12_襲撃(Креще́ние)
――私はこの世界へ、火(争い)をもたらすためにやってきた。見よ、私はその火が世界を焼き尽くすまで見守ることだろう。(『トマスによる福音書』、第10節)
「どれ、見せてみろ」
リンに言われるがまま、クニカは額を向ける。クニカのあごに手を当てると、クニカの額に、リンは目を細める。
「どう?」
「治ってる。ほら」
バックミラーを、リンはクニカへと向ける。額にできたはずの傷は癒え、跡形もなくなっていた。
「痛くないだろ?」
「うん」
「嘘みたいだな」
ブレーキペダルを放し、リンは車を発進させる。
ヤンヴォイを脱出してから、一週間が経った。二人は交代で運転をしていたが、旅は驚くほど快適だった。“黒い雨”に濡れる心配もなければ、障害物に煩わされることもない。必要な物資は、道路の脇に点在する家屋や、路上に放置されている他の車から頂戴すれば足りた。
唯一の難点は、景色の退屈さだった。
「次の街は、ベスピン、だな」
「ベスピン?」
「そうだ」
クニカの膝にまで、リンは地図を広げる。
「ヤンヴォイを出ただろ? で、ここに流れてるのが、オミ川だ。川にぶつかったら、そのまま川沿いに南西へ進めばいい。これが国道六十六号。カンタンだろ?」
こうして二人は、その「国道六十六号」を通ってベスピンまで向かっていたのだが、いかんせん殺風景だった。
もちろん、クニカは初めからそのように感じたわけではない。初めてオミ川を見たとき、クニカは腰を抜かしそうになった。
「で、でかい……」
果たしてこれを「川」と呼んでしまっていいのだろうか、とクニカは思った。その日はたまたま霧がかかっていたこともあったが、「海」と呼んでも差し支えがないほど、オミ川の川幅は広かった。ところどころに渡し舟の港があり――ガソリンを調達するには絶好の場所だった――、ところどころに中州と、橋とがあった。
とはいえ、それだけのことだった。初めは川の雄大さに釘付けになっていたクニカも、しばらく見ているうちに飽きてしまった。
何より、景色がほとんど変わらないせいで、いつまでも同じ場所にとどまっているような錯覚を受ける。“救済の地”・ウルトラまで、生きてたどり着くこと。それを目標としたクニカにとって、変化のない景色は身体に堪えた。
そして、あちこちに人為が凝らされているというのに、人影がないのは異様な光景だった。
「ヤダね」
道端に点在する、人気のない家屋が、クニカたちの脇を過ぎ去っていく。
「何でだよ?」
「人がいなくて……」
「あぁ……かもな」
窓を開け、リンは風を入れる。冷たい空気が、車内を満たしていく。まもなく、雨になるだろう。
「気にするな。ウルトラに着いたら、全部忘れる。それまでは、何も考えるな」
「うん」
◇◇◇
そして、雨になる。
雨の黒さを前にして、全ての光は遮られてしまう。ヘッドライトも無駄だった。だから二人は、雨のときには車を止め、じっとして過ごすことにしていた。
この頃には、二人ともサバイバル生活に慣れてきていた。寒さをしのぐためには、新聞紙を使えばいい。だから後部座席の窓は、新聞紙で覆われていた。こうすれば、日中は涼しく、夜間や雨のときは暖かい。
「ディディモ、ってのは“双子”って意味だ」
車を止めているとき、リンは決まって話をした。この世界について、ほとんど知識のないクニカにとって、リンの話は貴重だった。
ちなみに今は、この世界の宗教についてである。
「双子?」
「そう。セツ様と双子、ってことだ」
「えぇ?」
「えぇ、ってなんだよ。変な顔すんなよな。オレだってよく分かんないんだからさ」
この世界のキリスト教は、トンデモ話であふれ返っている。
「初めに、セツ様がこの世界に降り立った。セツ様は、霊に派遣されてやってきたんだよ」
「何で来たかって? そんなの、人間を救うために決まってるさ」
