02_異世界へ(В другой мир)
――あっ?!
自分の声が、脳内に反響するような感覚に、クニカはとらわれる。なんだ、バカみたいだと、クニカは思う。
中学生の頃の記憶を、クニカはふと思い出す。国語の授業で、クニカは、夏目漱石の『夢十夜』を読んだ。第七夜は自殺する男の話で、海に身をおどらせた男は、海中へと没するさなかに、死にたくない、と、考えたのだった。
今のクニカは、その男と同じ気持ちだった。
バカみたいだ――目頭が、しぜんと熱くなる。
そのとき、クニカはおかしなことに気付いた。それは今、クニカはこうして、このようにして、自分が死んだことについて考えている、という事実だった。もし本当に死んでしまったのならば、意識は消え、自我は闇に呑まれ、自分の死に際に腹を立てることなど、できはしなだろう。
しかし今、クニカはこうして、死んでしまったことを悔やんでいる。何かを感じ、考えるということは、それだけでもう、はかり知れない意義をもつことのように、クニカには思えた。
どうして自分は、何かを考え続けていられるのだろう?
そもそも自分は、どこにいるのだろう?
――そこまで考えた、その矢先。真っ暗だったクニカの視界が、一気に開けた。
「うわっ?!」
光のまぶしさを前にして、クニカは声を上げる。突風が全身を包み、息をすることもままならなかった。
「あっ――?!」
悲鳴を上げると、クニカはその場に倒れ、手をついた。身体は水にひたり、手はぬかるみに埋まる。
目が慣れてくるにつれ、周囲の様子が、クニカにもはっきりと分かる。地面は浅く水をたたえ、空と雲とが映りこんでいる。周囲を遮るものは何もなく、空はぼんやりと輝いていて、朝焼けのようにも、夕暮れのようにも見えた。
どこからか吹きよせる風に、クニカは身ぶるいする。どういうわけか、クニカは裸だった。
生きている。そんな実感を前にして、クニカはため息をつく。手元に視線を移したクニカは、そこで初めて、水面に映る自分の姿を見た。丸みを帯びた関節、くびれた腰、ふくらんだ乳房――、
「何で――?!」
声がかん高くなっていることに、ここで気付く。
地面に手を突いたまま、水面に映る顔を、クニカは凝視する。丸い輪郭に、青くつぶらな瞳、ピンク色の髪に、柔らかそうな頬。
「そんな……」
クニカは、少女になっていた。
さっきまで、自分は死んだと思っていた。ところが生きていて、今はこうして、少女になっている。
なぜ?
どうして?
心臓が早鐘のように鳴る。そして、這はいつくばっていたクニカは、背後から、大きな影が覆いかぶさってきたことに気付いた。
クニカは顔を上げる。
何が起きているかを理解するのに、やや時間が必要だった。
「なんで?」
まぬけな問いが、クニカの唇からこぼれる。
巨大な人間が、クニカの前に立ちはだかっていた。世界中の闇をかき集めたのではないかというくらい、巨人の肌は黒い。
巨人の腰から下は、水平線の向こう側にある。それほどまでに、巨人は大きかった。
金色の瞳でクニカを見据えると、巨人は右腕を上げる。その手には、一本の針がつままれている。
針の尖端が、光を受けて輝く。クニカは我に返った。巨人にとっては針かもしれないが、クニカにとってはスカイツリーである。刺されたりしようものなら、今度こそ粉砕され、助からないだろう。
「や、やめて……」
立ち上がろうとして、クニカは失敗する。喪われたはずの右脚は、復活していた。しかしながら、知らず知らずのうちに、松葉づえの生活に慣れきっていたせいで、クニカはかえって脚がもつれ、あっけなくその場に転がった。
クニカめがけ、針が迫る。
「嫌――!」
クニカの背中に、針が刺さった。針が触れた瞬間、クニカの全身を、光が包む。
なおも逃げようとするクニカに、再び針が迫る。手に針があてがわれ、クニカの全身が、またしても光に包まれる。
恐怖のあまり、クニカはずっと叫んでいた。クニカの額めがけ、再び針が迫る。目をつぶってしまったクニカだったが、まぶたの裏から、光が伝わってきた。
黒い巨人は、針を下ろす。あえいでいるクニカを見ながら、黒い巨人は、満足そうだった。
そして――黒い巨人は、忽然と消える。クニカの身体は、重力から解き放たれる。
「待って、まって――」
だれも待ってはくれなかった。次の瞬間、天地がひっくり返り、クニカの身体は、虚空へと投げ出される。あらがうことのできない風が、雲と泥を、天と地とを吹き上げ、一点に吸い込もうとする。
世界から締め出されようとする中、クニカは叫び続け、混乱と恐怖に揺さぶられたまま、とうとう意識を失った。