36_逡巡(Златки)
ほかの者から離れなさい。お前に王国の秘密を授けよう。お前はそこへ至るだろうが、同時に嘆くこととなるだろう。(『ユダの福音書』、第35頁)
「え……?」
チャイハネの言葉の意味を、クニカはすぐに理解できなかった。
カイを諦めるか――、
あるいは、リンを諦めるか。
リンを?
どうして?
「なぁ、聞いてくれよ」
チャイハネは恭しく、クニカの両肩に手を乗せる。
「『リンが嘘をついている』って、考えたことはないか?」
「それは……」
チャイハネの真剣な目線が、クニカには痛かった。だからクニカは、思わず視線を反らしてしまう。クニカの視界には、アスファルトに打ち捨てられている、錆び付いたジョウロが映りこんだ。
リンは何かを隠している。クニカもまた、そのことは勘付いていた。そして、そう感じたことは、一度だけではない。
しかしクニカは、いったい何を隠しているのか、リンに尋ねる勇気はなかった。尋ねてしまったら最後、二人の間に共通している“なにか”が、あっという間にくずれ去ってしまう予感が、クニカにはしたからだ。
その予感の最先端で、クニカはずっと立ちすくんでいた。
チャイハネの問いに、クニカは無言のままうなずく。チャイハネの“心の色”が、灰色に濁った。
「チャイ?」
「悪いね」
眼鏡を外すと、チャイハネは左目をこする。
「あたしもうまくは言えない。でも、リンは隠し事をしているし、何を隠しているのか分かる」
「チャイはどうして……?」
「それさ、」
手を伸ばすと、チャイハネは、クニカの首にぶら下がっている、銀製のロケットに触れた。銀製のロケットは、リンがクニカにくれた“お守り”である。
「リンからもらったんだろ? それに触れた瞬間、頭の中に影像が流れてきた」
チャイハネの心に渦巻いている灰色が、次第に黒く、濃くなっていった。
チャイハネとクニカが話し込んでいた、あの夜。ロケットを渡した際に、チャイハネは、クニカが知らないことを知ってしまったのだろう。それはリンの“嘘”。クニカとリンの間にいつも横たわっていて、しかしそうであるがゆえに、二人のことをつなぎとめている、そんなリンの秘密。
「それをさ、クニカにも見てほしいんだ」
チャイハネの言葉を聞きながら、クニカはいつしか川面を凝視していた。水に映り込んだクニカは、険しい表情をしていた。それが自分の顔には思えず、クニカは思いきり、眉間にしわを寄せた。水面に映るクニカの顔も、くしゃくしゃになった。
「その上で、クニカ。キミが決めるんだ。市民証は四枚しかない。ウルトラにふさわしい人はだれかを、クニカが決めるんだ」
「……できない」
「『できない』とかじゃない。クニカがやらないと」
かぶりを振るクニカに対し、チャイハネが言った。
「いいかい? キミは、“竜”の魔法使いだ。救世主になれるだけの能力を持ってる。何が何でも、だれにも優先して、クニカはウルトラへ行かなくちゃいけないんだ。あと……あとは、シュムを連れていってあげてほしい。あたしとしてはね? あたしは――別にどっちだっていい。ホントだよ? あたしと、リンと、カイと……その中から、二人選べば良いんだよ。カンタンだろ、クニカ? ほら、泣かなくたって良いんだよ」
「できないよ」
そんなこと、クニカにはできなかった。四人してウルトラまで行きたい。カイだって一緒だ。誰かを選ぶことは、誰かを捨てることと同じだ。そんな決断、クニカにはできなかった。
それでも、まずクニカにはやらなくてはならないことがある。
「リンと……」
クニカは手のひらで、流れる涙をこすった。
「リンと……話をしたい……」