「なぁ、クニカ。オレたち人間にも、霊は少しだけ宿っているらしいんだ」
「例えるならば、お父さんと、お母さんと、子供みたいなもんかな?」
「あるときお母さんが、ちょっとふらふらとしているときに、支配者に出会うんだ。それで生まれた子供ってのが、人間たちなのさ」
「――『何でお母さんがふらふらしてたのか』だって? ばか。クニカ、そんなことはいいんだよ」
「で、そのアルコンテスの親分がデーミウールゴースや、ヤルダヴァオート、サクラス、って言うんだけど……」
「もともとお母さん、えっと、智は、霊の奥さんだったわけじゃないか?」
「だから人間にも、ちょっとだけ霊っぽさが宿っているんだよ」
「――『人間は直接的には霊の子供じゃないじゃん』だって? ばか。いいんだよ、そんなことは。そこらへんは、ほら、ふわっとさせとけよ」
「でも人間は、自分たちの中にある霊に気づいていないわけだろ?」
「それを気づかせるために派遣されてきたのが、セツ様なんだよ」
「それでセツ様は地上に降り立ったわけだけど、当然支配者たちは、セツ様に来られたら迷惑なんだよな」
「で、セツ様の霊を消費させるために、四体の淫魔をやって、セツ様を誘惑させたんだ」
「だけど、セツ様の方が上手だった。淫魔たちはセツ様の霊験に感化されて、自分の中の霊性について覚知したんだ」
「覚知した途端、彼女たちは不滅の王国へと帰昇して天女になったわけだ」
「その四人ってのが、古い言葉でハルモゼール、オーロイアエール、ダヴェイタイ、エレーレートっていうらしい」
「今の言葉では、天女ザラミダ、天女サピイェテ、天女アプサラ、天女アスイ、っていうんだ」
「『昔の言葉と全然違うじゃん』だって? ばか。いいんだよそんなこと。いちいち気にするな」
「クニカ。お前は本当に細かいヤツだな」
「で、その四人の天女たちは、セツ様と仲むつまじくてな、たくさん子どもが生まれたんだ」
「天女ザラミダとその子供たちは、北の大陸に移動したんだ。今はサリシュ・キントゥスっていう名前の国になっている。偉い皇帝が治めているんだってさ」
「――おい、クニカ、今お前『なんで移動したの』って訊こうとしただろ? ダメだ。そんなこと訊いちゃ。神様たちにも、いろいろ都合があるんだから」
「で、天女サピイェテとその子供たちは、東へ移動して町を作った。それがシャンタイアクティ。南の大陸では、一番大きな街だな」
「『シャンタイアクティの人とチカラアリの人とは仲が悪いのか』だって? 悪いよ。ていうか、シャンタイアクティの人となんて、頼まれたって仲良くしてやりたいとは思わないね。断りもせずに平気でからあげにレモンかけて、レモンごと食べちゃうようなヤツらばっかりだぞ」
「何でこんな話してるんだ? まあいいや」
「そんでだ。天女アプサラは子供たちを引き連れて西へ向かい、ウルトラを建設したんだ。オレたちが目指しているところだな」
「チカラアリを作ったのは、天女アスイ様と、その子供たちだ。だからオレたちは、遠い昔には、セツ様と繫がりがあったんだ」
「――え? ビスマー人? ビスマーの辺りは、もともと人が住んでいなかったんだよ。初めはシャンタイアクティの土地だったんだけど、次第に入植する人が多くなってきてから、ビスマーとして独立したんだ。だからビスマーってのは、シャンタイアクティの子分みたいなもんだな」
「『ビスマー人に似てる』? クニカが? うーん。オレはビスマー人に会ったことがないから分かんないけど、言われてみると、そんな気もするな。ビスマーの人って、おっとりしてるらしいから。でも、どうだろうな? どうしてそんなこと訊くんだ?」
「タミンが……そうか……」
「――まあ、いいさ。話を戻そう。さっきの続きだけど……」
「セツ様は、不滅の王国からやってきて――」
