04_黒い雨(Черный Дождь)
「ハァ、ハァ――」
どのくらい走ったか分からない。モールの一階の、最も奥のブースまで、クニカと少女はたどり着いた。
逃げる最中にも、クニカは異形を目撃した。異形はみな、頭部が花のようになっていた。不気味さと、形態の美しさとが奇妙に同居しており、逃げる最中にもかかわらず、クニカは異形を何度も眺めた。
シャッターを閉めさえすれば、ブースはほかの場所から遮断される。外を隔てる壁には、換気窓があった。いざとなれば、そこから逃げられそうだった。
「閉めた」
シャッターを下ろし、少女が言う。異形たちには勘付かれなかったようだ。少女の胸の辺りに見える、ぼんやりした赤色が、緑色へと変わる。
いったい、何の色なのだろう? その正体を見極めかね、クニカはしぜんと、目を細めていた。
そんなクニカの下に近づくと、少女は、クニカの頬に手を当てる。
「う……何?」
「大丈夫か? 怪我してないよな?」
「うん、平気」
「そっか」
クニカに背を向けると、少女はリュックから何かを取り出した。鞘に収まっていたものは、刃渡りの長いナイフだった。
のけ反っているクニカに近づくと、少女はナイフを渡してくる。
「これは……?」
「ナイフだよ。これで身を守るんだ」
柄を握りしめ、クニカはナイフをかざしてみる。磨き抜かれた刀身は、冷たい光を放っていた。
「違う」
「え?」
「そうやって持つんじゃない」
少女は片方の手で、クニカの手首を握りしめる。もう片方の手で、クニカの拳を掴むと、ナイフの切っ先を、少女は真正面へ向けさせる。
「ちゃんと肘を張って、切っ先は相手の喉。斬ろうとするな。飛びかかってきたら、刺すんだ――」
「ねぇ、待って、まって――」
いきなり始まったナイフのレクチャーを、クニカは制する。”相手の喉”という物騒な言葉を前に、クニカの全身が総毛立った。
外には異形がいて、人を見境なく襲おうとしている。ナイフはたよりになるだろう。しかし、頭では分かっていても、クニカは、そう簡単には割り切って考えられなかった。
「そうだ、まだ名前を言ってなかったよな?」
少女は言った。
「オレの名前はリン。お前は?」
「わたし、は……クニカ」
「クニカ、か。ほんわかした名前だな」
「そうかな?」
「で、何で川を流れてたんだ?」
(川を流れる――?)
少女の――リンの言っていることが分からず、クニカは首をかしげる。
「覚えてないのか?」
「うん……ていうか、ここがどこかも分かんないし、何が起きてるかも――」
「記憶が無い?」
「そうかも」
そう”かも”と言ったのは失敗だった――、言葉を発してからクニカは思ったが、クニカの失言に、リンは気付いていないようだった。
「それは、つらいな」
神妙な面持ちで、リンは目を細める。
「でも、参ったな」
リンは、部屋を行ったり来たりしはじめる。リンの胸にあった緑のもやもやも、今は灰色と赤色とのが混じった色に変わっている。
「今から説明するから、一回で覚えろよ。分かったな?」
「あっ、はい」
今の状況について、リンは説明を始める。
まず、クニカが今いるところは、「キリクスタン」という国らしい。その国は、二つある大陸のうち、南側の半分を占めているという。
つい最近まで、キリクスタン国はそれなりに平和だった。しかし、ある日を境にして、国内に異常が生じはじめたという。
「“黒い雨”だ」
「”黒い雨”――」
「そう」
“黒い雨”は、普通の雨のようにして、南の大陸に降り出した。雨に打たれた人間は悶え苦しみ、ついには異形へと姿を変じてしまう。
「さっきの化け物も――」
「ああ。雨に打たれたんだ」
