35_リンを置いていけ(Оставь ее в покое)
あなたがたが生きている間に、生きた者を注視しなさい。(『トマスによる福音書』、第59節)
「カイ、寒くないの?」
むき出しになった、カイの白い二の腕を見つつ、クニカは尋ねる。
「ン!」
「へー、すごいね。食べ物とかどうしてるの?」
「カイ、魚捕まえるの得意だぞ。」
「魚かぁ」
クニカの口の中に、唾液が自然と溢れてくる。思い返してみれば、こちらの世界に転生してからというもの、クニカは魚を食べた記憶がない。
先ほどからずっと、クニカはカイと、お喋りをして過ごしていた。“黒い雨”が降り続いているせいで、ほかにすることがなかったのだ。
「あれ使ってるんでしょ?」
ランタンを手に取ると、クニカは肘を伸ばし、対岸に光を投げかける。そこには、がらくたが山のように積まれていて、山の一番手前には、釣り竿が逆さまにつき立ててあった。
ところが、カイは首を横に振った。
「え、違うの?」
「ン。カイ、魚は潜って捕るぞ。」
「潜るの? ホント?」
「ン!」
「すごいんだね」
「んー。カイ、褒められると、ウレシイぞ。」
カイは、照れ臭そうに身体をよじる。
思えばカイは、出会ったときに水浸しだった。あれも、直前まで、カイは水の中にいたからだろう。
「クニカも、魚捕るのか?」
「え? ……う、うん」
勢いでうなずいてしまったものの、クニカには、ちゃんとした魚釣りの経験がなかった。転生する前、まだクニカが、“國香”だった頃、父親に連れられて、川で釣りをしたことはある。後はせいぜい、スルメをエサにして、近所の側溝でザリガニを釣ったくらいである。
「まぁ……少しはね? ほんのちょっと、くらいだけど」
「カイ、クニカが魚捕ってるところ、見たいぞ。」
「えーっ」
クニカは頭をかいた。うまくごまかす――こともできそうになかった。カイがクニカの顔を覗きこんで、今か今かと返事を待っているからだ。
外で降る雨も、次第に落ち着いてきている。雷は遠くの空へ去ってしまったらしく、いつの間にか、川の轟音も聞こえなくなっていた。幸か不幸か、釣りをするにはちょうど良い環境だった。
「分かった、やってみるよ」
「おーっ、クニカー!」
カイの“心の色”が、まぶしく輝く。
「それでこそ、オトコだーっ!」
「オトコ……」
たぶんカイは、言葉の意味をよく分かっていない。クニカの方も、「オトコじゃないんだけど」とは言えず、かといって「わたしオンナなんだよ」と言うのも変な気がしたので、酸っぱいものを食べたような表情をするしかなかった。
クニカは黙ったまま、対岸の釣竿に念を送る。木箱につき立ててあった釣竿が揺れ動き、周りのがらくたを振りほどいて宙に浮くと、そのまま川を横切って、クニカの手に収まる。
「おーっ!」
カイが歓声を上げる。
「すごいぞー!」
「えへへ。よし! ……あ、」
竿に絡みついていた糸をほどくうちに、クニカは大切なことに気付いた。エサがないのだ。
「ねぇカイ、エサ……ってあるかな?」
「ウーン……。――ワカンネ!」
「だよねぇ……」
クニカは肩を落としたが、それでも水面に、糸を垂らしてみる。ダメでもともとである。ただし、もちろんクニカは、
(魚が引っかかりますように)
と祈ることを忘れなかった。
◇◇◇
しばらくの間、クニカは雨の音に耳を傾けていた。クニカの隣であぐらをかいたまま、カイは一定のリズムに合わせ、身体を左右に揺らしていた。
と、そのときだった。竿の先端が大きくしなり、確かな手ごたえが、クニカの腕に伝わってきた。
「来た!」
「おおーっ!」
エサのない釣り針に引っかかってくれる、おっちょこちょいな魚もいるようだ――などと、感心している場合ではなかった。魚の暴れっぷりは、クニカの予想以上だった。立ち上がると、クニカはかかとでふんばって、身体を後ろに倒す。そうでもしなければ、水の中へと引きずりこまれてしまいそうだった。
「クニカー! 手伝うぞーっ!」
「カイ、ありが――うげぇっ?!」
クニカの背後に回り込むと、カイはクニカの身体を抱きかかえ、そのまま奥へ持っていこうとする。お腹を圧迫されたせいで、クニカの喉から変な声が漏れた。
クニカを抱えこんだまま、カイは後ろへ一歩ずつさがる。クニカの重心は前よりで、クニカの身体を運ぶのには相当骨が折れるはずなのだが、カイはびくともしなかった。信じられないほどの怪力だった。
とうとう、魚の姿が水面に映りこむ。そして、次の瞬間、
「うわっ?!」
「おおーっ、――アハハ!」
クニカもカイも、反動で後ろへ転がり込んだ。釣り上げられた魚が、クニカのそばで跳ね回っている。
クニカの太ももくらいはありそうな、大きな魚だった。ランタンの光を浴びて、魚の鱗は、緑青色の輝きを帯びている。
「やった……」
「アハハ、すごいぞ!」
オーバーオールのポケットから、カイは折りたたみ式のナイフを取りだした。魚をたぐり寄せると、カイは器用に魚をさばいてゆく。鱗、はらわた、頭が川の中へと投げ捨てられ、残った身の部分が、あっという間に骨からはぎ取られた。
「できたぞー!」
「わぁ、すごい! ちょっと待ってね」
打ち捨てられていた木切れを引き寄せると、クニカはそれに、火が着くよう念じる。
「おおーっ!」
目の前で燃え上がった木切れを見て、カイが声を上げた。
「すごいぞー!」