「ちなみに不滅の王国ってのはアイオーンとも呼ばれていて――」
「で、アイオーンは十二個あって――」
「それが協力し合って七十二の力が――」
「それがそれぞれ霊力を五個もってるから――」
「三百六十になって――」
「それが……飛んでいって――」
「それで……あっちに行ったり――」
「それが……こっちに行ったり――」
◇◇◇
「――って、こら!」
「ひぎいっ?!」
「『ひぎいっ?!』じゃないだろ、ばか。なに寝てるんだよ!」
「だって……」
だって、眠くなってきたのである。途中まではわくわくしていたクニカも、淫魔が登場する辺りから、話についていけなくなった。クニカの頭の中では、スパゲッティが空を飛びかっている。
「もういい。話す気が失せた」
「ゴメンってば、リン。そうだ、魔法の話をしてくれない?」
「魔法? オレのか?」
「オレのは、“鷹”の魔法ってヤツだよ」
「へぇ。かっこいい」
「そうか? じゃあ、ちょっとだけ見せてやるよ」
シャツの襟を引っ張ると、リンは肩を露出させる。
クニカの見ている前で、肩の色が変わる。――いや、「肩から何かが生えてきた」と言ったほうが正しい。それはクニカの目の前で、とうとう一対の翼になる。
「すごい」
「なんだよ、今さら」
リンの翼が動き、クニカに風を送る。窓に貼りつけてある新聞紙が、一斉に音を立てた。
「『今さら』っていうけど、ちゃんと説明してもらってないし」
「そうだっけ? あっ、触るな!」
リンが翼を折りたたむ。翼は、すぐに見えなくなってしまった。
「でも、長くはもたないかな」
「そうなの?」
「個人差があるからな、魔力は」
「わたしも――」
「人の心が、ちょっとだけ見えるんだよね?」と言いかけて、クニカはやめる。そんなことを言おうものなら、リンからいろいろとしぼられかねない。
「“わたしも”?」
「なんか使えるのかなァ、って」
「どうだろうな。まぁ、使えりゃいいってもんじゃないけど」
「使えたほうが格好良くない?」
「そんなこともないさ。親戚に“猫”の魔法使い、ってのがいたよ。俺の従姉妹に当たるやつだけど、一日中ごろごろしてたな」
「それ、魔法じゃなくたって――」
「と、思うだろ? でも魔法なんだ。ソイツ、二階から転げ落ちたときに、両手両脚で着地したんだよ。あれは猫のなせるわざだな。つやっぽかったし。風呂好きだったけど。今どうしているんだろ、アイツ――」
何かを思い出したのか、リンは肩を震わせて笑っている。
「どうしたの?」
「笑っちゃうのがさ、そいつ双子の妹なんだけど、姉ってのが“犬”の魔法使いなんだよ。猫に犬って! よくできてるよな。喧嘩ばっかりしてたけど、仲がいいんだ」
「そうなんだ」
「楽しかったなァ。小さい頃はよく遊んでたんだけど、向こうが引っ越しちまって。ウルトラに越したはずなんだ。あの頃に戻れればなァ」
「……戻れるといいね」
「違うよ。戻るんだ、必ず。料理屋やってるって話だから、一緒に食べよう。お前も一緒にだ、クニカ。二人ともいいやつだから、絶対お前のこと歓迎してくれる」
「うん」
「さ、もう寝よう。明日も行けるとこまで行くぞ」
◇◇◇
次の日も、二人は朝早くから車で出発した。初めこそ、おっかなびっくり運転していた二人だったが、今ではすっかり、片手運転だった。
「リン、見て」
「どうした?」
「あれ……検問所かな?」
クニカが指差す先に、数台の車両があった。そのどれもが、くすんだ色をしている。白と赤のフェンスが、道路を横切っていた。
「待ってろ」
検問所を見てから、リンは地図を確かめる。“鷹”の魔法は、かぎ爪や翼を生み出すだけではない。「遠目が効く」という特殊能力もあった。
「大丈夫だ。そのまま突っ切っちゃえ」
「でも、人がいたら……」
「いやしないさ。いたとしても、もう死んでる」
「うん……」
