26_親友(Близкий Друг)
――果実、洵ず其を産み出だしたる者の裡に存せり。【『ペトロの黙示録』、第14節】
鍵を差し込むと、クニカはそれを左に回した。手ごたえとともに、クニカの脳内で白い魔法陣が点滅し、見えなくなる。
「やったか?」
「うん」
三階での騒動を終え、クニカとリンは一階へと舞い戻っていた。
あの白い服を着た異邦人については、二人とも何も言わなかった。今しなければならないことが、二人にはある。
二人は今、北階段の前にいた。とうとう地下へ降りる準備が整ったのだ。リンが待ちかねたように手を伸ばし、ノブをひねる。扉が開き、蝶番が軋む。
「入るぞ」
「分かった」
「気をつけろよ、クニカ。何かいるかもしれない」
「リンもね――」
地下に広がる闇の深さに呼応するかのように、クニカも声を小さくする。リンと手を繋ぎながら、クニカも階段を下っていく。
◇◇◇
階段を下ってすぐのところに、また扉があった。鉄扉には表札が掛けてあるが、暗いせいで文字は読めない。
「鍵を貸せ、クニカ」
クニカから鍵を受け取ると、リンは鉄扉を横へスライドさせる。湿っぽく、すえた臭いのするクニカたちの居場所に、猛烈な冷気が流れ込んできた。
「寒い!」
クニカは叫んだ。血液製剤の鮮度を保つ目的から、地下では冷却装置が働いているようだった。“黒い雨”が降り、電気の供給が止まった後も、予備の電源が機能しているようだった。
「もたもたすんな、入るぞ――」
内部の様子に目を細めながら、リンが地下室へ入る。自分の吐く白い息のせいで、クニカの視界が遮られる。地下室を照らす青い蛍光灯は、霜に埋め尽くされている。
腕を突き出し、リンは壁についた霜をこそげ取る。霜の下から、地下棟の案内図が出てきた。
「さっさと取って、さっさと出るぞ」
シャツの裾で、リンは手についた水滴を拭き取る。冷たさのせいで、リンの右手は既に赤くなっていた。
「血小板は――」
「血漿だって」
「うるさいな、もう。分かってるよ。無駄口叩くな。舌が張り付きそうだ。ここだろ?!」
リンが地図の一画を指差した。そこには【血漿製剤保管所】と、赤字で書かれている。
「あの扉だな」
血漿を保管している部屋は、二人のいる地点からさほど離れてはいない。その代わり、鉄扉は堅く閉ざされていた。ハンドルを回して開閉するタイプの扉である。
ハンドルに手を伸ばしたリンが、
「痛えっ!」
と叫び、慌てて手を引っ込める。
「触ってらんない」
「任せて」
息を吐くと、クニカはハンドルを両手で掴む。扉は冷たくなく、ハンドルは造作なくひねることができる――そのように念じて。祈りの効果は抜群だった。ハンドルはすぐに緩み、二人の前に保管所の口が開く。
「よし」
リンが言いかけ、激しく咳き込む。無駄口を叩くどころか、息をしているだけで、肺が凍り付いてしまいそうだった。
お互いに頷き合うと、クニカとリンは、覚悟を決めて中に入った。
地下室の中でも、この保管所が最も寒いように、クニカには感じられた。「寒い」と言うよりも、「痛い」と言ったほうがいいかもしれない。体中を細かな針で刺されているかのような気分だった。
たちの悪いことは、寒さだけに留まらない。クニカの隣で、リンがうなる。
探し求めていた血漿は、保管室にあった。ただし、山のように。間近にあった二つの血漿製剤を取ると、クニカは両者のラベルを代わる代わる見てみる。ラベルに印字されているキリル文字の羅列は、両方とも異なっていた。
どれだよ、と、声が出せないので、リンが目配せしてくる。そんなリンに対し、クニカは首を振るしかなかった。
思えば、「血漿を持って来い」と言っただけで、どんな種類のものを持ってくればいいのか、相手の少女は何も指示しなかった。忘れていたのだろうか? だとすれば、クニカたちのこれまでの苦労は、水の泡ということになる。
そして、これまでの努力が水の泡ならば、クニカ自身もまた犬死にすることになる。
〈――青いラベル〉
壁に吊り下げられている血漿製剤が、クニカの視界にぼんやりと映る。耳に流れ込んできた言葉の意味を理解するのに、クニカは時間が掛かった。
とっさに周りを見渡したクニカだったが、リンのほかに人影はいない。
〈もしもし? 青いラベル! 青!〉
またしても、クニカに声が届く。脳内に直接流れ込んでくるような、そんな声だった。まごついているクニカに対し、やや苛立っているらしい。声は、クニカたちを病院に行くよう仕向けた、当の少女のものだった。
「あっ、はい――」
ひとりごちるクニカに、リンが怪訝な表情をする。リンには構わず、クニカは壁際に寄る。少女のテレパシーどおり、青い線で区分されたラベルが、壁の一面を占めている。
