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ラヴ・アンダーグラウンド(LOVE UИDERGЯOUND)  作者: 囘囘靑
第5章:おわりの街・サンクトヨアシェ(Санкт-Иоас)
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37_リヨウ(младшая сестра)

どうしてこの憐れむべき者たちに、名前と声とが存在しないのか。(『真理の福音』、第13章)

 リンの眠りを妨げたのは、正面の座席から聞こえてくる、赤ん坊の泣き声だった。


 まどろみの世界から、一気に現実へと引き戻されたリンは、目を半眼に開いて、赤ん坊を見る。ちょうどそのとき、列車全体が縦に揺れた。それにつられて、赤ん坊の泣き声も一段と鋭くなる。


「ウルセェだろ」


 奥の席に座っていた男性が、赤ん坊の母親に向かって怒鳴った。そして、続けざまに何かを口走った。リンの耳には


「さっさと黙らせろよ」


 と言ったように聞こえた。他の乗客の耳にも、そのように聞こえたことだろう。


 男の態度は間違っている、しかし、男の言ったことは正しい――そんな重苦しい雰囲気の中に、列車の乗客たちはみな沈み込んでいた。


 母親は必死になって赤ん坊をあやしつけていたが、その眼は血走り、歯茎はむき出しになっていた。いたたまれなくなったリンは、そっと視線を下に落とし、ただ貧乏ゆすりをするしかなかった。


 リンの靴に止まっていたテントウムシが、振動に耐えかねて飛び立っていく。


 この場に留まり続けることの難しさを悟ったのだろう、赤ん坊を抱えたまま席を立つと、母親は扉の向こう側へと引き下がっていった。空いた席めがけ、立ちっぱなしだった男がすかさず座りこむ。男から漂ってくる汗のにおいで、リンは鼻が曲がりそうになった。


 溜息をつくと、リンは額の汗をぬぐい、窓の向こうに目をやった。手入れされていないだろう水田に、手入れされていないだろう赤茶けたあぜ道――見えるものといえば、それくらいだ。


 それでもたまに、窓枠の向こう側に民家が見えることがある。ほんの一瞬の光景だが、リンはそれを食い入るようにして見てしまうのだ。自分たちと同じように、生きている人がいるのではないか、かれらは“黒い雨(ドーシチ)”にもめげず、今までどおりの生活を営んでいるのではないか、と。その期待が満たされたことは、これまでに一度もなかった。“鷹”の魔法の傑出した視力は、朽ち果てた人間の亡骸か、頭の変形したコイクォイの姿を、嫌でも捉えてしまう。


 チカラアリの街に“黒い雨”が降り注いでから、今日で三か月になる。この三か月に何があったのか、あるいは、何がなかったのか、リンは思い出したくもなかった。目を閉じるだけで、リンはその光景をまぶたの裏側に思い出してしまう。血みどろになった二輪乗用車(トゥクトゥク)、全身に火をまとったコイクォイの姿、叩き潰された屋台、周囲に散らばる泥だらけの紙幣――。過去が強烈なせいで、リンは未来を思い描くことができないでいた。


 それでも、前に進まなくてはならない。だからこそリンは、こうして列車に乗ってじっとしている。列車はやがて、リンをウルトラまで連れていってくれる。ウルトラは安全だ。少なくとも、チカラアリよりは。ウルトラにたどり着けさえすれば、未来が開けてくる――列車に乗る前、リンは自分にそう言い聞かせていた。


 しかし、列車はそんなリンの努力を、早くもくじけさせようとしていた。環境なんか、いくらでもがまんできる。ハエがうっとうしいのなら、叩きつぶせばいい。汗臭いのが嫌ならば、鼻をつまめばいい。


 しかし、いくら我慢してもどうにもならないことが、この世界には確かに存在する。リンの気持ちを滅入らせているのは、車内を覆い尽くしている、よどんだ空気だった。


 よく言えば「にぎやか」、悪く言えば「うるさい」――それがチカラアリ(びと)の持ち味だ。しかし、そんな持ち味は、列車の中ではなりを潜めていた。ムダ口を叩いていられるような状況ではないことくらい、リンだって分かっている。分かってはいるものの、リンは落ち着かなかった。髪の毛一本で吊るされた剣が、ずっと頭の上にぶら下がっている――そんな連想をするたびに、リンは自分の二の腕を押さえて、鳥肌をなかったことにしようとするのだ。


 くるしい、苦しい――。それでも今は、辛抱しなくてはならない。それは何も、リンのためだけではない。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


 隣に座っている少女に訊かれ、リンは言葉を返した。


「当たり前だろ。気にするな」


 辛抱するのは、妹の、リヨウのためでもあった。


「大丈夫そうには見えないけど?」


 軽口を叩くと、黒くつぶらな瞳で、リヨウは姉の顔をのぞきこむ。膝に乗せていたポーチからハンカチを取り出すと、リヨウはそれでリンの額を拭おうとする。


「いいよ、やめろよ――」


 リンは手を伸ばすと、妹のやわらかい頬を、ちょっとだけ押す。


「自分でできるよ、そんなこと」

「ううん。わたしがやる」


 言っても聞かないリヨウに対し、リンは眉をひそめる。


「ばか、オレだって子供じゃないんだし――」

「もう、いいんだってば」


 リヨウの声に、力がこもる。目玉だけを動かして、リンは周囲の様子を盗み見る。ちょっとでも騒がしくしようものなら、周囲の人を逆なでしてしまう。しかし幸いなことに、二人をにらみつけてくるような人はいなかった。