「ここを抜けたら、ベスピンはすぐだ。検問所を抜けたら、運転を交代しよう」
リンの言うとおり、検問所に人の姿はなかった。戦闘でもあったのだろう。柵は焼け焦げており、車もぺしゃんこになっていた。火は消えているはずなのに、焦げ臭さが周囲に充満していた。
「何かあったのかな?」
「だろうな。気をつけよう。ここからウルトラだから」
「そうなの?」
「ばか。オレの話を聞いてなかったな。ウルトラっていう土地にある『ウルトラ市』に向かってんだから。見ろよ、あれがウルトラの紋章だ」
リンは外を示す。クニカの視野に、青色の紋章が飛び込んできた。
「あれが……」
「そう。さ、交代しよう」
◇◇◇
進むうちに、景色が変わり始める。オミ川と、赤茶けた大地と、熱帯雨林の風景が、こぎれいな町並みへと変貌していった。ベスピン市街へと突入しているのだ。
「なぁ、クニカ」
「どうしたの?」
「変な音がしないか?」
「“変な音”?」
リンに言われて初めて、クニカも音に気付く。ラジオのスピーカーが、蚊の鳴くような音を流しているのだ。
「ラジオだよ。待ってて」
クニカはダイヤルを回した。ノイズに混じって、女性の声が響き始めた。
《ウル……局より、……アリ地域の……んの……せです》
「リン、止めて」
「分かった」
リンはブレーキを踏む。その間に、クニカはダイヤルを調節した。
《ウルトラ市広報局より、チカラアリ地域からの避難民の方々にお知らせです》
「ウルトラだって!」
「静かに!」
リンに促され、クニカも耳を澄ませる。
《このたび、突如として北部へ降り注いだ“黒い雨”は、コイクォイたちの二次被害とあいまって、壊滅的な被害を各地にもたらしています。
われらがウルトラ市も、この災厄により困難をきたしておりますが、わけても深刻なのが、最大の被害を蒙ったチカラアリ地域です。
われらがウルトラ巫皇は、隣接するチカラアリ地域の艱難に、深い慈悲のお心をお示しになられております》
車体が揺れ、リンが身体を折り曲げる。だが、放送に夢中になっていたために、クニカはそのことに気付かない。
《巫皇臺下のご聖断により、ウルトラ市は、チカラアリ地域の難民を保護することとなりました。保護を求める避難民の方々におかれましては、ウルトラ当局が発行する難民申請証をご持参の上、市までお越しください》
「難民申請証……」
クニカの背筋が寒くなる。地球にいた頃の記憶がよみがえってきた。戦争で逃げ出した難民が、正式な許可を得られないまま立ち往生している――そんなニュースだ。
難民申請証がなければ、ウルトラに入ることはできない。
「リン――」
どうしよう――と、クニカは訊くつもりだった。リンに触れた瞬間、生暖かい感触がクニカの手に伝わってくる。
驚いて、クニカはリンを凝視する。リンの右の脇腹からは、おびただしい血があふれ、白いシャツは、真っ赤になっていた。リンの額には脂汗が浮き、苦しそうに、肩で息をしている。
フロントガラスに目をやり、クニカは青ざめる。ガラスにはひびが入り、中央には小さな穴が開いていた。
狙撃――。そんな単語が、クニカの脳裡をかすめる。
次の瞬間、向かいの建物で、何かが光った。
危ない――クニカが叫ぶよりも前に、力を振り絞って、リンがアクセルを踏み、ハンドルを切る。ライフルの弾丸が、クニカとリンの間をかすめる。弾丸は、ただ風を切っただけだというのに、クニカは首筋の辺りに、ひりついた痛みを感じた。
暴れ馬のようになって、車は市街を走り回る。どこからともなく、人の集団が走ってきた。
リンはアクセルを踏みっぱなしだった。ハンドルを切ることもままならず、車は市街の段差を飛び越え、下層の壁に激突する。
《ウルトラ市広報局より、チカラアリ地域からの避難民の方々にお知らせです》
ラジオの放送が、べスピンの市内に響きわたった。




