父の帰宅
驚いた事に、待ち構えていた衝撃は一つも襲ってこない。
康一がうっすらと目を開ければ、そこには女の後ろ姿が。康一を庇うように髪の長い女がいて、蜘蛛との間に割り込んで立っていた。よく見れば、女は蜘蛛の肢に腹部を無残にも貫かれている。
この状況から、女によって自分が助けられたことを理解した。
蜘蛛は肢を邪魔だと言わんばかりに振り払い、女は地面に投げ飛ばされる。
叩きつけられるように倒れたその人の顔に康一は見覚えがあった。以前康一の元に現れた、身体が透けていた女性――ミワだ。しかも、ミワは他の人間と同じように実体を持ち、全く違和感ない姿だ。康一の見え方がまた変わっていた。
「ミワ!」
康一は自分の視覚に戸惑いつつも、ミワの身を案じて思わず叫んだ。その直後、再び康一を襲おうとした蜘蛛はいなくなる。急いで駆け付けた龍二によって蹴られていたからだ。
龍二は康一を睨みつけると、「なんで出て来たんだよ! あんなに駄目だって言ったのに!」と怒鳴りつけてきた。その龍二の姿は、情けない事にパンツ一枚の下着姿だったが。
「いや、それより、ミワが!」
連続的に痛む頭部に耐えて、康一が倒れているミワを見れば、苦悶の表情を浮かべて見つめ返していた。そして驚く事に、康一が見守る中、腹に風穴がありながらも、ミワはむくりと身体を起こして立ち上がる。
「ミワは人間じゃないから大丈夫だよ! それよりも兄貴、急いでここから離れて! 蜘蛛の目的は兄貴なんだから!」
龍二の言葉に康一は動揺が走る。
その時、龍二の背後にある母屋の中から、こちらを凝望している和服姿の女性がぼんやりと目に映った。光源を背にして立っているので、暗くて顔までは見えない。だが、家の中にいるのは黒い人影だけのはずだが、そこにいるのは、ごく普通の人間に見えた。
女性、長い髪、和服と二人の共通点から同一人物であると判断できる。
急な変化に混乱しつつ、康一は黒い人影から預かった紙を思い出した。
「こ、これ……」
康一がズボンのポケットから紙を取り出して龍二に見せると、弟は怪訝な表情を浮かべる。
「何これ?」
と、龍二は疑問を口にした直後、紙を受け取って観察する。すると、その顔色はすぐに驚愕に変わる。
紙には、『火』と達筆な一文字が書かれているだけだ。
「これ、どうしたの!?」
龍二に問い詰められたので、「家の中に女の人がいて、その人が書いたものを貰ったんだ」と手早くその経緯を説明する。二人で再度母屋を見れば、その女性は既にそこにはいなかった。
突然、龍二が大笑いをする。このような緊迫した中で笑いだす龍二に、理由が全然見当もつかない康一は唖然とするしかなかった。状況に不釣り合いな態度に狂気すら感じてしまう。
「……ど、どうしたの?」
恐る恐る康一が尋ねた時、体勢を整えた蜘蛛がこちらに戻って来てしまう。
後退る康一に対して、不動のままの龍二。その手には康一から受け取った紙があり、蜘蛛に向けて提示していた。
「龍二、逃げないと!」
「兄貴は下がっていて!」
堂々とした態度で龍二は康一に言い放つ。弟は真っ直ぐ前を向いて蜘蛛をしっかりと捉えている。何か明確な目的があるように康一は感じた。
そのため、康一は龍二の言葉に従い、後ろに下がって距離を置く。その間にも、蜘蛛はさらに康一たちに近づき、目の前に立ちはだかる龍二に肢を伸ばして襲いかかってきた。
――ぶつかる!!
康一がそう思った瞬間、龍二の持っていた紙から、驚く事に真っ赤な炎が現れた。激しい炎が渦を巻き、まるで火柱のような激しい勢いで蜘蛛を襲う。その威力は猛烈で、大きな蜘蛛の躯体は一瞬で半分も焼き払らわれて、その後ろにあった植木まで黒焦げになっている。
焼け焦げた臭いが辺りに充満し、蜘蛛の化け物は地面に崩れ落ちる。
「あちちちっ!!」
あれほどの炎を生み出した紙は、役目を終えた後にそれ自身も炎に包まれていた。慌てて龍二に捨てられた紙からは火の粉が舞い、地面に落ちる頃には燃え尽きて真っ黒な灰になっていた。
「死んだの?」
康一と龍二の視線の先には、躯体を半分失ったまま動かない蜘蛛の化け物がいる。康一の質問に龍二は首を横に振る。
「いや、退治されたら存在そのものが消えるから、まだ油断はできない」
「そう、なんだ……」
龍二は険しい表情で蜘蛛を監視していた。
――でも、こんなに大ダメージを与えたのだから、蜘蛛の化け物はかなり弱っているはず。
戦いの終わりを待ち望む最中、黒い蜘蛛がピクリと動き出して、「あっ!」と康一は声を上げた。
蜘蛛の輪郭全体が歪み、溶けるように形を失くして地面に流れていく。それから、あっという間に一つの球体となり、そこから長い肢が何本も生え、頭部と胴体が作られて、徐々に蜘蛛特有の形状が現れ始める。そして、元よりだいぶ縮んでいたが、目の前に再び蜘蛛の化け物が現れた。
康一は赤い眼と視線が合った時、化け物の底知れぬ執念を感じて、畏怖を覚える。
「兄貴、紙もう無いの?」
自信に満ち溢れていた先ほどの様子と異なり、龍二が正反対の態度で尋ねて来る。康一は泣きそうになる気分を押さえて、「あったら、もう出してるよ……」と弱々しく答えた。
「……やっぱり?」
龍二の困った顔は、汗だくで疲れきっていて、とても頼りない。
「逃げるよ! 多分もうすぐなんだ!」
龍二は気合を入れた声を出すと、康一を抱き上げて走り始める。
――もうすぐって何が!?
