06_鷹(Сокол)
――そこから生え出た樹について言えば、それが持っているのは無知の果実であり、またその葉について言えば、その中にあるのは死であり、その枝の蔭にあるものは闇である。(『三体のプローテンノイア』、第18節)
リンに起こされたときには、遠くの空が明るくなっていた。
身支度を整えると、クニカとリンは、換気窓を伝って、外に出た。
ショッピングモールから遠ざかりつつ、林の間に横たわる道路へと、二人は分け入っていく。道路のアスファルトは、赤茶けた泥にまみれ、くすんでいた。“黒い雨”のせいで、あちこちに水溜りができていた。
「水溜りは黒くないんだね」
水溜りに目を細め、クニカは呟く。
「“雨”じゃないからな。ずっと黒いままのほうが、いいかもしれないけど」
「どうして?」
「それは――」
リンは何かを言いかけるが、そのまま口をつぐむ。リンの胸の辺りには、赤い小さなもやもやが生じた。
「いや、何でもないよ」
「そう……」
(その方が、楽に死ねるかもしれないだろ)
「え?」
唐突なリンの声に、クニカはまじろぐ。今の声は、まるでクニカの脳内に、直接流れ込んできたかのようだった。
「どうした?」
「なんでもない」
「なんだよ。うじうじするなよ」
「ごめん」
鼻を鳴らすと、水溜りを踏みつけながら、リンは先へ進む。水しぶきを避け、クニカは後を追った。
今の声について、クニカは考える。
――その方が、楽に死ねるかもしれないだろ。
これは、リンが言おうとして、呑み込んだはずの言葉だろう。にもかかわらず、クニカはその声を聞いた。
“テレパシー”、という単語を思いつき、クニカは生唾を呑み込む。しかし、ここが魔法の世界である以上、可能性はある。
クニカの背筋に、冷たいものが走る。今のは、リンの心の声が、クニカに聞こえてきた形だ。であれば、クニカの心の声が、リンに聞こえていても、おかしくはない。
自分の心の中も、リンには筒抜けになっている。――だからこそ、クニカのはっきりしない態度に、リンはいら立っているのかもしれない。
あるいは、あえて言いにくいことを、リンはテレパシーでクニカに伝えたのだろうか? だとすれば「どうした?」などと、リンはわざわざ尋ねなくともよかったはずだ。
と、そのときだった。前を歩いていたリンが、ふと立ち止まる。
「どうしたの?」
「見ろ」
リンの視界の先には、錆ついた屑かごがある。その脇には、何かがしなだれかかっていた。
正体に気付いたクニカは、思わず一歩後ずさる。それは、足を投げ出したまま朽ち果てている、男の死体だった。
空気の流れが変わり、クニカのいるところまで、腐敗臭が漂ってくる。
「本当に死んでるかな?」
「『本当に』?」
「そうだよ」
リンは周囲を見渡す。
「音を立てずに、回り込もう。もしかしたら、化け物になって動き出すかもしれない。そうじゃなくても、病気が怖い」
「病気」という単語が、なまなましい印象を伴って、クニカの感情を吸い取った。この世界の医療水準が、ニホンより良いとは、クニカには思えない。
死体を遠目に見やりながら、リンに付き従い、クニカはゆっくりと、背後を回り込む。周囲には蠅がたかり、臭いがひどかった。口で呼吸しても、目にしみるのだけは、どうしようもない。
しかしクニカは、同時に、死体に釘付けにもなっていた。背格好からして、男性はまだ若いようだった。もしかしたら、転生する前のクニカと、同じくらいの年齢だったのかもしれない。
この世界で、自分もいつかは、こうなってしまうかもしれない。少なくとも、地球で死んだ自分の肉体は、この死体よりも、もっとひどい死に様をさらしているかもしれない。そう考えるうちに、クニカは、この死体の死と、みずからの生とが、そう遠くない位置にあるような気がしてならなかった。
死体を迂回し、二人は林の奥へと進む。
◇◇◇
林を抜けると、一本の道路とぶつかった。国道二三七号と標示された道路を、二人は歩く。
道路を横切るように、太いソテツの木が倒れていた。その幹には、青いバンが頭から突っ込んでいる。たいがいの車は路上に放置されており、窓ガラスはことごとく割れていた。
「クルマが動けばなぁ」
クニカはぼやく。亜熱帯の熱気の前に、クニカは汗だくだった。
「運転できるのか?」
リンが尋ねる。二人の足元で、ガラスの破片が踏み潰され、音を立てる。
出来ないことはないよ――と言いかけて、クニカは口をつぐむ。家族でドライブへ行く際に、クニカはいつも、助手席に乗せてもらっていた。だから、なんとなくの運転方法は分かる。
「でも、マニュアルだろうし」
「マ……何だって?」
「“マニュアル”。クルマを運転する方法、みたいな」
「へぇ。詳しいんだな」
