32_門番(Привратник)
一夜明けると、クニカたちは、再び国道二十二号に沿って歩き出した。国道二十二号は、相変わらず山の中を蛇のようにうねっていたが、次第に上り坂は減り、下り坂が多くなってきた。
「リン、いいことを教えてあげましょうか?」
クニカの隣でリアカーを引っ張っていたシュムが、先頭を歩くリンに言った。
ちなみにリアカーは、モーテルの脇に打ち捨てられていたのを、リンが偶然発見したものだった。ひしゃげていた車輪は、クニカが“祈る”と、たちまち元どおりになった。
「何だよ?」
「地図を逆さまに見ています」
真顔になると、リンは、目にも止まらぬ速さで地図の上下を持ち直した。
「分かってるよ。あれだよ、わざとだよ!」
「この道、合ってるよね?」
「何だよ」
蚊を払いのけながら、リンがクニカをにらみつける。
「お前、信用してないだろ?」
「い、いや、別にそんなことは……」
助けを求めようと、クニカはシュムに視線を送る。しかし、シュムは猫のように爛々とした目で、クニカとリンを眺めているだけだった。要するにシュムは、慌てふためいているクニカを見て、楽しんでいるようだった。
しかし、リンからげんこつが飛んでくる前に、リアカーの中から声が上がった。
「この道でいいよ」
チャイハネの声である。夜行性のチャイハネは、丸めたブルーシートを枕にして、リアカーの中に寝そべっている。
「リン、地図を貸して」
無言のまま、リンはチャイハネに地図をつき出す。それを受けとると、チャイハネは、地図上の国道二十二号線を指でなぞる。
地図上のある一点で、チャイハネは指を止めた。
「ここ、カーブになってるだろ? ここから、下の様子が見える。上手くいけば、ウルトラも見える」
「ウルトラ?!」
リンが真っ先に反応する。
「ホントだな?!」
「嘘ついてどうすんだよ、な、クニカ?」
うん、と言おうとしたクニカだったが、頷くだけで精一杯だった。
生き延びるために、ずっとウルトラを目的地にして、クニカはこれまで旅をしてきた。街の名前を聞いただけだというのに、クニカの胸は期待で高鳴った。
「おい、グズグズすんな。行くぞ!」
「あっ、待って――」
チャイハネの手から地図をひったくると、リンは早足で前へと進んでいく。残された三人も、リンの背中を追った。
◇◇◇
チャイハネの言っていた“カーブ”は、四人の前に唐突に現れた。
「あそこだ!」
飛び上がらんばかりの勢いで、リンが一目散に駆け出していく。
「ちょっと、リン――」
「クニカ、待って」
身を起こすと、チャイハネはクニカに包みを渡す。
「双眼鏡だよ。リンに見えても、クニカには遠いだろ?」
「ありがとう」
「先に行ってな。あたしは空でも眺めながら、のんびり運ばれてくよ」
「ダメです、チャイ。今度は私がそこに寝る番です」
「えぇ……」
シュムの言葉に、チャイハネはけげんな顔をする。そんな二人をよそに、クニカは双眼鏡を小脇に抱えたまま駆け出していた。蒸し暑い大気がクニカの周りで渦を巻き、クニカの身体からも、汗が噴き出してくる。
とうとう、クニカもカーブの手前までたどり着いた。先に到着していたリンは、眼下に広がる光景に立ちすくんでいる。
錆び付いたガードレールの側で立ち止まると、クニカは双眼鏡を取り出し、眼下の様子に目を細める。
クニカのいる地点から、正面には、幾重もの山並みが確認できる。山間の平原はスプーンでくり抜かれたようになっており、クニカのいる地点からは、四本の川が見えた。
「あれが」
と、リンが川の一本を指さす。
「イル川だ。一番奥のヤツな。その隣がアッシート川。両方とも、サリストク川から分かれた川だな」
リンがサリストク川の方角を示す。南の山脈から流れ出ている川が、そのサリストク川である。
そしてもう一本川がある。クニカたちが今いる山の、ちょうど真下を流れている川だ。
