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夢か現実か

 康一は目を開けて、見慣れた自室の光景に安堵した。

 自分の布団の上で寝ている当たり前のことが、今だけは幸せなことに感じる。

 本当に酷い悪夢だった。記憶に残る恐ろしい場面はまるで現実のように生々しかった。

 女性に肩を掴まれた感触が未だに残っているみたいだ。暑さのせいか寝汗がひどく、着ているTシャツが湿気て肌にまとわりつく。酷く喉が渇いていた。

 窓を覆った厚手のカーテンが、風によってなびいている。

 部屋の中は薄暗かったが、カーテンの布の隙間からもれる陽の光がとても眩しい。

 布団の中で寝がえりをすると、後頭部に鈍い痛みが走る。そっと手で頭をさすると、わずかに膨らんでこぶができていた。

 壁にかけてある時計を見ると、短い針は一時過ぎを指していた。

 そこで康一は違和感を覚える。自分の記憶は、一体どこまでが現実で、どこからが夢だったのだろうかと。

 それに自分はどうして布団の中で寝ているのか。横になった覚えが康一にはまるでなかった。

 全てただの夢だと、頭の痛みが言いきることを否定する。康一は漠然とした不安を感じて、無性に家族に会いたくなっていた。少しだるさが残るが、体を動かせることができる。康一は上半身を起こして布団から出た。

 その時にふと康一は自分の格好を見下ろして、服装が異なっていることに気付く。

 家族の誰かが変えたのだろうか。それに父と龍二は、家にいるのだろうか。

 康一は部屋の戸を開いて、廊下へ出ると居間へと足を向けた。

 窓から差し込む日差しは強く、だるさの残る寝起きの身体には厳しいものだ。

 湿度も不快なほどあって蒸しているようだ。開いている窓からは蝉の鳴き声ばかり聞こえてきて、肝心の入ってくる風は生温く、無いよりマシといった具合だ。

 ガラス越しに外を見ると、庭には大きな水たまりがあちこちあった。最後の記憶では雨が降っていたが、それは午後一時より後の時間だった。もしかして日付が変わっているのかと、その事実に思い至る。

 廊下の突き当たりまで来ると、居間に面したガラス戸と障子が全開になっていて、中の様子が丸見えだった。

 この家にはクーラーがなかったので、畳の上に置かれた扇風機が懸命に稼働して首を振っていた。

 家族が寛ぐこの部屋は、父によっていつも整えられていた。父は雑然としているのを好まないので、家具として置かれているのは食卓と戸棚、あとはテレビ台くらいで至ってシンプルである。

 この場所には父と弟が既にいて、二人は長方形の食卓を囲んで座りながら、康一に視線を向けていた。

 いつも姿勢の良い父は、正座して真っ直ぐ康一を見ている。

 身内の欲目を除いても、端正な顔立ちもあってその姿は清々しい。しかも結婚が早かったために三十四歳と、他の同級生たちの親と比べて若い。髪は耳に掛からないくらいの長さで、前髪はいつも左右に流すように上げている。すでに寝間着から着替えていて、未だに部屋着のままの康一とは大違いである。

 その父の向かいに座っていた龍二は、膝をまげた体育座りの恰好をして、後ろを振り返って康一を見ていた。

 父にそっくりな龍二は、トレーナーとジーンズを着て、こちらも今から出かけられそうな格好だ。

 康一は二人の注目を集めながら部屋に足を踏み入れる。

「康一、体調は大丈夫ですか?」

 父が先に話しかけてきた。

「うん」

 康一はとりあえず返事をして、そのまま居間を過ぎて台所へ向かった。水が欲しくてたまらかったからだ。

 食器棚からグラスを取り出し、水道の蛇口をひねって水を注ぐ。一息に飲み干して、深いため息をつく。

「”うん”って、本当に? 兄貴ってば昨日の夜、外で地面にひっくり返って倒れていたんだよ」

 後ろから心配そうな龍二の声がした。

 康一が自分から状況を尋ねる前に、龍二から話を切り出してくれて、内心有難かった。正直、自分の記憶に自信が無くなっていたからだ。鮮明なほどリアルで恐ろしい夢を見たので、落雷があったことや、倒木に巻き込まれそうになった事まで夢だったのではないかと思うようになっていた。

 龍二の話から、記憶を失った最後の状況に裏付けが取れて、曖昧だった記憶が整理される。

「夜に落雷があって、見回りに行ったんだ。そうしたら、うちで祀られているあの古い木が燃えていて、しかも強風でその樹が倒れてきて、危うく下敷きになりそうなって……。それで意識を失くしてしまったんだと思う」

 康一は自分で口に出しながら、まるで自分自身を納得させているように感じた。気を失った後、本当は今までずっと目が覚めず、怪しい女の夢を見たに過ぎなかったのだと。

「そうなんだ、何とも無いみたいだから良かったけど……。昨日の夜、お父さんと車で帰って来たら、家の中は真っ暗だし、焦げくさいし、兄貴は地面にずぶ濡れで倒れているし。兄貴、すごく冷たくて、まるで死んでいるみたいだった。だから慌てて夜間病院へ連れて行って診てもらってさ……。本当にすごく心配したんだよ、兄貴!?」

 龍二の最後の口調は厳しく、まるで睨みつけるように険しい表情を浮かべて康一を見ている。その気迫に押されて、思わず康一は口を噤んでしまう。

 康一だって好きで倒れた訳ではない。そもそも今回は不調が原因ではなく、不可抗力なものだと思っていた。

 ――そう状況を説明したのに、こんなに責めなくても。もしかして、すごく迷惑だった……?

