33_煙が目にしみる(Дым попадает в глаза)
お前たちは、偽りのしわざに満ちあふれた者たちである。(『アダムの黙示録』、第45節)
サンクトヨアシェの閑散とした街路を、クニカとリンは歩く。
こま切れになった路地を縫うようにして進み、街外れの城壁にたどり着いた矢先、前を歩いていたリンが、いきなり立ち止まった。
クニカが口を開く前に、リンはまっすぐ、前を指さした。
チャイハネから借りた双眼鏡を、クニカは覗く。双眼鏡の円の中に、城壁が映り込んだ。城壁の赤黒いレンガは、蔦に覆われている。蔦の中に埋もれていた城門は、フェンスと鎖とで、厳重に封じこめられていた。
「なに、あれ」
「この道が――」
地図を開いていたリンが、露骨に舌打ちした。
「ウルトラまでの一番の近道だ。煙もあっちの方角だったよな?」
「うん」
「やっぱりウルトラの奴らが……」
「待って、リン」
「え?」
「あれ見て」
リンが見逃しているものを、クニカは指で示す。門を塞ぐフェンスには、白い塗装があった。塗装の表面には、
I.Χ.Θ.Υ.Σ.
A.T.Σ.Κ.
と、青い文字で印字されている。
リンが眉をひそめる。
「何だよ、あれ?」
「分かんない」
「ばか。分かんないんじゃ――」
そこまで言って、リンは口をつぐむ。
クニカには分からない、リンにも分からない――つまり、そういうことだ。フェンスの文字は、異邦人の言葉である。ウルトラの人間が設置したものではない。
「どうする?」
双眼鏡を降ろすと、クニカはリンの表情をうかがう。
城壁をくまなく見わたしていたリンだったが、やがてある一点で、目を細める。
「あそこ、わかるか?」
歳月の重みは、城壁にも確実にのしかかっている。地面の隆起によって、城壁のある部分はひずみが入り、ある部分はレンガがこぼれている。
そんな城壁の裂け目のひとつに、リンは目をつけているようだった。その部分は土砂崩れで壊れたまま、放置されつづけていたのだろう。裂け目には土砂が入り込み、背後の山とつながっている。
「あそこを登ってみよう。山に入れば、いざというとき隠れられる」
「わかった」
「ぐずぐずするなよ」
リンとともに、クニカは先を急ぐ。
◇◇◇
斜面に手をつきながら、クニカとリンは山の中を進む。斜面は、木の根に覆われて滑りやすく、蔓があちこちを巡っており、視界は悪かった。
しかし、木の幹に手を伸ばし、バランスを保つこともままならなかった。周囲に自生するゴムの木が、二人の行く手を遮っていたからだ。
ゴムの木の樹液に触ろうものなら、手がかぶれてしまう。雨が降った後、水分を含んだゴムの樹液は、さらさらとして透明になる。どのゴムの木が安全で、どのゴムの木が危険かは、ひと目では分からない。クニカとリンは互いに手をつなぎ、安全を確かめあいながら、先へ進むしかなかった。
黙々と歩いていた二人の耳に、虫の音とははっきりと異なる、きしんだ音が聞こえてきた。耳を澄ませているうちに、クニカはそれが、キャタピラの音だと気付いた。
反射的にクニカは、リンの手首を握る。
「リン……!」
「分かってる。見ろ」
リンに促され、クニカも目線を上げる。ゴムの木の葉や、ソテツの木の葉に切り取られた空のすき間から、黒い煙が立ち上っている。
「気をつけろよ」
顎にまで流れてきた汗を、リンはぬぐう。
銀製のロケットを握りしめ、クニカも頷いた。
◇◇◇
近づくにつれ、煙の濃さは増していく。視界が暗いだけではない。息は苦しくなり、目は汗がしみたようになり、鼻の奥は痛くなった。
「大丈夫か?」
「うん」
