一人しかいない。どうやらこの世界では、キリストの代わりに、セツという人物が祀まつられているらしい。
そのとき、埃を被った祭壇の上にある、数冊の本が、クニカの目に留まった。杯をどけると、一番上の本を、クニカは手に取ってみる。表紙には、
『トマスによる福音書』
と書かれていた。
“Томас”の文字を指でなぞりながら、クニカは記憶を呼び起こそうとする。クニカの通う高校はミッションスクールで、キリスト教の授業が行なわれていた。だから、福音書については、クニカも知っていた。
表紙を見るうちに、クニカは思い出した。トマスとは、十二使徒の一人だ。イスカリオテでない方のユダであり、インドにキリスト教を伝道した人物である。
しかし、『トマスによる福音書』など、あっただろうか。クニカは更に考えてみる。授業では、四つの福音書について教わった記憶がある。馬太、共観、路加、約翰。しかし『トマスによる福音書』などというものは、クニカの記憶にはなかった。
福音書を開いてみたクニカは、挿絵を見て驚いた。周囲の人びとにかしずかれている人物は、まぎれもなく基督そのものだった。
クニカはふたたび、椅子に目を向ける。タミンはさっき、椅子を「セツ様」が座る椅子だと言っていた。その一方、祭壇にある福音書には基督の福音がある。
“セツ”と“キリスト”は、同じ人らしい。クニカの世界で「キリスト」として通っている人物が、こちらでは「セツ」と呼ばれているようだ。
「できた?」
タミンから声がかかる。すでにクニカは、作業を終えていた。
「うん」
「そしたら、祭壇を前にどけて。カーテンを開けるから」
タミンの言うとおりに、クニカは祭壇と椅子を脇へどかそうとする。椅子は彫刻で削られているためか、大きさの割には軽かった。
(う、っ)
いや、嘘である。精神的には男だったが、クニカの身体は女子のものである。だから、「軽そう」に見えても、持ってみると、想像以上に重い。特に、腰の辺りが妙に張った。
「で、できたぁ!」
「ありがとう」
タミンの声が聞こえてくる。いつの間にか、タミンは自力で、聖堂の壁際にまで歩いていた。
「タミン?」
「よく見てて。――正面、正面!」
壁に縛られていたロープを、タミンはほどく。祭壇の奥、壁面を覆っていたカーテンが、左右に開いていく。
クニカの眼前に、一枚のステンドグラスが現れた。ステンドグラスには、様々な聖人の姿が映し出されている。中心に君臨するキリスト――セツの背からは、翼が放射状に伸び、長方形のステンドグラスを、六つの場面に仕切っていた。
「すごいでしょ?」
立ち尽くしているクニカに、タミンが足を引きずりながら、近づいてくる。
「きれい……」
「親父なんだ、これを作ったの」
「そうなの?」
「うん。一番右下のね。全体を作ったのは、うんと昔の職人だから」
タミンの話を聞きながら、クニカはゆっくりと座り、ステンドグラスの全景に見入っていた。
右下のコマには、陸に上がり、魚を選り分ける、一人の漁師の姿が刻まれている。漁師は、無数の小魚の中から一匹の大魚を選び、それを見つめていた。大魚の鱗には、小さな文字が書かれている。
「『爾の裡に有るもの、爾を救うべし』――」
「……『爾の外に有るもの、爾を滅ぼすべし』」
クニカの言葉を受けて、タミンが最後まで読んだ。
「神様は、外を探しても見つからない。『ここにいるかもしれない』、『いや、あそこだ』なんて言ってるうちに、結局神様を見つけられないまま、人は死んでしまう。神様は、外にいるものじゃない。生まれたときから、初めから、人間の中にいる」
タミンの話を、クニカは黙って聞いていた。「漁師と魚」という構図が、聖なるもののように思えてきたためである。
「オレもさ、大人になったら、ステンドグラス職人になろうと思ってたんだ」
床に座り込むと、タミンは言った。
「でも、もうなれない」
「どうして?」
「雨のせいだよ。なにもかもダメさ」
力なく笑うタミンを前にして、クニカは言葉に詰まる。
そのとき、クニカの心に、昨日の記憶がよみがえってきた。死にたくないと考え、よく生きたいとも考え、クニカはまだ、答えが出せていなかった。それでも、ステンドグラスを見るにつけ、タミンの説明を聞くうちに、自分の内側にあるはずの答えを見出したいと、クニカはそう思うようになっていた。タミンと自分の境遇が重なっているように、クニカには思えた。
「どうしたの?」
「タミン、神様は、自分の内側にいるんだよね?」
タミンはうなずいた。
「だったらさ、タミンの神様は、諦めるように言うかな?」
「それは――」
そう言ったきり、タミンは考え込んでいるようだった。タミンが答えるのを、クニカは待った。
「言わないと思う」
ややあってから、タミンは答えた。
「言わないよ。たぶん、オレはいつだって言うよ、『職人になりたい』って」
タミンが言った。その答えに、迷ったそぶりはなかった。
「どんなときでもさ。たぶん言うと思う。ありがとう、クニカ――」
そのとき、聖堂の横の通路から、音が聞こえてきた。それは足音で、だれかがこちらに向かって、走ってくる音だった。
「だれ――?」
「隠れて」
そう言うと、タミンは立ち上がる。