「これは――」
「――オミ川だよ」
リンに代わり、チャイハネが答える。結局チャイハネは、シュムに押し負けたらしい。リアカーを脇に据えると、チャイハネは青息吐息といった様子だった。
「こんなところから……」
「南大陸を、東西に分けてる。で、オミ川も南北に分かれてる。……いや、サリストク川が南北に分かれてる、って言った方がいいのかな? オミもサリストクも同じ川だよ。呼び方が違う」
「どうして違うんですか、チャイ?」
リアカーで寝転がっていたシュムが、肩で息をしているチャイハネに問いかける。
「ウルトラから北がオミ川で、ウルトラより南がサリストク川なんだ。何でかって? 知るかい、そんなこと」
イル、アッシート、サリストク、オミ――。この四つの川の結節点に、一つの島がある。双眼鏡では豆粒ほどの大きさだが、周囲の川幅から類推しても、その島がひときわ大きいことは分かる。
その島こそが、ウルトラ――クニカたちの目的地である。
「あと少し……」
クニカの目の前で、リンが拳を握り締める。
「あと少し……そうすれば……」
「水を差すようで悪いけど、今日は天気がいいから、実際よりも近くに見える」
チャイハネの言葉に、リンは返事をしなかった。
「リン、聞いてるかい?」
「聞いてるよ」
リンの“心の色”が赤く光ったのを、クニカは見逃さなかった。どうしてリンはいら立っているのだろう? チャイハネの言葉がしつこかったようには、クニカには思えない。
「どのくらいかかりますか、チャイ?」
「二、三日かな? 歩いていくのならね。山の下にサンクトヨアシェっていう町があるから、今日は――」
「おい、」
チャイハネの話を、リンが遮る。
「あれ何だよ?」
リンが指さす先に、クニカも双眼鏡を向ける。大地を塗り潰している木々の緑のすき間に、黒い塊が見えた。黒い塊は、クニカの目の前で膨らみ、上空へ発散される。
「煙だよね?」
「クニカ、私にも見せてください」
クニカから双眼鏡を受け取ると、シュムはガードレールに手をつき、煙の立ち込めているところに双眼鏡を向けた。
「山火事かな?」
「いいえ、チャイ。下に何かあります」
「建物だな」
“鷹”の魔法のお蔭で、誰よりも遠目の効くリンが、ジャングルの合間に埋もれているものを見破った。
「工場か何かじゃないのか?」
「かもしれませんが――」
双眼鏡を降ろすと、シュムはチャイハネに視線を送る。
「工場が動いてるとは思えない」
「同感です、チャイ」
「この辺りなら、まだ工場が動いてるんじゃないのか?」
リンが言った。
「ウルトラは無事なんだろ?」
「『比較的マシ』ってだけだぞ、リン。工場を動かす余裕なんてないよ」
ブルーシートを枕にして、チャイハネは空を見ている。
「だいたいさ、工場が動いたとして、いったいだれがモノを買うんだよ」
「そうか――ああ、クソッ、何でもいいさ。じきに分かるだろ?」
「う、うん」
「さっさと行こうぜ。時間がもったいない」
そのままカーブを曲がり、リンは山道を下っていく。リアカーの後ろにつきながら、クニカはできる限り、今しがた見た光景を、記憶に焼きつけようとした。
◇◇◇
サンクトヨアシェの街は、クニカに鉢を連想させた。道路を横断するようにして石壁が張りめぐらされており、そんな石壁でできた鉢の内側には、植物の代わりに建物が並んでいる。
「『サンクトヨアシェの成立は、降天暦754年にまでさかのぼります』――」
観光案内所から拾ってきた資料を、クニカは読み上げる。
「『741年に発生した即位灌頂戦争に際し、当時のウルトラ巫皇・ヨアシェの聖令の下に、ウルトラ市の外郭に打ち捨てられていた砦を修復したことが、この町の起源です』――」
路地裏の階段を回避し、四人は町の中心部へと進んでいく。
