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ラヴ・アンダーグラウンド(LOVE UИDERGЯOUND)  作者: 囘囘靑
第4章:巡礼の街・ウルノワ(Урнова)
24/50

24_トスカ(Тоска)

【グロ注意! 食前食後の方はご注意ください】

――お前たちは、どうして主の御心に背いて叫ぶのか。(『アダムの黙示録』、第45節)

 二階に広がる闇の中を、クニカとリンは、手探りで進んでいく。前を歩いていたリンが、おもむろに


「静かだな」


 と言った。生唾を飲み込むと、クニカも(うなず)き返す。


 耳に入ってくる音は、一階から響くコイクォイの悲鳴と、二人の足音だけである。病院の一階がコイクォイどもの(そう)(くつ)だとすれば、二階もまた、そうであるはずだ。ところが実際は、墓石のように静まり返っている。まるで何者かが、二人が(わな)へとはまり込んでいくのを、息を殺して待ち受けているかのようだった。


 そのとき。唐突に


「ああ?! ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ?! ッハ――?!」


 という笑い声が響いてきた。前を歩いていたリンが、横へ駆け出した。反射的に、クニカもリンの背中を追う。


 リンが男子トイレに飛び込む。隠れるつもりなのだ。二人してトイレの一番奥に陣取り、そこで息をついた。


「なんだよ、今の」

「分かんないよ」


 そう答えるのが、クニカにはやっとだった。不気味な笑い声は、クニカの耳にこびり付いたまま、なかなか離れようとしない。


 階段で聞いた「助けてくれ」という声も、今聞いた笑い声も、声音は違っている。しかし、複数の人間が二階にいるとは、考えられなかった。


「行こう、クニカ」


 リンに促されるまま、クニカもナイフを構えた。



   ◇◇◇



 男子トイレの入口から身を乗り出すと、二人は廊下に出た。出た瞬間、


「ママー!」


 という声が、進行方向から聞こえてくる。言葉とは裏腹に、甲高い老人のような声だった。クニカは逃げ出したかったが、リンがクニカの手首を(つか)んで離さなかった。


「こっちだ!」


 またしても二人は、部屋の中へと逃げ込んだ。男子トイレの隣にある、待合室だ。


 待合室のテーブルにしがみつくと、クニカはお腹の底からため息を絞り出した。姿が見えないことが、これほどまでに恐ろしいことであるとは、クニカは夢にも思っていなかった。


「大丈夫か?」


 クニカの脇にしゃがむと、リンが小声で話しかけてくる。


「もうヤダ」

「バカ。オレだってヤだよ」


 かく言うリンの腕も、鳥肌で埋め尽くされている。


「クニカ、地図を思い出せ」

「地図?」

「南階段ってあったろ?」


 二階の壁にあった見取り図を、クニカは思い出す。二階と三階は北階段だけでなく、南階段によってもつながっているはずだった。


「そこへ行くんだ。そうすれば三階まで上れる」

「でも……今の声……」


 右手に持っているものを、リンはクニカの前に掲げてみせる。それは魔法銃だった。魔法銃の留め金を外すと、魔法陣の描かれたカートリッジを、リンはクニカにかざす。


「これでおびき寄せる。カートリッジをオレが投げるから、お前が火をつける。隙を見て、南階段まで行く。できるか?」

「うん」

「よし、これが最後のカートリッジだからな。ヘマすんなよ」


 リンは正面の扉まで近づく。扉をそっと開くと、リンはカートリッジを滑らせるようにして投げ込んだ。


 カートリッジに火がつく様子を、クニカは頭の中で思い浮かべる。外からの光を受け、まぶたの裏が明るくなった。祈りが届き、火がついたのだ。


「もたもたするなよ――」


 リンが扉の脇へと寄った、そのときだった。


 建物全体が大きく揺れ、今までに聞いたことのないような破壊音が、二人の背後から聞こえてくる。音に混じって、悲鳴も聞こえてきた。コイクォイの悲鳴である。


 待合室にひびが入り、背後の壁が吹き飛ぶ。扉の蝶番(ちょうつがい)が外れ、燃え上がったカートリッジが、怪物の姿を照らした。


 怪物は、すでに人間としての面影を留めていなかった。つき出した脚から、怪物がかつて人間だったことが、辛うじて分かるだけだった。全身は膨れ上がり、表面には乳房のようなものが、無数に張りついている。乳房のひとつびとつは不規則に膨れ上がり、黒い体液が滴っていた。


「逃げろ!」


 リンの叫び声が聞こえたのと、怪物の乳房が盛り上がり、クニカめがけて「ぶっ」という音とともに液体が吐き出されたのは、ほぼ同時だった。腰が抜けかけ、クニカよろける。しかし、それがクニカの命を救った。飛び出した黒い液体は、クニカの脇に反れ、壁にぶつかって湯気を立てる。


「早く!」


 リンの声に従って、クニカも全速力で逃げ出す。どうすればいいのかという判断など、まったく思い浮かばない。


 ただひとつ分かることは、怪物は正面にいなかった、ということだけだった。怪物はずっと、もう一本の通路の奥にいたのだ。大きすぎる叫び声は、二階の壁中を反響していた。そのせいで「怪物は正面にいるもの」と、クニカもリンも錯覚してしまったのだ。