龍二の俊足移動は震動が激しくて舌を噛みそうで、康一は訊きたくても口から言葉を出すことが出来ない。
蜘蛛がいる方向とは反対側に進むので、二人は玄関前の広場へ近づいていた。
足場の悪い場所へ戻る破目となり、不安が康一を襲う。そんな中、けたたましい車のクラクションの音が鳴り響いて、康一の耳に突き刺さった。
「やった、お父さんたちだ!」
龍二はその音を聞いた途端、立ち止まって歓喜の声を上げた。その龍二の視線の先には、閉ざされた門がある。
「父さんたちは、明日帰ってくるんじゃなかったの?」
康一の疑問に、「変更になったの!」と明るく龍二は答えると、再び動き出して二人は門の前に到着した。
康一を下ろした龍二が、閂を動かして開門すると、眩しいぐらいの光が康一たちを照らす。そこには停車している一台の乗用車があり、ヘッドランプの明かりが煌々と点いていた。
そして、ライトとエンジンを切った車から降りてきたのは、父と坂井だ。二人の姿を見た瞬間、康一は気が緩んで泣きそうになった。
「後は任せて下さい」
父は全て事情を把握しているのか、沈着な態度で康一たちに話しかけて、坂井と共に蜘蛛へ向かって行く。
その恐れも迷いも無い二人の後ろ姿が、とても頼もしい。
その後の二人の活躍は、目覚ましいものだった。
坂井の手から放たれた何枚もの白札。それは自ら光を放ち、意思をもったように空中を移動して、蜘蛛の周りを囲む。その札同士が光の糸で結ばれて、蜘蛛はその場所から動けなくなる。
不思議な戒めから逃れようと、蜘蛛の体や肢などが震えているが、敵わないといった感じだ。
その硬直状態の蜘蛛に、父が攻撃を加えていた。いつの間にか両手に光る剣を持ち、それで蜘蛛の躯体を削るように何度も薙ぎ払う。
まるで袋叩きだ。そのお陰で、蜘蛛の肢は粗方無くなっていた。
「龍二、父さんたち凄いね!」
康一は視線を父に固定したまま龍二に話しかけるが、返事がない。不審に思って振り返ると、そこにいたはずの弟は消えていた。康一が父たちの行動に気を取られている間に、どこへ行ったのか。
龍二の身を心配して辺りを見回すと、弟の姿を車庫近くで発見する。龍二は何か赤いタンクを持って蜘蛛の側まで近づいていた。そして、父の隣に立つと、蓋を開けてタンクの中に入っている液体を蜘蛛に勢いよく振り掛けていた。独特の臭いで、すぐに液体が何か分かった。
――あれは、ガソリン?
次に龍二はマッチの火を点けて、蜘蛛目がけて投げつけた。火は瞬く間に燃え広がり、勢いよく炎に包まれる化け物。
真っ赤に焼けていく黒い躯体は、みるみる黒焦げになり原形を失っていく。その崩れ去る中から、拳くらいの大きさの蜘蛛がいることに気付いた。蜘蛛の腹部にある鮮やかな花の模様。以前康一は自室の窓辺で見かけたことを思い出す。
「オノレ、アト、スコシ、ダッタノニ……」
か細い声が燃え盛る炎の中から聞こえて来る。あの悪夢と同じ恨めしそうな女の声。
――まさか!
偶然にしては重なり過ぎる記憶の合致に、康一は背筋が寒くなるのを感じた。
自宅周辺で異常なほど増えていた蜘蛛の数。そして、それとは反対に消えていった生き物の気配。この蜘蛛が裏で何か関わっていたとすると、全て納得がいくような気がした。
「アア、アツイ、アツイ、タスケテ!!」
響き渡る断末魔の叫びに同情する者は、この場にいない。
やがて、どのくらいの時間が経ったのか。
蜘蛛だったものは完全になくなり、地面の上に黒い焼け跡が残っているだけである。
あれほど龍二が苦戦していた敵は、父たちの予定より早い帰宅によって、簡単に倒された。
――終わったのだろうか。
そう感じて緊張の糸が切れた途端、一気に自分の不調が表面化する。周囲に充満する酷い臭いと、先ほどから続く頭の痛みに、康一の身体は限界を感じ始めていた。
意識が朦朧としていく中、康一はふらふらと父たちの傍へ近づいていく。
「父さん……」
康一の声に反応して、父が振り返る。
「康一!」
父の呼ぶ声が聞こえていた。しかし、康一の瞼は閉じようとしていて、その父の顔を見ることが出来ない。
沢山尋ねたいことがあったが、自分の意思に逆らって康一の両足は力を失っていく。
ぐらりと傾いた康一の身体を支えてくれる、力強い腕。康一はそれが誰か分からないまま、意識を失った。
それから、康一は夢を見る。
懐かしくて、温かくて、とても幸せな。
「よく頑張ったね」
優しい声と共に柔らかな手が、康一の額を撫でてくれる。それが誰なのか、康一にはすぐに分かった。久しく聞いてなかったのに、一瞬にして記憶が甦る。
――母さん。
気がつけば、康一の眦から涙が流れていた。