リンの隠し事を、クニカはまず見出さなくてはならない。リンの隠し事は、おそらくクニカを傷つけるだろう。――クニカはすでに、傷つく予感がしていた。傷つくことにしり込みして、あえて見なかったふりをして、そのままウルトラにたどり着くことだってできるだろう。
しかし、ウルトラは“希望の土地”に過ぎない。たどり着いたところで、クニカたちを救ってくれるわけではない。ウルトラにたどり着いた後も、クニカは生き、リンもまた生きるだろう。やがて嘘は膨れ上がり、クニカを押し潰し、リンも押し潰すだろう。
「そうだよな。まずは……そこから始めないと」
「でも……どうやって話せば……」
「話すことなんて、自然に見つかるさ。だけどその前に、クニカも見なきゃいけない。リンが見ていたものと、同じものを」
「それって――?」
「記憶さ。リンの記憶。それに、クニカが干渉する」
チャイハネは溜息をついた。しかしその溜息は、まるで肩の荷が下りたとでも言わんばかりの、安堵のため息のように、クニカには聞こえた。
「準備はあたしがする。だからクニカは、待ってればいい。いいね?」
チャイハネの言葉を受け、クニカは握りこぶしをほどく。
握りしめられていた銀製のロケットが、クニカの指を離れた。
◇◇◇
「そんなわけで、二、三日は様子を見たい」
“隠れ家”に戻るなり、チャイハネはそう提案した。
「本気かよ?」
所在なさそうな様子で机に肘をついていたリンが、チャイハネの言葉を受けて立ち上がった。
「本気だよ、リン?」
「冗談じゃない。そんなに待ってられるかよ。目と鼻の先なんだぞ、ウルトラは」
「目と鼻の先『だからこそ』だろ?」
背もたれを引っぱると、チャイハネは椅子に座った。
「慎重に行動しないとダメだ。分かるだろ? 間近まで来て『やっぱりダメでした』なんて、シャレにならない」
「私も下手に動くのは賢明ではないと思います、リン」
扉の梁に手をかけて懸垂をしていたシュムが、リンのそばに降り立った。
「だけど……」
「思い出してください、リン。基地の異邦人たちが何を企んでいるのか、私たちには分からないんです。下手に動いて向こうの大軍と鉢合わせたり、目をつけられたりでもしたら、それこそ一大事です」
椅子に座り直すと、リンは腕を組んだ。
「クニカは?」
「え?」
「クニカは、どう思う?」
「えっ、と」
言いよどんだクニカは、何となくカイの方を見た。カイは、部屋の中に入ってきた玉虫を、指でつまみ上げようとしている。
「わたしもさ、わたしも、様子を見た方がいいと思うんだ」
あっ、と、カイが小さな溜息を漏らす。カイの指の間をすり抜け、玉虫は外へと逃げ出してしまっていた。
「そうか? フーン」
リンは鼻を鳴らしていたものの、とりあえずクニカの言葉に納得したらしい。
「分かったよ。みんながそう言うんなら、オレもそうするよ。だけどあれだぞ、もしチャンスがあったら、すぐにでも行けるようにしておくんだ。だからそのための準備は――」
「分かってるさ。心配するなって」
リンの言葉を、チャイハネは遮る。
「――さ、そうと決まったことだし、夕飯の支度をしよう。せっかく台所があるんだから、マシなものを食おうぜ」
「それがいいです、チャイ」
シュムの目が、猫のように爛々としてくる。
「私も手伝います」
「だーめ。魚のつまみ食いしたいだけでしょ? キミは皿洗い」
「にゃーん……」
「んー、カイ、帰る。」
何か言いたげなシュムをさしおき、カイが言った。
「え? 帰っちゃうの?」
クニカが問い尋ねたときにはもう、カイは玄関を抜けていた。
「カイ、ちょっと」
「おい、クニカ――」