 正面扉を抜け、燃え上がるカートリッジの脇を、二人は駆け抜ける。駆け抜ける最中、黒い粘液にまみれて死んでいる一匹のコイクォイを、クニカは目撃する。


 クニカの思考の中で、全てが明白になる。二階が静寂に包まれていたのも、この怪物(トスカ)のせいだ。怪物はその力を発揮し、二階のコイクォイをかたっぱしから叩き潰してしまったのだ。


「こっちだ!」


 リンが正面の扉を蹴破る。【群病室】と書いてあるプレートが、扉と一緒に弾け飛んだ。クニカがその中へと転がり込んだ矢先、


「ああっ?! はっ?! はっ?! はっ?! はっ?! はぁっ?!」


 という、笑い声とも恐喝とも言いがたい声とともに、怪物が待合室の壁をぶち抜いてきた。火のついたカートリッジを踏み潰すと、怪物はそのまま群病室まで入り込んでくる。


 二階全体が墓場だとすれば、この群病室は地獄(ゲヘナ)そのものだった。床に無造作に敷きつめられているマットレスには、シミのついていないものはひとつもない。――いったい何のシミなのだろう? クニカには分からないし、分かりたいとも思わなかった。うろついているゴキブリが、クニカの足下で踏み潰される。前を走るリンの足跡が白い。ウジが潰されているのだ。何かの(かたまり)にたかっていたハエは一斉に飛び去り、カーテンレールにしなだれかかっていたカーテンの残骸に殺到する。


「クニカ!」


 振り向くと、リンが叫んだ。群病室にあるもうひとつの扉を抜け、南階段を上がるつもりなのだ。


 しかし、上に進んだところでどうなるというのだろう? 怪物は執拗(しつよう)に二人を追いかけてくるだろう。上手く逃げられるとは思えない。


「ママあああああああ?!」


 またしても怪物が叫ぶ。ハエのうなりとあいまって、叫び声はクニカの耳の中をのたうった。息をしないよう努力しても、猛烈な腐臭は容赦なくクニカの鼻孔に殺到し、嗅覚をえぐってくる。息をしないのならば、吐くしかない。


 クニカは限界だった。群病室の壁際、ハエの卵が無数に付着したカーテンに倒れこむ。倒れこんだ衝撃で卵がつぶれ、クニカのパーカーが汚れた。


「クソッ――!」


 扉の前に陣取っていたリンが、怪物とクニカの間に割って入ろうとする。だが、手遅れだった。怪物の乳房のひとつが膨らみ、クニカに黒い液体を吹きつけようとする――。


 その瞬間、クニカの背後から光が差し込んだ。怪物の動きが止まり、膨らんでいた乳房が、二人の目の前で弾け飛ぶ。


 カーテンにしがみついていたクニカだったが、そのカーテンが破け、外の光景が広がった。相変わらず空は雲に覆われている。しかし、雨は止んでおり、雲の切れ間から光が差し込んでいた。


 スコールは止んでいたのだ。ハエの(うな)る音にかき消され、二人はそのこと気付かなかった。


「イイイイイイイ?!」


 怪物が声を上げる。しかし、今までと異なり、その叫び声は苦痛に満ちていた。光を受け、怪物は身もだえしていた。


 左手で鼻をつまみながら、クニカは必死に念じる。部屋を覆っていたカーテンが、クニカの神通力(バジェステネ)で一気に引き裂かれる。


 かすかな光で、群病室が明るくなった。怪物には、それで十分だった。


「おねえちゃああああんん?!」


 断末魔の叫び声が、怪物の体からほとばしった。体中の乳房が炸裂(さくれつ)し、黒い液体が怪物の身体(からだ)にかかる。かかった黒い液体が怪物の身体を溶かし、またしても乳房を弾けさせる――。


 クニカとリンの目の前で、怪物の身体(からだ)はバターのように溶け、とうとう跡形もなくなってしまった。


「大丈夫か、クニカ?!」


 大丈夫――そう答えるべく立ち上がったクニカだったが、胸のえずきを抑えることができなかった。リンの眼前で腰を折り曲げると、クニカは吐いた。喉は痛くなり、胃液が鼻を逆流してむせ返る。むせ返っているクニカの背中を、リンは何度も叩いた。クニカの吐き捨てたものに溺れ、ハエたちが慌てふためいている。


 左手で口元を覆ったまま、クニカは群病室の外へ出た。出ると同時に、リンが扉を閉める。


 ハエを追い払い、膝に這いよるウジを払いのけると、クニカは空気を鼻から一杯に吸い込んだ。


「命拾いしたな」

「うん」


 リンの言うとおりだった。一歩間違えていたら死んでいただろう。膝に手をついていたクニカだったが、ようやくリンに向き直る。


 リンは青ざめていた。


「大丈夫?」


 リンはかぶりを振る。


「行こう。とにかく」


 リンの声は小さかった。それでもクニカは言われるがまま、リンと一緒に南階段を上る。ここを登れば、三階に辿り着くはずだった。


 雲は消え、穏やかな陽射しが、病院を照らし始めていた。

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