とはいうものの、クニカは先ほどから、タオルで口元を覆っていた。先ほどから頭が痛い。リンも、ことあるごとに目をこすっていた。
山の斜面が、なだらかになっていく。クニカとリンは、切り立った崖のそばまでたどり着いた。
段差の下にあったくぼ地に、リンが飛び降りる。その瞬間、
「あっ」
と、リンは声を発した。
「どうしたの?」
「来い」
段差へ降りる、リンに言われるがまま、クニカも崖の下を覗きこむ。
崖のすぐ下には、一本の川が流れている。オミ川の支流だろう。川をまたいだ反対側には、ものものしい建造物が控えていた。敷地全体はコンクリート製の塀に覆われ、塀のてっぺんには、有刺鉄線が張りめぐらされている。建物からまっすぐ伸びている煙突が、黒い煙を吐き出していた。
「見ろ」
リンが言う。建物の裏手にある広い空地に、白いかたまりがずらりと並んでいる。戦車だった。べスピンの街でクニカたちが対峙したものと同じである。
しかしどうして、こんなところに? ――砲塔を回転させている戦車の様子を、食い入るように見つめていたクニカだったが、突然リンに引っぱられ、後ろへと転がりこんだ。
「ちょっと……」
「シッ!」
「〈――お偉方は、何を考えてんだ?〉」
リンに抗議しかけたクニカも、背後から聞こえてきた男の声に、慌てて口を閉じる。
今、二人はくぼ地の中に身を潜めている。声はそんな二人の、すぐ上から聞こえてきた。それは異邦の言葉で、クニカの記憶に間違いがなければ、サリシュ=キントゥス帝国の言葉だった。
男たちの会話を、リンは理解できていない。クニカが言葉を理解できるのは、“竜”の魔法のおかげだ。
「〈参っちまうぜ。こんなところで立ち往生なんて〉」
ちぇっ、という舌打ちとともに、男が足をふり上げる気配がした。蹴り飛ばされた小石はクニカの真上を通り過ぎ、崖下へと吸いこまれていく。クニカとリンの頭上には、土ぼこりが降り注いできた。
身体を折り曲げると、リンが口元を覆って、肩を震わせる。くしゃみを堪えているようだった。
「〈立ち往生してるだけましだろ?〉」
別の男の声がする。背後には二人いるようだった。
「〈シャンタイアクティだと、バタバタ死んでるって話だぜ?〉」
シャンタイアクティ。懐かしい名前を、クニカは聞く。南大陸で、最も大きな東の都市が、シャンタイアクティである。クニカたちが目指している西の都市・ウルトラとは、ちょうど反対方向にあるはずだ。
「〈マジかよ。どうしてそんなに手こずってんだ?〉」
「〈巫皇のしわざに決まってるだろ? おまけに、連れの聖騎士たちが強過ぎる〉」
「〈なるほど。そんで俺たちも様子見ってわけか〉」
クニカの脳内に渦巻いていた数々の疑問が、一本の線で繋がりはじめる。
かれらは、サリシュ=キントゥス人で間違いないだろう。海峡を隔てた北の帝国から、はるばるこの南大陸までやってきたのである。
なぜやってきたのか? それはまだ、クニカにも分からない。いずれにしてもかれらは、南大陸を侵略するためにやって来ている。地理的に近いチカラアリを手始めに、西のウルトラ、東のシャンタイアクティへと手を伸ばしている。
ところが、サリシュ=キントゥス人たちは侵攻にてこずっている。べスピンの街でギャングたちがのさばっていたのも、サリシュ=キントゥスの兵隊たちが、ギャングたちに負けたからだろう。だからべスピンのギャングたちは、戦車や小銃といった、高性能な武器を持っていたのだ。