異形の体の中には、血の代わりに“黒い雨”が流れる。異形に噛まれた人間もまた、黒い雨が身体に入り、異形になってしまう。
そのような状況下で、南の大陸は大混乱に陥っている。道路は寸断され、地方は無政府状態に近い。
「街もたくさん潰れてる……らしい」
どう反応すれば良いか分からず、クニカは無言だった。
リンは、生まれ故郷だった都市から、幾分か状況がマシな、別の都市へ疎開する予定だったという。ところが、避難に利用していた列車が事故に巻き込まれ、命からがら逃げ出したのだという。
逃げる最中、川べりに引っ掛かっているクニカを発見したのが、リンだった。息があるようだったので、リンはクニカをおぶさり、やっとの思いで、このモールに辿り着いた――。
「生き残りがいて、よかったよ」
みずからに言い聞かせるように、リンは言う。
クニカはといえば、リンの言葉に、ただ打ちのめされていた。
“キリクスタン”なんて言われても困る。
“黒い雨”なんて言われても困る。
自分は、死んだわけではないのだろう。クニカにとって、なぐさめになることは、それだけだった。死んだわけではない。しかし、元の世界に生還できたわけでもない。身体は少女になっていて、世界には異形が跋扈していて、生きるか死ぬかの瀬戸際にある。
こんな状況ならば、死んでいた方がマシかもしれない――。そう考えた矢先、クニカの脳裏に、飛び降りたときの光景がよみがえる。アスファルトに叩きつけられるまでのわずかな時間に、「死にたくない」と、クニカは確かに考えた。
もういちど、みずから死を選ぶつもりは、クニカにはなかった。
「それで……これからどうすればいいの?」
唯一思いついた質問を、クニカはぶつけてみる。
「“ウルトラ”を目指すつもりでいる」
「ウルトラ?」
「そう。地図を見た方が分かるよな?」
リュックサックから地図を取り出すと、リンはそれを床に拡げる。リンの説明を思い返しながら、クニカは地図を見つめる。
海峡を隔てて、南北に二つの大陸がある。北大陸には、「サリシュ=キントゥス」、「アエリア=カピトリナ」と書かれている以外、目だった箇所はない。反対に、南側の大陸には、さまざまな情報が書かれている。
「オレたちがいるのは、ここ」
鉛筆を取り出すと、リンは地図の一箇所をバツで示した。“Зхикараари (チカラアリ)”と書かれている町の、南東にずれた位置である。すぐ上にオミ川と書いてあるから、クニカはオミ川を流れていたのだろう。
「で、ウルトラはこっち」
リンは人差し指を、地図の下方に持っていく。川を二、三本横切った南、川の中にある島に“Ултра (ウルトラ)”と書かれている。
クニカは、気の遠くなる思いがした。
「遠い……」
「文句言うな。他に無いんだから」
「……そっちのチカラアリ、って町じゃダメなの?」
「ばか。オレはそこから逃げてきたんだ」
「あ……ごめん」
「まったく」
リンの胸に見えるもやもやが、赤色と青色とを行ったり来たりする。
もしかして、と、この段階に至り、もやもやの正体にクニカは気付いた。今のクニカは、他人の感情を、色として見ることができるようだった。
怒っているとき、リンの心の色は赤色だった。同じように、単純に考えてみれば、青色は悲しみなのだろう。
「帰れるといいね」
「え?」
「その、チカラアリにさ。故郷なんでしょう?」
「ばか言うな」
リンはそう言ったが、口調に怒気はなかった。胸の青いもやもやも、色あせて見えなくなっている。リンの気分もましになったようだ。
クニカは考える。他人の心を、色として見ることができたとして、この能力は何なのだろう? なぜこのような能力を、クニカは身につけているのだろう?