「『以来、サンクトヨアシェ市はオミ川をまたいで、西へ西へと発展していきました。全ての都市は、みな西へ西へと発展するものだからです。旧市街と新市街を結ぶ橋は、今では市の名所のひとつとして数えられています。キリクスタン国の建国と同時に、サンクトヨアシェ市もまた、新たな百年を踏み出そうとしています』――アイテッ?!」
子ども向け観光教材『良い子のためのサンクトヨアシェ』を読み終えたと同時に、クニカの頭に、リンのげんこつが降りそそいだ。
「ムダ口叩くな、このばか」
「り、リンだって読んでたじゃん……」
「う、うるさいな、このばか!」
「まぁまぁ」
もめているクニカとリンを、チャイハネがたしなめる。
「そんなにカッカとするなよ。もうすぐ橋に出るから」
「しかし妙ですね。人の姿がありません」
リアカーを引いていたシュムが、並ぶ建物を見回している。
ヤンヴォイよりもべスピンよりも、そしてウルノワよりも、このサンクトヨアシェの街は快適そうだった。人気こそないものの、焼け焦げている家もなければ、崩れ落ちている家もない。コイクォイの姿もなかった。「ウルトラへ近づけばマシ」というのは、そういうことなのだろう。
それゆえに、四人には妙だった。ウルトラにこれほど近い街であれば、難民でひしめいていてもおかしくはない。
「隠れてる……とか?」
「暗がりに潜んでるようには見えないけどね」
あごの辺りを、チャイハネはなでる。
「だいたい、心の色だって見えないわけだろ?」
「……あ、そうか」
チャイハネに言われて、クニカもそのことに気付いた。人が壁の向こう側に隠れていたとしても、クニカならば、心の色が見分けられるはずなのだ。
それが見えないということは、そもそも人がいないということである。
「むしろ、あたしたちを見て逃げ出した……ってのが筋じゃないかな?」
「どうしてです?」
と尋ねてきたシュムだったが、クニカも含めたほかの三人は、ただシュムに視線を送り返すしかなかった。
シュムは、わざとらしくまばたきする。
「私が何かしましたか? クニカはどう思います?」
「いえ……特に言いたいことは……」
「シッ!」
リンが声を上げた。
「人がいる」
「どこに?」
クニカの問いに、リンは返事をしなかった。リンの視線の先を、クニカも目を細めて追ってみる。シャッターの降りた商店、打ち捨てられた屋台、ひしゃげた自転車の束――そんなものが見えるだけで、遠くの光景はクニカには分からない。
湿り気を帯びた風が、クニカたちの間を通り抜ける。
「迂回しよう」
ややあってから、リンが口を開いた。
「面倒に巻き込まれるのはゴメンだ」
◇◇◇
市街の南を抜け、四人は川のたもとまでやってきた。ヤンヴォイを抜ける際に、その川幅でクニカを圧倒したオミ川も、サンクトヨアシェの街中では分岐し、細い川となっていた。
そんな川の全てに、橋がかかっている。橋は全て石製で、深々と刻まれた轍には、水が溜まっていた。
川沿いにある一軒の家に、四人は目をつけた。ここならば見晴らしがよく、周囲の様子がよく分かる。建物は密集していたが、かえって好都合だった。いざとなれば窓を飛び越え、隣の家へと避難できる。
「ようやく一息つけるな」
塩化ビニル製の安っぽいテーブルクロスからほこりを払うと、リンがダイニングにある椅子の一つに腰かけた。
「クタクタだよ。ところでチャイ、お前、ちゃんとアレ持ってるんだよな?」
ふところから封筒を取りだすと、チャイハネはそれを机に投げる。投げた弾みで、封筒の中身が外へはみ出る。
薄い紙には、
【市民証】
と印字されている。ウルノワの街でチャイハネが言っていた報酬とは、これのことだった。
「心配すんなよ。ひぃ、ふぅ、みぃ……ちょうど四枚だ」
「あれ、シュムは?」
「ここです、クニカ」
「――うわっ?!」
耳元で聞こえてきたシュムの声に、クニカはのけ反る。その際、シュムが踏みつけているものを垣間見てしまい、クニカはほとんど飛び上がらんばかりになる。
