43_さよならおやすみ(Спокойной ночи до свидания)
爾、栄光の裡に栄光となるべし。(『三体のプローテンノイア』、第20章)
「クニカ!」
橋の下を飛び出し、最初の路地を曲がった途端、クニカは呼び止められた。
「シュム?!」
「心配しましたよ」
近づくと、シュムはクニカの手を握り締めた。
「どうしたの?」
「こっちのセリフです」
シュムは上目づかいで、クニカにまなざしを送る。
「チャイから話は聞きましたよ?」
「う……」
シュムの口調は、いつも通りの丁寧さだったが、語気は強かった。ばつが悪くなり、クニカはシュムから顔を背ける。それでも、シュムに手を握り締められているから、クニカはシュムから離れることができなかった。
「そんな顔しないでください」
「ご、ゴメン……」
「自分だけで何でも解決しようとしてはいけません」
「うわっ?!」
クニカの両手首を、シュムは引っ張る。よろめいたクニカの両肩に手を乗せると、シュムは諭すようにして言った。
「クニカ、ひとりじゃどうしようもないことだって、みんなで力を合わせれば、乗り越えられるんです。ウルノワにクニカたちが来てくれなかったら、私もチャイも死んでいたんですよ? 今度は私たちが、二人を助ける番です」
「シュム、ありがとう」
シュムの二の腕に、クニカも手を添えた。
「わたしさ……リンと、もう一度話をしようと思うんだ」
「いい考えです、クニカ」
「あとさ、あのカイって子のことだけど……」
「クニカ、それは私にも協力させてください」
シュムはいたずらっぽく、クニカにウインクしてみせる。
「いいの?」
「もちろんです、クニカ。カイを放ってなんかおけません。チャイなら私がなんとか説得します」
「ホント?!」
「もちろんです、クニカ。チャイをその気にさせるのは、私の得意分野です」
猫のように目を光らせているシュムに対し、クニカはたじたじになった。シュムが「その気にさせる」と言うと、ちょっとエロかった。
「どうしました?」
「いえ、何でもないです」
「それじゃ、行きましょう。夜にぶらつくのは危険です」
クニカとシュムの二人は、足早に“隠れ家”へと戻る。
夜のとばりが、サンクトヨアシェの街に下りつつあった。空に雲はなく、星も見えなかった。
◇◇◇
「ただいまです、チャイ」
“隠れ家”の扉を開け放ち、シュムは言った。
「お帰り。クニカもお帰り。気は済んだ?」
背もたれに背を預けたまま、チャイハネはクニカに言った。頷きかけたクニカの鼻孔を、スパイスの香りがくすぐる。香草をまぶしたウサギの肉を、チャイハネは粥に混ぜたらしい。
「そのことですが、チャイ。話したいことがあるんです」
「あたしと?」
「そうです。クニカはクニカで、リンに話したいことがあるんです」
クニカとシュムの顔を代わる代わる見つめてから、チャイハネは梟のように首をかしげてみせた。
「なるほどね? まぁ、言いたいことは予想がつくけどね」
「本当ですか?」
「何となく、だけど」
「チャイ、リンは……?」
「二階だよ」
腕組みをしたまま、チャイハネは顎で二階を示した。
「戻ったっきり、部屋から出てこない。ふさぎこんでるんじゃないかな?」
「行ってくる」
肩をすくめているチャイハネを尻目に、クニカは二階へと駆け上がる。二階の廊下は静まり返っており、埃に覆われてうっそうとしていた。
「リン?」
暗がりの中で、クニカはあちこちを見回してみる。リンは二階のどこかにいるはず。だから壁越しに“心の色”が見えるはず――そんなクニカの期待は、裏切られた。
手近にあるドアを開いて、クニカはかたっぱしからリンの姿を探す。書斎、物置、クロゼット――。開けられるところをしらみつぶしに開け放ったクニカだったが、リンの姿は、影も形もなかった。