後ろからリンの声がしたが、クニカは構わず、外へと飛び出した。いつの間にか、空は夕焼けで赤く染まっている。吹きつける風は、クニカに夜を予感させた。
「ねぇ、カイってば」
背中を向けたままのカイの手を、クニカが引っ張った。
「カイも一緒に食べようよ」
「ンーン」
「……あのさ、カイ、もしかして遠慮してる?」
「ウーン……。ワカンネ!」
カイにそう言われてしまうと、クニカにはもう、とりつくしまがなかった。
「そっか。じゃあさ、気が変わったらまた来てよ。あとさ、わたしもカイのところに行くから――」
「クニカとリンは、トモダチかー?」
「え?」
クニカの顔を穴が空くくらいに見つめながら、カイが唐突に尋ねてきた。
「友だちだけど、カイ?」
「カイ、本当に大事なことは、ちゃんと友達に言うぞ?」
カイの言葉を聞いた瞬間、クニカは足がすくんでしまった。口を開こうにも、言葉がつっかえてうまく話せない。まるで、クニカのリンに対する気持ちを、カイは見透かしているかのようだった。
「カイ、どういう意味……?」
「ウーン……。ワカンネ!」
「『ワカンネ!』って、カイ――」
「おおーっ!」
クニカの着るタオル地のパーカーに、カイは腕をのばす。クニカの服にくっついていた玉虫を、カイが捕まえたのだ。
「カイ?」
「アハハ!」
何が嬉しいのか、玉虫の甲を夕日にあてながら、カイはさっさと歩きだしてしまう。そして、カイを引き止める手だても余裕も、今のクニカは持ちあわせていなかった。
◇◇◇
夕食を食べ終えた頃にはもう、日が暮れていた。部屋を飛び交う虫の羽音に紛れ、鎧戸の向こう側からは、雨の音も聞こえてくる。
「クニカ、」
真夜中、居間のソファでうずくまっていたクニカに、チャイハネが声をかけた。昼間に二人で話し合っていたことを、実行するときが来たのだ。
「緊張してる?」
ランプの明かりを絞りながら、チャイハネがクニカに尋ねた。生唾を呑みこむと、クニカは無言のまま頷き返す。うかつに口を開いたら、心臓が飛び出してしまうような気がしていた。
「そっか? そうだよな」
ランプを握り締めると、チャイハネは着いてくるよう、クニカに促した。音を立てないようにして、二人は二階へと上がる。
廊下の突き当たりに、一つの部屋がある。中は書斎で、リンはそこで寝ているはずだった。
「手を出してくれ」
クニカが差し出した左手に、チャイハネは何かを書きつける。
「――くすぐったい」
「辛抱してくれ。……さぁ、できた」
ランプの明かりを頼りにして、クニカは自分の手のひらを凝視する。手のひらには、四角形を幾重にも重ねたような、黒い魔法陣が描かれている。
「これは?」
「リンを起こさないようにして、そっと手をつなげ」
クニカの質問には答えないまま、チャイハネは書斎の扉を押し開ける。
「手をつないだら、すぐに目を閉じて。あとは、あたしに任せて」
「分かった」
「じきに分かるさ。じきにね」
チャイハネの最後の言葉は、チャイハネ自身に言い聞かせているかのような響きを含んでいた。
窓から差し込んだ雷の光によって、書斎の中が一瞬だけ明るくなる。手近にあった本を枕にして、リンは床の上に、じかに寝転がっていた。
姿勢を低くして、クニカはリンに近づく。リンの立てるかすかな寝息が、クニカの耳にも届いてくる。
背中側に回りこむと、クニカは身を乗りだして、投げ出されていたリンの手を取った。リンは一度身体をふるわせたものの、目覚めることはなかった。
親指、人さし指、中指をからめるようにして、クニカはリンの手のひらに、自分の手のひらを重ね合わせる。それから、ゆっくりと目を閉じた。
そして――。まぶたの裏に広がる闇の内側から、強烈な光がほとばしって、クニカの身体を刺し貫いた。