「だれだお前?!」
椅子を蹴飛ばすようにして、リンも立ち上がる。
見知らぬ男を、シュムは足蹴にしている。
「この人、私たちの後ろから、こっそり着いてきていました」
「頼む、離してくれ」
男の声に、シュムはまったく耳を貸していないようだった。男の背中の上であぐらをかいたまま、シュムは男の左腕を抱きかかえ、反対側へと体重をかけている。男の関節のあたりから、湿った音が聞こえてきた。
「痛いっ」
「痛くしてるんです」
平然と答えるシュムだったが、クニカはこれ以上見ていられなかった。
「あ……あ、怪しいヤツじゃねえよ、オレは――あっ?!」
「怪しくない奴は、ウロウロしたりしないんだな」
椅子に腰かけていたチャイハネが、しみじみと言う。
「た、頼みがあんだよ」
「人に頼ってばかりでは、道は開けませんよ?」
「そう、道! 道のことだっ!」
“道”という単語に反応して、男は口から泡を飛ばした。
うさんくさそうなまなざしを、リンは男に向ける。
「道がどうしたんだよ?」
「き……北から来たんだろ、あんたら? だったら見たろ? 基地があるのぐらい!」
「基地って……煙を吐いていたアレですか?」
「そうそう、それだ! そこの奴らが道を塞いでるせいで、ウルトラまで近づけねぇ!」
「で、その話が本当だという証拠は?」
「行ってみりゃ分か――」
抱きかかえていた男の腕を、シュムが体をよじって急旋回させる。男が悲鳴を上げる。梱包用の「ぷちぷち」を一気にぷちぷちさせたような音が、男の肩から響く。男の目は血走り、全身に汗を掻き、声にならない声で息を吐いていた。
「そんなに痛くないでしょう。明日には元通りになっているはずです」
「シュム、それはね、右にひねったとき」
眼鏡を外すと、チャイハネは自分の目のあたりをこする。
「え。そうだったんですか?」
「ひぃーっ、ひーっ?!」
シュムが重心をどかした一瞬の隙をついて、男は這いつくばりながら、玄関から転がり出ていく。男は、本当にやましいことなどなかったのだろう。クニカは気の毒に感じたが、シュムが腕をひねったときの
ぷちっ
という音が生々しすぎて、男を気遣っている場合ではなかった。
「でも、だれがそんなことを……」
「考えられるとするなら、ウルトラの奴らかな?」
「ウルトラの? 何でだよ?」
「難民が収容できなくなったから――とかじゃないかな?」
チャイハネの言葉に、シュムも神妙な表情で頷いた。
「そんなわけあるかよ。オレもクニカも聞いたんだぞ、『ウルトラへ避難するように』っていうラジオの放送を――」
「事情が変わってしまった可能性は大いにあり得ます」
「ここまで来たんだぞ」
腕を組むと、リンはいら立たしげに周囲を歩き回る。
「基地に行けば、何かが分かるかもしれないんだよね?」
リンの気持ちを代弁するように、クニカがチャイハネに質問する。
「何もしないよりかはマシだな」
「なら、行くよ」
間髪入れずに、リンが言った。
「危険ですよ、リン?」
「そんなの当たり前だろ? どこだって危険なんだ。だろ、クニカ?」
「え? う、うん――」
「よし、じゃあ決まりだ。オレとクニカとで基地を見てくる」
「クニカと?」
テーブルに肘を突いたまま、チャイハネがリンに訊き返す。
「いいだろ?」
「悪いなんて言っちゃいないさ」
チャイハネは意外そうだったが、リンの言葉は、クニカにも意外だった。いつもなら、リンは「クニカはここに残ってろ」とでも言うだろう。
そう考えていたため、クニカはちょっと嬉しかった。それだけリンに認められているような気がしたからだ。
「ほら、さっさと行くぞ、クニカ!」
「うん!」
リンにけしかけられ、クニカも外へと飛び出す。
「雨が降る前に帰れよ!」
チャイハネの言葉が、後ろから飛んだ。