服の襟を、クニカはいつしか握りしめていた。と、そのとき。部屋の窓から、湿った風がかすかに吹き込んでくるのを、クニカは感じとった。クニカはそちらに目を向ける。中途半端に閉じられた窓の格子には、一枚の紙片がはさみ込まれていた。
すかさず窓辺に近づくと、クニカはその紙片を抜き取った。紙片に書かれた字を見て、クニカの全身が総毛だった。
《クニカへ》
手紙の冒頭は、そのような書き出しから始まっていた。
《あの後、クニカに言われたことを、オレは考えた。お前の言うとおりだと思う。悪いことをしたと、本気でそう思う。オレはここを離れる。けじめはつけるつもり。探さないでほしい》
字は震えていたが、ちゃんと読むことができた。クニカのよく知っている、リンの文字だからだ。
◇◇◇
自然は残酷だった。“隠れ家”へ戻るときに、雲はなかったにもかかわらず、さきほどから黒い雨“が降り始めその強さは増していき、今ではサンクトヨアシェの街を押し流さんばかりの勢いだった。虫の声も風の音も、今では雨音に塗りつぶされ、かき消えてしまっている。
リンの手紙を読み終えたあとも、チャイハネはしばらくの間黙ったままだった。そんなチャイハネに、クニカは視線を注ぐ。シュムはと言えば、そんな二人を不安そうに、交互に見つめるばかりだった。
「クニカ、」
一人言を呟くようにして、チャイハネがクニカに尋ねる。
「何を考えているのか、あたしとシュムに、分かるように説明して、ね?」
「リンを……助けに行く」
「どこに?」
「たぶん、基地へ行ったんだと思う。サリシュ=キントゥス人の」
「ダメだ」
「そんなこと……!」
そんなこと、チャイハネに決められたくはない――そう言いかけたクニカだったが、ただ黙って首を振るチャイハネを見ているうちに、言い返す勇気はしぼんでしまった。
「クニカ、リンの気持ちを汲んでやらないと。……いや!」
唐突に言葉を切ると、チャイハネは椅子から立ち上がり、クニカに背を向けた。
「いや、違う。今のは嘘だ。はっきり言うけど、リンの考えなんてどうでもいい。ただあたしはクニカに危険な目に遭ってほしくないし、シュムにだってそうだし、あたし自身だってそうだ、って、ただそう言いたいだけなんだ」
「チャイ、いまの言葉は訂正してください」
チャイハネににじり寄ると、シュムはチャイハネの腕をつかんで、チャイハネを強引に正面へ向けさせた。そんなシュムの“心の色”は、真っ赤になっていた。シュムが怒っているのは、それも、チャイハネに怒っているのを見るのは、クニカにとって初めてだった。
「チャイがそんなことを言うのは嫌です」
「シュム……あたしがもうちょっと強ければ『リンを助けよう』って言えたんだよ」
詰問口調のシュムに対し、チャイハネは何かを切望しているかのように答えた。
「もしどうしてもって言うんなら……シュム、キミが残るんだ」
「そんなのは、チャイのワガママです」
「どっちのワガママかな?」
チャイハネの問いに対し、シュムはうつむいただけだった。
「わたしだけ……」
服の胸元を、クニカは握りしめる。
「わたしだけでも……」
「話しただろ、クニカ? キミは“竜”の魔法使いだ」
「だったら、なおさら――!」
「ちがう。だからなおさら、キミはウルトラへ行くべきなんだ。ウルトラには巫皇がいる。彼女と力を合わせれば、“黒い雨”だって止められるかもしれない。それでも……それでもどうしてもリンを救うんだって言うんなら、クニカ、選ぶんだ。リンを救うのか、世界を救うのか、って」
チャイハネの言葉に、クニカはすぐに答えることができなかった。
「ちょうど、四枚だよ」
机に置きっぱなしにされていた「ウルトラ市民証」を、チャイハネは指で叩く。