手こずっている原因は何か? 最大の原因は、“黒い雨”だろう。では“黒い雨”は、何が原因で降るようになったのか? サリシュ=キントゥス人たちが原因であるはずがない。自分たちが降らせている雨が原因で、自分たちを困らせるなどということを、かれらはしないだろうから。
リンの吐いた息が、クニカのうなじに当たる。ようやくリンは、くしゃみの呪縛から解き放たれたらしい。
一気に現実へと引き戻されたクニカは、あまりのくすぐったさに肩をすくめた。その拍子に、視線が下へ向く。そしてばっちり、ヘビと目が合ってしまった。
「い――?!」
口を開きかけたクニカの腕を、リンが指でつねる。とぐろを巻いているヘビが、鬼火のように舌をちらつかせながら、クニカのおしりのあたりにまで近づいてくる。
「〈ところが、だ。そろそろ事情が変わるらしい〉」
頭上では相変わらず、サリシュ=キントゥスの兵隊たちが話し込んでいる。
「〈なんでまた急に……?〉」
「〈“竜”が復活したらしい〉」
“竜”の言葉に、クニカの足が、意に反してピクリと動く。蹴り上げられた土ぼこりが、ヘビに降りかかった。ヘビはクニカをにらみつけると、口を大きく開き、牙をむき出しにする。
「〈よせよ〉」
押し殺した笑い声が、クニカの頭上から響く。
「〈そんな話、信じらんねぇな〉」
「〈オレだって、初めから信じてたわけじゃない。でも、そう考えるとつじつまが合う。研究所の連中は、最近やけに騒がしい。出動は多くなっている。なぜだ? “竜”を探すためさ〉」
「〈研究所の連中? 何であいつらが騒ぐ?〉」
「〈“最終兵器”を使うためさ〉」
訊き手の男がすぐに返事をしなかったせいで、奇妙な沈黙が、辺りを支配した。
沈黙が続く間、クニカの心は、二重の問題に引き裂かれていた。視界の真ん中に居座るヘビも問題だったが、それ以上に、男たちの話が気になった。
“竜”これはきっと、自分のことを指している。しかしどうして、サリシュ=キントゥスの兵隊たちが、自分のことを探す必要があるのだろうか?
「〈“最終兵器”?〉」
「〈そうさ〉」
「〈うさんくせぇな〉」
沈黙の重苦しさに対し、男の返事は軽かった。
「〈だいたいな、『最終ナントカ』って名前のヤツにはな、ロクなものがねぇんだよ〉」
「〈知らねえよ、そんなこと。とにかく“最終兵器”ってもんがあって、それを使うには“竜”が必要になる。”竜”の能力がな〉」
「〈なぁ、そろそろ戻ろうぜ、時間だ〉」
なおも話したがる同僚を制し、聞き役だった方の兵士が咳払いする。
「〈まったく。ここにいると喉がやられちまう〉」
「〈なに、じきにどうでもよくなるさ〉」
鼻歌まじりに、もうひとりが答える。
「〈“最終兵器”が動けば、ウルトラなんて一発でおしゃかさ。オレたちも待ちぼうけから解放、ってところだな〉」
「〈だといいけどな〉」
男たちの声が、次第に遠ざかっていく。これ見よがしとばかりに、リンが持っていたナイフを逆手に構える。ヘビを始末するつもりなのだ。
しかし、そんなにうまくはいかなかった。クニカのうなじの後ろあたりから、地面を強く踏みつける振動が響いてきた。と同時に、立ち去るまぎわだった兵士が、何かをこちらへ吐き捨てる、汚い音が聞こえてくる。兵士が痰を吐いたのだ。痰は、そのまま草むらのなかへ消えていったが、ヘビを驚かせるのには十分だった。
牙をむき出しにして、ヘビはクニカのすねに齧りつこうとする。すぐさま立ち上がろうとしたクニカだったが、思うように足がついてこない。そして
「あっ――」
と、悲鳴になりきらない悲鳴をあげる。
そのときには、もう遅かった。クニカの身体は中空を躍り、背後に横たわっている川へと向かって、真っ逆さまに墜落していた。




