34_聖者は島のむこう(Святитель находится за пределами острова)
彼は、神の楽園と、それに続く世代とを潤すためにやって来た者である。彼は、その世代の歩みを穢さない者である。(『ユダの福音書』、第43頁)
あの後どうなったのか? クニカには分からない。川へ吸い込まれる最中、リンが
「クニカ!」
と叫んでいた気もするが、クニカの記憶の中では、それも曖昧だった。
そもそも、あのときまだ異邦人たちは、二人のすぐ側にいたはずである。リンがうっかり叫ぶとは、クニカには思えなかった。
しかし、クニカの脳裏には、自分に向かって腕を伸ばしている、リンの姿が焼きついている。自分の記憶は正しいのか、間違っているのか、それが分からず、クニカはかゆい足を、靴の上から掻いているようだった。
もどかしいのは、それだけではない。今のクニカは、自分がどこにいるのかさえ、ちゃんと分かっていなかった。
周囲が暗いことが、原因のひとつだった。暗いのは、“黒い雨”が降っているためだ。日の光は遮られ、あまりの寒さに、クニカは終始身ぶるいをしていた。クニカの吐いた息だけが、暗やみの中で白くほのめく。足下では、先ほどからずっと、小刻みな振動が続き、水のうねる音が、辺りを埋めつくしている。
にもかかわらず、クニカの身体は“黒い雨”から守られている。なぜか? ――頭上に、クニカは腕を伸ばしてみる。肘が伸びきるよりも前に、クニカの手のひらが“屋根”に触れる。屋根は石でできているようだった。おまけに、カーブがかかっている。
そのときだった。体育座りをしていたクニカの正面に、人影が現れた。
「うわっ?!」
「うおーっ?!」
クニカの叫び声に呼応し、相手も声を発する。
「起きてる! アハハ、起きたぞ!」
ランタンを握り締めたまま、相手は長い腕を上げ下げして、喜んでいる。
灯りに切り取られ、クニカは相手の姿を見る。声が高いのは、相手も少女だからだ。少女の背は、クニカよりもずっと高い。リンよりも高いかもしれない。少女の振り上げるランタンを見るために、クニカはほとんど、天井を見上げなければいけないくらいだった。
寒さのことなど、少女は意に介していないらしい。少女は紺色のオーバーオールの下に、黒いシャツを着ていた。しかし、シャツの袖をまくっているせいで、少女の白い肩はむき出しだった。おまけにどういうわけか、少女はずぶ濡れだった。見ているだけで、クニカはくしゃみをしそうになる。
「えっと……あの……」
「わーい。ちゃんと起きたぞ。」
クニカをよそに、少女はクニカの周りでステップを踏み始める。このときになって、クニカはやっと、あることに気付いた。少女の握るランタンには、火が灯っていない。この明るさは、少女の“心の色”が、まぶしく輝いているせいだ。
「死んでなくて良かったぞ。カイ、人が死ぬのを見るの、ツライぞ。」
しみじみとした少女の言葉を聞いて、クニカも合点がいく。川へと投げ出され、意識を失っていたクニカを、少女が引き上げてくれたのだ。
「えっと――カイ?」
「ん?」
試しに名前を呼んだクニカに対し、少女は――カイは、首を傾げてみせる。カイの、長くて、透きとおった白さを持つ髪が、肩からこぼれた。
「初めまして、だよね? わたし、クニカ」
「おーっ、クニカー!」
カイが万歳をする。
「何だか、ほんわかした名前だぞ。」
「そうかな? ――えっとさ、カイ、ここって、橋の下……だよね?」
「ン!」
クニカの傍らで胡坐をかくと、カイははにかんだ。年齢は、カイの方がクニカより上だろう。しかし、カイは人なつっこい印象のため、クニカは物おじせずに話すことができた。
「雨宿りしてたの?」
「ンーン。」
「『ンーン』?」
「ン。」
「どういうこと?」