「そうかな?」
というより、リンはそうしたことを知らないのだろうか? クニカは疑問だった。
「待て、クニカ。――さては戻ってきたんじゃないか?」
「え? 何が?」
「ばか。記憶だよ」
「ええっと、これは、その――」
クニカは言いよどむ。
「なんだよ、違うのか?」
「うん。ごめん」
「ちぇっ、紛らわしいなぁ」
ごめん、と、クニカは再度口ごもる。この調子だと、リンはいずれ、クニカの嘘に気付くだろう。
「はやく戻ると良いな」
「え?」
「記憶だよ。クルマに関心あるんだろ? 乗り込んでみれば、何か思い出すかもしれないな」
「うん、どう……だろう?」
ここまで口走って、クニカは考え直す。
「チャンスがあったら、やってみる」
「そうだよ。その調子だ。もしかしたら、クニカの親父は、バスの運転手だったりするかもな」
心なしか、リンの口調も弾んでいるようだった。リンの胸のあたりに、緑のもやもやができている。
木々の向こう側に、切れ目が見えた。新しい街に、二人は近づきつつあった。
◇◇◇
フェンスの向こう側に、その街はあった。国道は道幅が狭くなり、市街の道路と直結している。
国道と街路との結節点は、何かに塞がれていた。
「バリケード?」
「みたいだな」
近づくにつれて、バリケードの様子がはっきりとしてくる。屋台やら、フェンスやら、立て看板やらが、うずたかく積まれていた。
「そこで待ってろ」
そう言うと、クニカをしり目に、バリケードの間際まで、リンが近づいた。それからリンは、ロッククライミングの要領で、あれよあれよという間に、バリケードをよじ登ってしまう。
「手ェ貸せ」
「うん」
差し伸べられた手を取り、クニカもバリケードをよじ登る。リンのように身軽には動けなかったが、それでも何とか、クニカもてっぺんまでたどり着いた。
街路に連なる建物の群れを見て、クニカは息をもらした。街路を横切るかたちで、提灯と電線が張りめぐらされている。表通りに面している建物は極彩色で、派手な看板が中空を飾っていた。国道ではクルマが目立ったが、街ではバイクの多さが目につく。
地理の授業を、クニカは思い出す。なにげなく開いた資料集の一ページに、そっくりの写真が載っていた。熱帯モンスーン気候について、説明されていたページだった。
「ひどいな」
クニカの思わくとは別に、リンは苦虫を噛み潰したような表情をしていた。提灯の何張りかは地面に落ち、潰れている。遠くの建物は黒ずんで見えた。火事があったにちがいない。
建物の一階は、もともと店舗として機能していたのだろう。下ろされたシャッターにはあちこちに落書きがあり、簡易テーブルや椅子が、店の外で粉々になっている。
並べられていたはずのバイクも、ほとんどが錆付いており、あちこちに散乱していた。
クニカもリンも、しばらく立ちすくんだままだった。人のいない町が、これほどまでに不気味だとは、クニカは考えてもみなかった。
「ここ、何ていう街?」
「ヤンヴォイ、っていうらしい」
地図をにらみながら、リンが答える。
「ここに来たのは、オレも初めてだよ」
「ウルトラまで、あとどのくらいあるの?」
「全然だ。まだまだ歩かないと」
「うわぁ」
リンの眉間にしわが寄る。
「ばか。『うわぁ』なんて言っている場合じゃないだろ。このぐらいでへこたれるなよ。だいたい――」
突然、リンが口をつぐんだ。
「どうしたの?」
「だまれ」
リンの語気には、押し殺したような響きがあった。ただならぬ気配を感じ、クニカも息を殺す。
金色の瞳で、街の一角を、リンは注意深く見つめている。クニカも目を凝らしたが、変わったところは、何もないように見えた。
「おい!」
唐突に、リンが声を上げる。リンの鋭い声に、クニカは身震いする。
リンは明らかに、街の一角に向かって叫んでいた。しかし、だれからの返事もない。
「いるのは分かってんだ」
それでも、リンは続ける。そちらの方角を見続けたまま、リンは銃を手に取った。
「返事をしろ、さもないと撃つぞ」
「待ってくれ」
そのとき、リンの見つめる方向から、声が上がった。突然の第三者の声に、クニカは飛び上がりそうになった。
崩れた屋台の後ろから、ひとりの男性が、這い出してくる。男性は、両手を頭上の高さにまで掲げていた。
男性の肌の色は浅黒く、背はリンよりも高い。ただ、年齢は、クニカやリンと大して変わらないだろう。青年と言った方がいいのかもしれない。青年は、着の身着のままといった格好で、服のあちこちは破け、煤けていた。
リンと青年とを、クニカは交互に見つめる。青年が隠れていたことなど、クニカは全く気付かなかった。リンがいなければ、きっと見逃していただろう。どうしてリンは気付けたのだろうか?