「カイが連れていける」
ポケットから煙草を取り出すしぐさをして――しかし、煙草はなく、チャイハネはそのまま席を立って、二階へと上がっていってしまった。
鎧戸を叩く雨の音が、一層激しく、クニカの耳にこだました。
◇◇◇
サリシュ=キントゥス人は“竜”を探していた。リンはそのことを知っている。リンはサリシュ=キントゥス人のアジトへ向かった。「けじめをつける」と言い残して。
しかし、何の「けじめ」を? ――リンはきっと、みずからを“竜”と偽って、サリシュ=キントゥス人たちの前に出頭したのだろう。そうすれば、連中の注意はリンだけに向けられる。サンクトヨアシェからウルトラまでの道のりは、警備がゆるくなる。その合間を縫えば、クニカたちはやすやすとウルトラまでたどり着けるだろう。
この世界に蘇生してから、クニカはずっと、ウルトラまでたどり着くことを切望していた。“黒い雨”の降りしきる世界の中で、ウルトラだけは安全だった。ウルトラに行けば、クニカは生きることができる。「生きたい」ということ、それがクニカにとっての、何よりの希望だった。
「嫌だ――」
無意識のうちに発したみずからのつぶやきに、クニカは目を覚ました。締め付けるような胸の苦しさから解き放たれると、クニカは額の汗をぬぐう。
三人の話し合いはまとまらないまま、翌日に持ち越しになった。打ちひしがれて横になっているうちに、朝を迎えつつあるようだっった。
こうしている間にも、リンはクニカから遠ざかっていく――。
そしてクニカは、唐突に気付いた、
「嫌」
なのだ、と。考えれば考えるほど、さまざまな感情がわだかまってくる。それでもやはり、リンがいないのは嫌なのだ。
チャイハネは言っていた。リンを選ぶか、世界を選ぶか、と。クニカはすぐに答えることができず、究極の選択の前で立ちすくんでいた。
けれども、それは当たり前のことなのだ。世界だけを選ぶことはできない――と同時に、リンだけを選ぶこともできない。リンのいる世界こそが、クニカにとってのすべてなのだから。
生きて、ウルトラまでたどり着く。
それも絶対に、リンと一緒に。
雨どいを伝う水滴の音が途絶えた。
鎧戸のすき間から陽射しが差し込み、クニカの身体を照らし始める。
クニカは、立ち上がった。覚悟はできていた。
クニカの傍らでは、シュムが身体を丸めて眠りこんでいた。シュムはクニカのことを心配して、添い寝してくれていたのだろう。
「ありがとう」
小声でそう呟くと、クニカはシュムに対して、眠れ、と祈った。
しばらくの間、シュムは眠ったままだろう。クニカはそのまま、静かに部屋を抜け出した。
階段を降りた先で立ち止まると、クニカは居間をのぞき込んだ。居間ではチャイハネが、自分で作ったウサギ肉の粥を食べていた。
チャイハネは頭がいい。自分たちには何ができて、何ができないのかを、誰よりも分かっている。だからこそ、クニカを危険な目に遭わせたくないのだ。
そんなチャイハネの気持ちは、クニカにだって分かる。でも、できることの内側だけで、クニカは諦めたくなかった。できないと思っていたことが、本当にできないかどうか確かめるためには、やってみるしかない。
クニカにとって、今がそのときだった。
チャイ、ごめん! 心の中でそう言うと、クニカはチャイハネに対し、眠れ、と祈る。
クニカの魔法を察知したのだろう。チャイハネは立ち上がると、辺りを見回そうと首を振った。しかし、クニカの姿を捉えるより前に、チャイハネは腰砕けのようになって、床に崩れ落ちた。クニカが近づいてみれば、チャイハネは静かに寝息を立てていた。
「ごめんね、チャイ。すぐ戻るから――」
そう言うと、クニカは正面玄関から、外へ飛び出した。