「カイ、ここに住んでるぞ。あっち。」
ランタンに火を灯すと、カイはそれを掲げ、岸の向こう側を示す。向こう岸には、ちょっとした毛布や、ドラム缶や、新聞紙の束などが積み重なっている。
「ずっとここに?」
透きとおった白い色の瞳を覗きつつ、クニカはカイに尋ねる。しかし、カイからの返事はない。
「家族の人は?」
「ンーン。」
「『ンーン』?」
クニカは思わず、もう一度訊き返す。
「どういう意味?」
「どっか行っちゃったぞ。」
「どっか行っちゃ――」
カイの言葉を反芻しかけ、クニカは咳き込んだ。「死んでしまった」のならば分かる。しかし、「どっか行っちゃった」ということは、また別の意味を持つ。
のんきそうに鼻歌をうたっているカイの隣で、クニカは冷たい予感にさらされる。思えば、リンの家族について、クニカは何も知らない。チャイハネとシュムの二人に至っては、どうしてあんなに深い仲になっているのかさえ、クニカには分からない。
クニカは、足下を流れる川の轟音が、さっきよりも大きくなった気がした。
「じゃあ、カイ。あれだよね、さびしかった?」
「ん? ウーン……」
一定のリズムに従って、身体を左右に揺らしていたカイだったが、ここに来て、その動きがぴたりと止まった。
銀製のロケットを握り締めつつ、息を殺して、クニカはカイからの返事を待った。神妙な顔つきのまま、カイはしばらくうなっていたが、やがておもむろに、
「ウーン……。――ワカンネ!」
と、とびきりの笑顔で答えた。
その答えを聞いて、クニカはずっこけそうになる。
「分かんない、って……」
「ワカンネ!」
「でも、自分のことでしょ?」
「ウーン……。――ワカンネ!」
同じ表情で、同じ返事を、カイはくり返す。クニカはここで、何かがおかしいことに気付いた。いや、実際はうすうす勘付いていたのだが、今のやりとりで、ある確信を抱いた。
「あのさ、カイ」
「ン?」
「カイってさ、その……ほかの人から『変わってるね』みたいに、言われたことある?」
「ウーン……。――ワカンネ!」
なるほど、カイには分からないかもしれない。しかしクニカには、その答えで十分だった。自分と他人との間に隔たりがあることに、カイは気付いていない。それどころか、自分がどのような立場に置かれているのかについてさえも、カイは分かっていないかもしれない。
この世の中で、カイはひとり、ほかの人とは違う島にいる。
「カイ、その……ごめんね」
「『ごめんね』?」
「いや、だからその、変なこと訊いちゃって」
「『変なこと』?」
「いや、だからその――ハァッ……」
ため息をつくと、クニカはうなだれる。
「ムーン……」
そんなクニカの様子を見て、カイはおでこにシワを寄せる。白く輝いていたカイの“心の色”が、まぶしさを失って、闇のなかへと消えてしまう。
「カイ、そういうの嫌だぞ」
「ご、ごめん……」
「アハハ!」
クニカが謝ったとたん、カイは笑い出した。消えたはずのまぶしさが、カイの心に再び宿る。
「カイ?」
「クニカ、謝ってばかりだぞ。カイ、面白いぞ。」
「ご、ごめん……」
「あ、また謝った!」
「え? あ……」
「アハハ!」
長い身体を折り曲げて笑っているカイの姿は、クニカにとって無邪気さそのもののように映った。クニカが気に病んでいることなど、カイの心の中では、千分の一ほどの重みさえないのだろう。
「ウフフ……」
そう考えると、クニカもだんだんおかしくなってくる。
「おーっ。クニカも笑ってるぞ。」
「うん……なんか……おかしくなってきちゃって……」
「カイ、人が笑ってるのを見るの、好きだぞ。」
左右に身体を揺らしながら、カイは鼻歌を歌う。カイの奏でるハミングを聞きながら、クニカは鼻からいっぱい、冷たい夜の空気を吸いこんだ。