「今戻ったってどうしようもないよ」
「なんで?」
「結界が切れちまってる」
「結界?」
「大陸の結界さ」
銃を取り出すと、リンはカートリッジをクニカに見せる。カートリッジは円盤型で、幾何学模様が描かれていた。
「これは……?」
「魔法陣だよ。炎の魔法を発動する。これを取りつけて、引金をひけば、オレでも炎の魔法が使える」
へえ、と言うほかなかった。
この世界が地球ではないとか、住民がロシア語を喋っているとか、そんなことは、瑣末な問題のようだった。
ここは魔法の世界なのだ。
「この大陸全体を、“黒い雨”から守る結界があるんだ。それが壊れたせいで、チカラアリが丸腰になったのさ」
「結界が、“黒い雨”から、みんなを守っていたってこと?」
「うーん……」
リンは唸る。胸の辺りが、灰色のもやもやに覆われる。困ったときの色のようだ。
「どうなんだろうな? 結界は無事なのかもしれない。雨が降っているのは、ほかに理由があるのかもしれないけど……いや、もしかしたら巫皇が死んでしまったからかも――」
「巫皇?」
「魔法陣だけじゃダメなんだ」
銃のカートリッジをかざし、リンは更に説明を加える。
「魔法陣は、魔法の手段でしかない。魔力を持っているヤツもいる。それは魔法銃でも、町の結界でも同じさ。結界を守ってくれていたのが、チカラアリの巫皇なんだよ」
「死んじゃったの?」
「葬儀の最中だよ。初めての雨が降ったのは」
リンが話し終えたタイミングで、部屋の向こうから音が響いてきた。雷の音だった。
「まずいな」
壁際の木箱を登ると、換気窓から、リンは外を覗く。
「ほら、見てみろよ」
リンに引っ張られ、クニカも外を覗いてみる。クニカはリンよりも小柄だから、爪先立ちにならないといけなかった。
窓の向こうに、森が広がっている。といっても、クニカにとってなじみのある森ではなく、熱帯雨林といったほうがふさわしいような森だった。土は赤茶けたラテライトの土であり、木々は、蔓の生い茂ったものばかりだった。
「向こう、むこう。――ほら、降ってきたぞ」
リンの示す先には、黒い雲が垂れこめている。雲は遠くの空を覆い、一帯を黒く塗りつぶしている。
やがて、雨が降り出した。赤茶けた土の上に、黒い斑紋が描き出される。普通の雨よりも輪郭のはっきりした“雨”は、強さを増していく。“黒い雨”は、数分もしないうちに、豪雨へと変わった。先ほどまで熱かったのに、今では息が白くなるほど寒い。まるで、世界が闇の中に沈み込んでしまったかのようだった。
「閉めるぞ、クニカ。雨の霧が体に入ったらまずい」
手を伸ばして、リンは換気窓を閉める。一面が暗闇に覆われ、クニカは手元さえ見ることができなかった。
「何も見えない」
「我慢しろ。あと、音は立てるな。見つかったらヤバイ」
「わかった」
「明日の朝ここを出よう」
リンの言葉に、クニカはまばたきする。
「着いてっていいの?」
「当たり前だろ」
リンが鼻を鳴らした。
「ほかにどこへ行くっていうんだよ。一緒にウルトラまで行こう。こんな場所でくたばるなんて、オレは嫌だからな。そうだろ?」
クニカは迷った。死にたくないという気持ちは、クニカも同じだ。しかし、こんな世界で、生きるために必死になるなんて、クニカは想像だにしていなかった。
「そう……かもしれない」
だからクニカは、あいまいな返事をしてしまう。
「“かもしれない”じゃなくて、“そう”なんだよ。煮え切らないなァ」
リンの心に、赤色がほのめく。真っ暗闇だというのに、感情の色は見ることができるようだ。
「まぁいいさ。オレはもう寝るよ。早く寝ろよ」
「わかった……」
遠くの空で、雷鳴が轟いた。
注:本作品内におけるキリスト教グノーシス主義(グノーシス派キリスト教)は、学術的なキリスト教グノーシス主義の解釈に、この異世界固有の処女崇拝が絡み合っているという設定となっているます。あらかじめお含みおきください。