〈それの110НЙС。あーそれ! いま、今振り向く前の棚――〉
環境が過酷すぎると、人間は思考を手放してしまうらしい。テレパシーが流れ込んでくる間、クニカはほとんど何も考えていなかった。ただ少女の言葉に従い、クニカは青いラベルの【110НЙС】を探し出し、それを掴んだ。
〈いいね、早く出ようか。でないと冷凍標本になる)
リンのシャツを引っ張ると、クニカは飛ぶようにして、地下室を後にした。
◇◇◇
段差を登った先に、門が見える。相手の少女は花壇の縁に座ったまま、戻ってくるクニカとリンを見据えていた。
クニカたちが病院で右往左往していた合間に、少女は着替えを済ませたらしい。といっても、ただ白衣を重ねて着ているだけだったが。傾きかけた太陽の日を受け、少女の白衣はまぶしく輝いていた。
「お疲れさん」
そう言うと、少女は左手に持っていたものを投げ捨てた。地面に落ちた瞬間、投げ捨てられたものは四方八方に火花を飛び散らせた。煙草だった。
近づいてきた少女に対し、クニカは立ち止まる。が、リンはそうではなかった。クニカの脇を素通りすると、少女の真正面までリンは肉薄する。
「リン!」
リンの拳が握りしめられているのに気付いたときには、すべてが遅かった。リンの拳が、少女の左頬に炸裂する。少女の眼鏡は吹き飛び、少女自身は真後ろに倒れこむ。リンはほとんど飛び掛るようにして、少女に馬乗りになった。
「リンってば!」
「お前……」
クニカが止めに入ろうとするのにもかかわらず、リンは再び拳を握る。
「避けなかったな」
「そりゃそうさ。その方がフェアだろ?」
「コイツ――!」
クニカは、リンのお腹に腕を回し、少女からリンを引き剥がす。リンの剣幕がこのまま続けば、少女は八裂きにされてしまうだろう。
「落ち着けって」
立ち上がると、少女は眼鏡を拾う。
「良かったじゃないか、死なないで済んだ」
「ああそうか?! そうかもな?!」
「なぁ、ちょっと想像してみろ。同じ状況で、立場が逆だったら、どうしてた? リン、お前だって同じことしてただろ?」
「それは――」
「それより、血漿だ。そうそう、それ」
クニカの持っている血漿に、少女は腕を伸ばす。
「待て。まだだ」
少女の腕を払いのけると、リンはクニカの手から血漿をひったくる。
「約束は守ったろ? 先に解毒剤だ。それをクニカに打ってやれ」
「解毒剤?」
「とぼけんな。お前言っただろ? あのとき――」
「そんなものないよ。――ああ、まった待った。そういう意味じゃない」
またしても飛び掛ろうとするリンを、少女はなだめる。クニカも懸命になって、リンの身体を引き留めた。
「ねぇリン、話し聞いてあげようよ」
「離せ、コイツぶちのめしてやる――」
「はじめから毒なんてないんだよ」
口から泡を飛ばしてもがいているリンに対し、少女は肩をすくめる。言葉を受け、リンの動きがぴたりと止まった。リンは言葉の意味を探りかねているらしい。
「“ない”?」
「そうだよ」
背中に着いた土ぼこりを、少女は手で払う。
「あれは生理食塩水さ。毒にも薬にもならない。だから解毒剤なんてものはない。分かった?」
「騙したな?!」
安堵するかと思いきや、リンはなおも、クニカの制止を振りほどこうともがき始めた。とにかくリンは、少女をぶん殴りたくて仕方ないらしい。
「リン、落ち着いてってば」
「落ち着いてられるかよ! お前――おまえ、死にかけてんだぞ?!」
「じゃあ、こうしよう」
少女が言った。
「今すぐクニカの身体に毒を入れてやる。そのあとで、あたしがすかさず解毒剤を注入する。な? これで満足だろ?」
「ふざけてんのか?!」
「ふざけてない」
少女が一歩、クニカたちへ近づく。リンが腕を伸ばし、少女に掴みかかろうとした。少女はリンの手を取ると、その手を握り締める。
「何だよ」
「頼むよ。時間が惜しい。報酬は払うよ。約束する。だけど今は親友を助けたい。あたしの言ってること、分かるだろ?」
リンの瞳を見据えたまま、少女は微笑む。話をする間、少女は決して、リンから目をそらさなかった。
リンはしばらく押し黙ったままだったが、やがて、少女の手を振りほどいた。
「必ずだぞ」
少女に向かって、リンは人差し指をつきたてた。
「これも嘘だったら、親友もろともぶち殺すからな。分かったな」
「分かったよ。ありがとう」
リンの手から、少女は血漿を受け取る。
「じゃあ、着いてきて。二人にも現場を見てほしい。そうだ、自己紹介をしていない」
図書館の方角へ歩み始めていた少女は、クニカとリンに向き直る。
「あたしの名前はチャイハネ。チャイでいい」
少女は――チャイハネはそう名乗ると、図書館の中へと入り込んでいった。




