11_歩くような速さで(Анданте)
クニカが目を覚ましたときには、すでに陽射しは高くなっていた。身を起こしたクニカは、部屋にリンがいないことに気付く。
「リン?」
声は、部屋の静けさに吸い込まれていく。傍らには、食べつくされた練乳の空き缶が転がっている。リンの、緑のリュックサックはなくなっていた。
置いて行かれた――。そんな冗談を思いつき、冗談ではない気がしてきて、クニカは不安を覚える。立ち上がると、青色の肩掛けポーチを手に、クニカは部屋を抜け出す。
壁に手を添え、周囲の様子をうかがいながら、見知らぬ建物の中を、クニカは歩く。建物は何層かに分かれていたが、広い建物ではなかった。
壁の掲示物に気付き、クニカはこの建物が、下水処理施設の作業員の詰め所であると知る。階下に何かあるようだった。クニカはまっすぐ階段を降りる。
階段の踊り場には、窓があった。窓の向こう側には、森が広がっている。この建物は町外れにあるようだった。
森の緑の深さを見るうちに、クニカは気が滅入ってくる。これから先、いくつもの森や、川を越えて、“ウルトラ”を目指さなくてはならない。
階段を降りた先には、扉があった。扉は半開きで、向こう側からは音がする。隙間から、クニカは目を細める。リンがいて、部屋の中央の、車を眺めている。
「リン?」
部屋に入って、クニカは声を掛ける。振り向いたリンは、あァ、と、生返事をする。
「起きたんだな、おはよう」
「おはよう――どうしたの?」
「動かないかな、と思ってさ」
水道局の青い車を、リンはあごで示す。リンの言うとおり、エンジンを掛ければ、いつでも動き出しそうだった。
「エンジン、つけてみようか?」
「だな」
リンはうなずくが、視線はクニカに注がれたままだった。
「ねぇ、車に乗ったことある?」
車のドアを開きながら、クニカは尋ねる。
「いや。トゥクトゥクには、何回も乗ったけど。でも、運転したことはないな」
リンの答えは、クニカの想定の範囲内だった。この異世界のイメージが、クニカの頭の中で、次第に鮮明になっていく。自動車や、下水道。そういった現代的な文物も、この世界には確かにある。しかし、クニカの生きていた世界よりは、数十年、もしかしたら、百年近く遅れているようだった。
「で、動きそうか?」
「待って」
ドアは開いたものの、鍵は見当たらない。クニカは困ったが、ふとハリウッド映画のワンシーンを思い出し、ダッシュボードを開いてみる。案の定、鍵があった。
左足でクラッチを踏もうとしたクニカだが、足はかすりもしない。女子になって、背が縮み、足が届かないのだ――そう考えたクニカだったが、下を覗いてみれば、そもそもクラッチがなかった。
「昔の車は、みなマニュアル走行」だと思い込んでいたクニカにとって、ペダルが二個しかないのは不思議だった。それでも、父親の運転を思い出し、無駄に動きながらも、クニカは鍵を回してみた。エンジンの駆動とともに、車体が震える。
「やったな!」
外からは、リンの歓声が聞こえる。クニカが助手席の扉を開けると、ほとんど飛び込むようにして、リンは隣に座った。
「なぁ、クニカ、ちょっと進んでみてくれよ」
「分かった」
リンにせき立てられるまま、クニカはサイドブレーキを切り、ギアをドライブに入れると、アクセルをそっと踏んだ。
歩くような速さで、車は前へ進む。進路は、シャッターで塞がれていた。鼻先を、シャッターにこすりつけるか、つけないかという位置で、クニカはブレーキを踏んだ。
「すごいな。クニカ」
「そうかな?」
「当たり前だろ? 万々歳じゃないか。これで、ウルトラまで早く着けるよ」
ハンドルの質感が、みずからの手に迫ってきたように、クニカには感じられた。その瞬間、これまでの記憶が、混然一体となって、クニカに殺到する。ベランダから落ちたときに感じた、死への悔やみ。ショッピングモールで体験した、“黒い雨”の冷たさと暗さ。タミンが死に、タージェも死んだこと。しかしリンは生きていて、クニカも生きていること。リンから回された腕の、手の温かさ、リンの体温。
それぞれの記憶の瞬間で、死は間近にあって、しかしクニカは「生きたい」と思った。ロシア語が話され、キリル文字が踊り、しかし亜熱帯で、クニカの知らないキリスト教が進行されている、このあべこべな異世界で、しかし「生きたい」という自分の気持ちだけは、本心に由来するものなのだと、クニカはそう思った。
「あのさ、リン」
ハンドルを握り締める手に、力が籠る。
「わたしも……ウルトラまで、着いて行っていい?」
「当たり前だろ」
リンは言った。
「一緒に生きるんだよ。ひとりでできないことでも、一緒なら何とかなる。そうだろ?」
「ありがとう」
本当は、クニカはもっといろいろな言葉を言いたかったが、胸がいっぱいになり、それ以上のことは言えなかった。
「ありがとう……」
「なぁ、そのままシャッターに突っ込んでみようぜ」
「え……? いや、リン、ちょっと待って――」
「いいから、ほら――」
身を乗り出すと、リンはクニカの膝を押す。その弾みで、クニカはアクセルを踏み込む。「ぶうん」という音と共に、車の鼻面はシャッターに押し込まれ、とうとうシャッターは粉々になった。
「うっ?」
視界が開かれ、外からの陽射しが、目に飛び込んでくる。まぶしさに、クニカは思わず声を上げる。
「最高だな、クニカ」
リンはくしゃみをしていた。
「もう、最低だよ」
「フフフ……」
リンは愉快そうだった。そんなリンの横顔を、クニカもいつしか見つめていた。リンが笑っているところを、クニカは初めて見た。
「さぁ、行こう。ウルトラまで」
「うん!」
リンに促され、クニカはアクセルを踏む。
二人を乗せた車は、左右に揺れながら、ヤンヴォイの町を後にしていった。