腰をかがめた姿勢のまま、青年は少しずつ近づいてくる。
「撃つな、撃つなよ」
「止まれ」
銃口を青年に向けたまま、リンが言う。青年は立ち止まった。
「もうひとりいるだろ?」
くずれた屋台の後ろ側に、クニカはもう一度目を向ける。
青年の目つきが変わる。
「オレだけだ」
「ばか。隠れてるだろ」
「見逃してくれよ」
「何でだよ」
「やましいことがなかったら――」
二人のやり取りに、クニカが割って入る。怖れと、緊張で、クニカの鼓動は激しくなる。
「隠れたりなんかしない」
「そう。オレはそう言いたかった」
リンが言う。
「分かったよ。――タミン!」
後ろを振り向くと、青年は声を上げる。屋台の後ろから、人影が現れた。リンよりも背が低く、クニカよりは高い。
“タミン”と呼ばれた少年は、右足を引きずりながら、青年の下まで近づいていく。青年のすぐそばまでたどり着くと、タミンは崩れるようにして、その場に座り込んだ。
「弟だ。脚を怪我してんだ」
リンは銃を下ろす。
「列車のせいだよ」
青年の言葉に、リンはあァ、とうなずく。
「生き残りだろ? あんたらも」
「そうだ……オレはリン。こっちは、クニカ。事故の後、逃げたんだ。な?」
そう言うと、リンはクニカを見る。話を合わせろ、という、リンからの無言の圧を感じ、クニカはうなずく。
クニカは思い出す。出会ってすぐのとき、リンは「疎開先へ向かう列車が、事故に巻き込まれた」という話をしていた。リンも、青年も、タミンも、列車事故の生き残りなのだろう。
「生き残りがいて良かったよ」
「そうだな」
「姉妹か?」
「ちがう」
リンの答えは素早かった。まるで「姉妹か」と尋ねられるのを、待ち受けていたかのようだった。
「そうか、俺の名前はタージェ」
青年は、タージェ、と名乗る。
「あんたらも、ウルトラを目指してるんだろ?」
タージェの言葉に、クニカはうなずいた。
「だったら、話が早い。俺たちが逃げた先に、食品工場があった。ランチョンミートのさ。缶詰が大量にある。弟の傷が治るまで、俺たちはそこで暮らすことにしたんだ」
「それで?」
リンが尋ねる。
「一緒に暮らさないか、ってことさ。人手は多い方がいい。夜の見張りも、ひとりじゃキツい。“鷹”だろ、あんた」
タージェが尋ねる。クニカには意味が分からなかったが、その単語にリンは小さく舌打ちした。
「あの位置じゃ、絶対バレないと思ってたんだ」
タージェが笑う。
「でも、アンタは見抜いた。“鷹”の視力でなけりゃ、そんなことはできない」
そういうことか、と、クニカは合点がいく。ここは魔法の世界で、どうやら、魔法は動物の属性として発現するようだった。リンは“鷹”の魔法使いで、その効果から、遠くにある、わずかな動きであっても、見逃さないのだ。
「なあ、頼むよ。弟は置いていくなんて、俺にはできない。脚が治るまでの間でいいんだ。そしたら、あとは自由でいい。助けてくれたんならば、缶詰の三分の一、いや、半分! 半分持ってっていい」
「どうしてそこまで――」
「死にたくないんだ」
クニカの問いに、タージェが答える。隣では、タミンもうんうんとうなずいていた。
死にたくない――その気持ちは、クニカにも痛いほどよく分かった。
タージェとタミン、それからリンを、クニカは代わる代わる見つめる。提案を受けるかで、リンは迷っている様子だった。リンの胸の辺りには、黄色いもやもやが見える。
「分かった」
とうとうリンが口を開いた。
「本当か?!」
「ただ、条件がある」
そう言うと、クニカのズボンに、リンは無造作に手を突っ込んだ。
「うえっ?!」
クニカはまぬけな声を発したが、リンは平然としていた。クニカの背中側に、リンはさりげなく、ナイフを渡し込んでいた。
「クニカはオレの連れだ。この辺りに不慣れで、できれば、今すぐ安全な場所にかくまってやりたい。当てがあるんなら、タミンと一緒に、そこに連れて行ってほしいんだ」
話すかたわら、「用心しろ」と言わんばかりに、リンは何度も、クニカの背中を叩いた。
「少し行った先に、聖堂がある」
タージェが答える。
「広いし、隠れ場所もあるし、見通しもいい。食料も、そっちに移そうと考えてる。うちの弟と、クニカとが、先にそっちへ行く。どうだ?」
「決まりだ」
リンは言った。
「変な真似したら、承知しないからな」
「分かってるよ」
「だよな、クニカ?」
「うん……」
心細げに、クニカはリンの瞳を覗く。リンはまだ、タージェたちに心を開いていないようだった。