 自分を理解してもらえない悲しみと不安が康一の胸の中に生じて、あっという間に精神的に追い詰められる。そして、家族に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになり、康一は何も反論ができなくなった。

「ごめん」

 康一がただ謝罪の言葉のみ口にすると、「龍二、そんなに怒っては康一が可哀想ですよ」と父が仲介に入ってくれた。

「べ、別に怒ってなんかないよ! ただ本当に心配しただけで……」

 父に言われた龍二は言葉を濁して気まずそうに言い訳していた。

 康一はグラスを台所の流しに置いてから、二人のいる居間へ戻り、そばに腰を下ろしてあぐらを組む。

「そういえば、いつから電気が復旧したの?」

「夜中ですよ」と康一の問いに父が答える。

「あと、危ないので落雷のあった場所には近づかないでください」

 康一は父の警告に素直に頷いた時、それに関してふと懸念を抱く。

「そういえば、雷が落ちた木って、うちで祀って大事にしていたんでしょ? 駄目になっちゃったけど大丈夫なのかなぁ……?」

「自然の災害によるものですから仕方がないことです。それにちゃんと対応しているから大丈夫ですよ。それより康一、お腹は空いていませんか? 康一が作ってくれた昨日のカレー残っていますけど、食べますか?」

 父の平然とした返答は、康一の気がかりをあっさりと解決する。それですっかり安心した康一は「うん、ありがとう」と父に勧められるまま食事をお願いした。

 返事を聞いた父は立ち上がり、台所へ向かう。

 父に食事の話題を振られて食べることを考えたら、急におなかが空いてきた。

 そういえば、昨日せっかく夕飯を作ったのに結局食べられなかったので、朝食も含めて二食分も食事を摂っていないことになる。どうりでお腹がペコペコだ。

 台所で父がカレーライスの用意をしてくれている。父が家にいるということは、今日は仕事が休みのようだ。父は警備員の仕事をしているが、勤務時間はいつも不規則で、変更も多い。だから康一は父の勤務日を完全には把握していなかった。

 康一がただ座って待っていると、目の前の食卓に父が食事を用意してくれた。

「いただきます」

 康一は両手を合わせて挨拶してからカレーを食べ始める。

「あ、いいな~。さっき食べたけど、おかわりしようかな」

「どのくらい食べますか?」

 龍二の声を拾った父が、台所から話しかけてきた。

「さっきの半分で!」

 結局、二人一緒に食事を済ませた。康一が二人分の食器を台所の流しに戻した時、父が「そういえば」と話しかけて来た。

「康一、塾には休むとすでに連絡しておいたから、気にせず今日は養生しなさい」

「塾のこと、すっかり忘れていたよ! 父さん、ごめんね」

 高い受講料を払ってもらっていたので、康一は塾を休むことなく通いたいと考えていた。それなのに始まってすぐに欠席することになり、父に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 警備員の仕事とは一般的にそれほど給料が高くないことを康一は知っていた。お金のやりくりで親が愚痴をこぼしているのを聞いたことがないが、決して裕福な家ではないはずだ。

 落雷によって貴重な一日が無駄になって、運の悪さに康一は意気消沈する。

「一上君、今の成績では志望校は厳しいよ。だから、別のところに変えたほうがいいんじゃないかな?」

 学校の個人面談で伝えられた先生の話を思い出す。しかし、康一はそれに素直に従えなかった。

「まだ願書の提出までに時間はあるし、秋の模試の成績で、また考えようか」

 志望校以外の高校は家から遠かったり、私立で学費が高かったりしていた。そのため、わざわざ父に無理を言って、普段は通っていない塾へ夏の間だけ申し込んでいた。

 そもそも成績が上がらない原因は、康一が体調不良で学校を休みがちなためだ。

 亡くなった母親が病弱だったので遺伝かもしれないが、康一は昔から体調が突然悪くなることがあった。頭痛だったり、腹痛だったり、たまには熱を出したりとその不調は様々。

 その原因はありきたりな風邪などではなく、医者に検査してもらっても全く特定できない不明のものだ。それでも今までは日常に支障が出る程でもなかったので、原因不明なまま治療せずに様子を見守り続けてきた。

 ところが、中学生になってから、起き上がることが困難なほど身体の具合が悪くなり、その頻度は増えていった。一年生の時は月に一度、二年生では週に一度、三年生の現在では週に二~三回といった具合に、度々学校を休んでしまうようになっている。その結果、授業についていけなくなって成績が悪くなるという悪循環に陥っている。

 先月末に助けを求めて病院で検査してもらっても、相変わらず原因が分からず対処のしようがない。

 これから夏休みの間、どれだけ休まずに自分が通えることができるのか、自分自身にも分からない。

 ――せめて人並みに健康な肉体がありさえすれば。

 勝手に具合が悪くなる自分の身体を、康一は恨めしく思わずにはいられなかった。



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