「でしょ? さぁ、焼いて食べよう……」
言った途端、クニカの脳裏にリンたちの姿がよぎった。リンたちは、どうしているのだろうか。自分のことを心配しているに違いない。そう考えると、クニカは魚が喉を通らない気がしてくる。
できることなら、リンたちにも魚を食べさせてあげたい。
「クニカー?」
「いや、ちょっと、友だちがさ……」
「むーん。クニカには友だちがいるのか?」
「うん」
「いいなー。」
言ったそばから、クニカは自分の言葉に後悔する。カイは透き通った瞳で、炎が天井に描く煤を見ている。
カイの仕草が何気ないだけに、クニカは一層、後ろめたい気持ちになった。
「あのさ、カイ、」
だからクニカは、こう提案した、
「カイも一緒に来ない?」
と。
◇◇◇
「それで、連れてきた、ってワケか」
冷ややかな目つきで、リンがクニカを見つめる。
一夜明けると、クニカはカイと一緒になって、リンたちが待つだろう“隠れ家”まで戻ってきた。魚のおまけつきである。
そして、一晩中クニカが心配で眠れなかったリンから、クニカはお返しに、げんこつをプレゼントされた。
「だって、置いていけないし……」
椅子に身をうずめ、クニカはできる限り、リンから視線を逸らす。
「まったく! 人がせっかく心配してやったっていうのに――」
「まぁまぁ、リン、そんなに怒るなよ」
笑いながら、チャイハネがリンの肩を叩く。チャイハネは厨房の見張りを、シュムに任せているようだった。
眉間にしわを寄せつつ、リンは四本の指を、クニカとチャイハネに示した。リンの言わんとするところは、クニカにも分かる。人数は五人。それに対し、ウルトラの市民証は四枚しかない。
それだけではない。
「おおーっ?! クニカー?! 魚焼けてるぞーっ!」
カイは、先程からずっとこんな調子で、はしゃいでいるのだ。
「――シッ!」
人さし指を口もとにかざし、リンはカイを注意する。そんなリンの目は、血走っていた。リンがカイから距離を置きたがっているのは、明らかだった。
「カイ、ちょっとこっちに来てごらん」
「ン。」
手招きすると、チャイハネはカイを椅子へ座らせる。
「ちょっとごめんよ」
カイの正面に腰を据えると、チャイハネは、カイの頬に手を添えた。
「あたしの目を見て」
「ン……。」
「オッケー。じゃあ、目を上下左右に動かしてみて」
「ウーン。」
喉の奥でうなりながらも、カイは素直に、チャイハネから言われたことをやってのける。様子を見守っていたクニカは、チャイハネの視線がカイの額に注がれていることに気付いた。
「はい、ありがとさん」
そう言うと、チャイハネはそのまま、外へと出ていってしまった。しかし、玄関を通り抜ける間際、チャイハネが
着いてこい
と合図するのを、クニカは見逃さなかった。
◇◇◇
玄関を抜けると、クニカは階段を駆け降りる。降りた先には道路があり、ガードレールの下を覗けば、青く染まった川面が、目と鼻の先にあった。
ガードレールに腰かけ、チャイハネはクニカのことを待っていた。
「どうしたの?」
「あの子だけどさ」
左手の人さし指を立てると、チャイハネはそれを、こめかみの前で回す。チャイハネの仕草を見て、クニカもまた、銀製のロケットを握りしめた。
「やっぱり」
「何だ、気付いてたのか」
靴裏でマッチを灯すと、チャイハネは煙草をくわえる。
「おでこが広い。前頭葉が、頭蓋に圧迫されてる。先天的なもの……ってワケでもなさそうだけれど」
「そうなんだ……」
どう反応してよいのか分からず、クニカはまごついた。チャイハネも、煙草を指にはさんだまま、しばらく黙っている。
「それでさ、クニカ」
長い沈黙の後、チャイハネが口を開いた。
「いつかは言わなきゃいけなくなるだろうことだから、先回りして言っておくけど、あたしは、カイを連れていくのは反対だよ」
クニカは、唇を引き結んだ。クニカの考えていることなど、チャイハネにはお見通しのようだった。
「そんなことだろうと思ったよ」
煙草の灰を、チャイハネは川面に落とす。
「優しいからなァ、クニカは。カイをうっちゃっておくのはかわいそうだよ。でも分かるだろ、クニカ? あと少しでウルトラなんだ。リスクは取れない」
「もしわたしが……」
クニカはチャイハネに言い寄る。
「もしわたしが……カイを治せたら?」
「もしあたしがカイで、クニカに治してもらったら、たぶん次にこう言うよ、『どうしてクニカと、リンと、チャイハネと、シュムがウルトラに行って、自分はダメなんだ?』って」
「それは……」
「あたしは答えられないね。たぶんあたしだけじゃなくて、世界中のだれだって。参っちゃうよ、ホント。あっはっは」
なおも言い寄ろうとしたクニカだったが、そのときになってようやく、チャイハネの“心の色”が赤と青を行ったり来たりしていることに気付いた。口では冷たいが、チャイハネだって割り切れていないのだ。
「でも……」
消え入りそうな声で、呟くようにクニカは言った。ガードレールから身を乗り出すと、チャイハネは火のついたままの煙草を、川の向こうへ投げ捨てた。
「――方法がさ」
「え?」
「無くはない」
投げ捨てられた煙草は、川面に落ち、すぐに沈んでいった。
「教えて、チャイ!」
「カイを諦めるか――」
せがんだクニカに対し、チャイハネは答えた、
「そうでなければ、リンを置いていくか」
と。