 リンは胸をなで下ろした。怒りの矛先が妹へ向かわなければ、あとはどうでも良かった。


「分かったよ」

「ホント?!」


 目を輝かせると、リヨウは持っていたハンカチを、リンの額に当てる。


 体を寄せてきた妹の首には、銀製のロケットがぶら下がっている。揺れるロケットを見つめていたリンだったが、いつしか視線は、リヨウの顔へと移っていった。


「どうしたの、お姉ちゃん?」


 移ろった姉の視線を、リヨウも敏感に察知したようだ。


「お前も成長したんだなァ、って」

「何それ」


 リンの言葉に、リヨウははにかむ。笑みをこぼすとき、リヨウは頬をふくらませる癖があった。そんな仕草は、まだまだ子供だった。


「そんなの、当たり前じゃない」

「そうだよな」

「ねぇ、それよりも、気付いた? 冷たいのに」

「え?」

「もうっ、鈍いなァ」


 リンの目の前で、リヨウはハンカチを広げてみせる。絞り染めのハンカチは、白い部分が文様を描いている。


「これ、おまじないなの。『熱を吸い取ってくれる魔法陣』だって、魔法学校(スィナゴガ)で習ったのよ」

「そうなのか」


 手を伸ばすと、リンは文様に触れる。リヨウの言うとおり、確かにヒンヤリとして心地いい。


「すごいな」

「でしょ?」

「参ったよ」


 背もたれに背を預けると、リンは得意げな妹の表情を流し目で見やった。そして何気なく


「何だか……似てきたな」


 と呟いた。


「似てきた?」

「母さんに、だよ。あの人ってさ、すごい世話焼きで、近所でも評判だったんだから」


 そんな“母さん”は、もうこの世にはいない。リンが物心つく以前、リヨウが生まれてすぐのときに、二人の母親は亡くなってしまっていた。それでもリンが、生前の母親のことを生き生きと語ることができるのは、リンの近所に住んでいる、お喋りの好きなおばさんたちが話し込んでくれるからだ。


 そんなおばさんたちも、みんな死んでしまった。


「ホント?! えへへ」


 母親の話を聞くやいなや、リヨウは照れくさそうに、目線を下にした。


「何だよ。ニヤニヤしちゃって」

「だって……うれしいんだもん。わたし、母さんのこと知らないし」

「そうか……そういうもんか」


 座席の手すりに、リンは肘をつく。


「まぁ……とにかく、お前がちゃんと勉強できてるようで良かったよ」


 リンは褒めたつもりだったが、リヨウからの返事はなかった。


「リヨウ?」


 神妙な表情のまま、リヨウは唇を引き結んでいた。それを見て、リンの心はざわついた。チカラアリ(びと)にしてはびっくりするくらい、リヨウは気が利いて、感情が細やかだった。それは姉であるリン自身が、一番よく分かっているつもりだった。


「どうしたんだよ? 言わなきゃ分かんないだろ?」

「じゃあ、言うけどさ、お姉ちゃん。あのさ、わたし、学校辞めようかな、って、思ってるんだ」


 リンが口を開く(いとま)さえ与えず、リヨウは言葉を畳みかける。


「今は学校なんて行ってる場合じゃないしさ、ほかにもっと、やるべきことが――」

「本気で言ってんのか?」

「本気よ? わたし」

「バカはよせよ」


 リヨウの肩に、リンは手を乗せる。


「なぁリヨウ。オレも父さんも、お前が学校に行ってくれてるのを誇りに思ってるんだぞ? 分かってるだろ? 今は確かにヤバいけど、ウルトラに着いたらきっとうまくいく。だからお前は、ちゃんと勉強するんだ」

「でも――」

「いいか、リヨウ。お前はオレよりも頭がいいし、気も利くし、器用だろ? もったいないんだよ。学校辞めるなんて」

「お姉ちゃんだって、学校辞めたくせに」

「オレのことはどうだっていいんだよ。お前はちゃんと学校に行け。姉ちゃんと約束しろ。いいな?」

「そんなのイヤ」


 リヨウはかぶりを振った。


「わたしだって姉ちゃんの役に――」

「――聞き分けのないこと言うなよ」


 妹の肩を握り締めたまま、リンは声を上げた。喉をついて自然と出てきた声だったが、その声の大きさに、リン自身が、ほかの誰よりも驚いていた。


 押し黙ってしまったリヨウの姿に、リンはいたたまれなくなる。ふと周囲の視線を感じ、リンは席に座りなおした。


 息を押しとどめ、再び湧いてきた額の汗を、リンは手の甲でぬぐった。次の言葉を大人しく待っているリヨウに対し、リンは何も言えないでいた。


 リヨウを怒鳴るつもりなど、リンにはこれっぽっちもなかった。


 列車の揺れる規則的な音が、リンの耳に大きく響く。


 雲間からはみ出た午後の太陽が、列車の中を静かに照らした。 


「あのさ、リヨウ」


 言葉を慎重に選びながら、リンは言う。


「オレはただ――」


 それ以上の言葉を、リンは口にすることができなかった。何が起きたのか、リンははじめ、全く分からなかった。ほどなくして、音がしないことに気付いた。何の音が? レールを(きし)ませているはずの、車輪の音が、である。


 そのことに気付いたときには、リンの身体(からだ)はもう、宙に投げ出されていた。座ったままの格好で、リヨウも宙に浮いている。周囲の乗客も、みんなそうだった。


 リヨウ! リンは叫んだ。いや、叫んだつもりになっただけかもしれない。窓ガラスが押し寄せ、列車全体が缶くずのように圧縮され、油の臭いに殴られ、一瞬のうちに、世界がひっくり返る。そのときにはもう、リンは完全に、意識の向こうへと放り投げられていた。

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