10_とりあえず今は(До Поры До Времени)
――この世は滅び、天もまた滅ぶだろう。死人たちは生きないだろう、生者たちは死なないだろう。(『トマスによる福音書』、第12-1,12-2節)
あの後、どうなったのか。クニカは思い出せなかった。天井からの雨の音に、クニカはふと意識が向く。いつの間にかクニカは、リンと手を繋いで、地上にある見知らぬ建物の、扉の前に立っているようだった。
リンは扉を、そっと開ける。ランタンの光が、部屋に投げかけられる。正面にある窓を、雨粒が叩いていた。コイクォイの気配はない。
中央のテーブルに、リンはランタンを乗せる。部屋は暗く、寒かった。椅子に座ると、膝の中に、クニカは頭を埋める。
「寒いか?」
クニカは首を振った。続けざまに、リンは何かを言う。クニカは聞こえなかった。
「傷、見せてみろ」
クニカの側まで椅子を寄せると、リンは、クニカの額を見る。
「痛むか?」
「うん……ちょっと」
「そうか……でも、すごいな」
「え?」
「もう治りかけてる」
額の傷に、クニカは指を触れる。しびれるように痛いだろう、そうクニカは考えたが、そこまで痛くはなかった。それどころか、既に薄皮も貼っているようだった。
「あんま触んなよ。とにかく、飯にしよう。そうだ、これ」
そう言うと、リンはクニカに、青い肩掛けポーチを差し出した。
「見つけたんだ。タージェといたときにさ」
タージェといたときに、何があったのだろう。そんなことを、クニカは考える。
「そんな顔するなよ」
リンは言った。責めるような口調ではなかったが、その気遣いに、クニカは潮が退いて、浜辺に取り残されるような気持ちを味わった。
緑のリュックサックから、リンは缶詰を取り出した。表面には、“сгущенное молоко”と印字されている。
「煮て食うんだ。キャラメルみたいになる」
水筒の水を携帯用の鍋に注ぐと、リンは魔法銃を取り出した。魔法陣のカートリッジを一枚、シリンダーから取り外すと、リンはそれにマッチを近づける。カートリッジに火がつくと、リンはそれを、床に転がっていたバケツに投げ入れた。
「ほら」
練乳缶の入った鍋を、リンはクニカの前に突き出す。
「やってみろよ」
鍋を手に取ると、クニカはそれを、即席のコンロの上にかざした。鍋の湯が沸くのを、二人は無言で待った。
◇◇◇
鍋から湯気が立ちのぼり、水の表面に、気泡が浮かびはじめる。
――どんなに絶望的な状況でも、助け合わなきゃダメだって。だれかを殺して、奪って生きるのなら、それは違うって。
クニカの頭の中では、タミンの言葉が渦を巻いていた。自分がタミンだったら、どのように考えるだろう? コイクォイに噛まれ、いつ自分もコイクォイになるか分からない。異形になって、兄を襲うかもしれない。
しかし、タージェに真実を話すことも、タミンには難しかっただろう。そう考え、クニカは、タミンが絶望と呼んでいたものは、実は孤独だったのだと気付く。
秘密を前にして、タミンにできるのは、それを抱えることだけだった。いつかは秘密に蝕まれ、終わりがやってくるだろう。それはタミンも承知の上だ。ただ、抱えている間は、日常を維持することができる。まだまだ生きることができる――。
「リン」
クニカは言った。テーブルに頬杖をついたまま、リンはクニカを見る。
「もしさ……私がコイクォイに噛まれていたら、どうする?」
頬杖をやめると、リンはクニカに向き直る。
冗談でもそんなことを言うな――リンに怒られるのを、クニカは覚悟した。しかしリンは、鍋を掴むクニカの手に、そっと自分の手を重ねる。
「リン?」
「ずっとこうしてるさ」
リンは言った。
「終わりが来るかもしれないけれど、それでも、こうする」
――どんなに絶望的な状況でも、助け合わなきゃダメだって。
タミンの言葉が、クニカの脳裏を反響する。
「安心しろよ」
リンは言って、クニカの背中を叩く。クニカは泣いていた。
「お前は死んだりなんかしないよ。オレがそうさせない。オレも死なない」
ありがとう、と、嗚咽まじりに、クニカは言う。
「さぁ、もういいだろ。食べよう」
「うん」
リンに促され、クニカは鍋を火からどかした。熱が退くのを待ってから、リンが缶詰めをナイフで切る。中の練乳は固まって、まさしくキャラメルのようになっていた。
広げた缶を皿代わりにして、リンはキャラメルを半分、クニカに渡した。
「食べよう」
「うん。いただきます」
その後二人は、無言のままキャラメルを食べた。口の中に広がる甘みを噛み締めながら、外でうなっている雨の音に、クニカは聞き入っていた。




