01_カゴハラ・クニカ君の一生(Жизнь Кагохара Куника)
――この言葉の意味を理解できる者は、死を味わうことがないであろう(『トマスによる福音書』、第2節)。
ベランダの鉄格子を乗り越えると、加護原 國香は、足下を眺める。
クニカの部屋は、マンションの七階にある。眼下には駐車場があり、車は豆粒ほどの大きさだった。
手すりに回した腕に、しぜんと力が入る。鉄格子の間に、左足のかかとを、クニカはしっかりとはさみ込む。
右足――は、クニカにはない。
クニカは今、命を絶とうとしていた。
二年生になった直後、クニカは事故に遭い、右足の切断を余儀なくされた。リハビリは長引き、留年が確定的になったとき、クニカは高校を辞めた。通信制の高校に通いはじめたが、友だちはできず、世界から取り残されてしまったかのような焦りばかりが、心に募った。
この日、クニカは眠れなかった。どうして眠れないのか、クニカ自身にもよく分からなかった。ベッドの上で、クニカは、何度も寝返りをうったり、身体をよじったりしてみた。いつもはクニカを眠りに誘ってくれるこれらの行動も、今日ばかりはむなしいだけだった。
眠れない夜を所在なく過ごすうちに、頭は無駄に冴えていく。いつしかクニカは、死について考えていた。死をえらぶ正当な理由を探すため、これまでの記憶を、クニカはおもちゃ箱のようにひっくり返していた。しかし、クニカが“正当な理由”だと思ったものは、つかまえたと思った瞬間には、指のあいだをすり抜けていってしまう。
そのとき、ベッドの下に落ちたまま、埃をかぶっていた学校からの雑誌を、クニカは見た。これは、クニカにとっては全くの偶然だった。
クニカが通っていた高校は、ミッション系の高校で、カトリックだった。クニカは、熱心な信仰があるわけではなかったので、飽くまで授業の一環として、教えは聞いていた。魂、肉体の復活――雑誌をめくるうちに、教わったことがよみがえってくる。
そのうちにクニカは、息苦しさを覚えた。世の終わりに、人間は復活などしない。もしそうだとして、欠けた足のまま、どうして復活しなければならないというのだろう? 復活したとして、何のために生きなければならないのだろう?
“愛することは、生きることです”
雑誌の中ほどには、そんな言葉がおどっていた。ベランダまで身を乗り出すまでのいきさつは、こんな流れだった。
クニカは裸足だったため、足場の冷たさが、じかに伝わってくる。その一方で、ベランダに出てからずっと、手は汗に湿っていた。
欄干から手を離した後のことを、クニカは想起してみる。身体は中空に躍り出し、自由落下を遂げ、石畳に吸い込まれ、叩きつけられるだろう。アスファルトに頬が触れた瞬間には、自分は死んでいる――。
そこまで妄想した、その矢先。夜の冷たい風が、クニカを横から押した。いつもは気にならないほどの強さの風だったが、クニカはもはや、事故前のクニカではない。片足だけで風に耐えるのは、想像以上に難儀だった。そのまま、覚悟も出来ないうちに足を踏み外してしまいそうな、そんな恐怖が心にせり上がってくる。地面の石畳が、急に自分に近づいてきたような心地がして、クニカの腕に力がこもった。
風が止む。クニカはため息をついた。このときにはもう、クニカの心は変わっていた。今はまだ、そのときではない。朝になってから、もう一度考えてみたっていい。これから着替えて、コンビニに行ったっていい。そのくらいはしてもいいはずだ。
部屋に戻るため、クニカは回れ右をしようとする。まずは上半身をよじって、とにかくフェンスにしがみつこうとする。
――クニカ、
そのとき、自分の名前を呼ぶ声が、クニカの耳に響いた。
クニカの注意力は、その声に向いてしまい――それがいけなかった。
「あっ――?!」
欄干にかけていた手が、汗で滑る。踏ん張ろうとしても、力をこめるべき足は、すでになかった。
地上めがけて、クニカは真っ逆さまになる。何千何万という記憶が、クニカの脳裡を通り過ぎていく。
死にたくない――クニカの目から、涙が出てくる。次の瞬間、アスファルトが目の前に迫り、クニカの視界は真っ暗になった。