選択
いつの間にか康一の横にいた人影はいなくなっていた。周囲を見回すと、人影は消えた訳ではなく、父の部屋にある机に移動して、そこで紙に何かを書いている。
こんな状況で一体何をしているのかと苛立ったが、すぐに龍二のことが気になり、康一は窓に視線を戻す。
この時に見えたのは、飛んでくる白い液体状なものから必死に逃げ回る龍二の姿だ。それは蜘蛛の大きな躯体から噴射されていて、次から次へと連続で周囲に撒き散らしていた。
幸い龍二に命中しなかったものの、地面に白い液体が残っていく。あれがかなり強力に粘着質なものであることを康一は思い出す。
家の前の敷地は広いと言っても、大きな蜘蛛と戦うためには少し手狭な感じだ。そんな状況の中、蜘蛛が吐きだす白い液体によって龍二の行動範囲が削られていく。
いくら龍二が俊敏でも、避ける場所が無くなれば、身動きが取れなくなって蜘蛛に捕まってしまう。
そう考えた時、康一は嫌な予感がした。
蜘蛛は液体を吐き出すのを止めて、再び龍二へ攻撃を仕掛けてきた。以前と違うのは、龍二の足場の悪さだ。さらに、溜まった疲労のせいか、逃げる動きが危なっかしい。
そして、康一が見守る中、とうとう龍二はバランスを崩して地面に転倒してしまう。最悪なことに、白い粘着質の液体の上で。
「龍二!」
康一は絶叫する。近づく蜘蛛から必死に逃げようとする龍二を、康一はただ見ているだけしか出来ない。
――いや、違う。
康一には分かっていた。本当はもう一つ選択肢があることを。
――自分が外に出て囮になれば、龍二が逃げ出す時間を稼げるかもしれない。
けれども、その行動に身の保証は全く無い。下手をすれば蜘蛛の餌食となり、命を落としかねないのだ。
だが、龍二は康一に家の中にいるよう何度も忠告していた。
――そうだよ。僕が外に出たら、龍二には都合が悪いんだよ。むしろ迷惑になるかもしれないんだ。
外出できない正当な理由があると、康一は自分自身を無理矢理納得させようとしていた。
蜘蛛の接近を影の動物が阻止しようと、懸命に蜘蛛の前に立ちはだかっている。ただ体格の大きさの違いが甚だしいため、その努力も虚しく、蜘蛛の肢によって簡単に往なされて遠くに飛ばされてしまった。
龍二の盾になって守るものは、何も無い。龍二は何度も立ち上がろうとしていたが、服全体に付いてしまった白い液体の粘り気が凄まじく、身動きは完全に封じ込めていた。
「なんで服を脱がないんだよ!」
すぐに対処方法に気付いた康一は、遠くから龍二をじれったい思いで見ていた。
状況は全く好転せず、このままでは龍二が危ないのは明白だ。康一が傍観を止めて助けにいくべきだと、良心が訴える。しかし、胸の内で様々な想いがせめぎ合う。
康一の視線の先には、巨大な蜘蛛の姿が。今まさに龍二のすぐ傍まで近づいていた。
――でも、外に出るなんて、そんな恐ろしいこと出来るわけがない!
「あっ……!」
康一の身体中に驚愕が走り抜ける。
この追い詰められた己の本音を聞いた時、康一は初めて自分の本性に気付いてしまった。
――僕って結局、自分の事しか考えていなかったんだ!
表面上は龍二の身を案じていながら、最後には自分の身の安全を何よりも優先してしまった。
一度そのことを認識してしまえば、自分がいかに弱い人間なのか、思い知らされた。
精神的に楽な方に、自分が傷つかないように、言い訳ばかりで誤魔化し続け、行動を選択してきた。
弟が悪い事をした時も、自分が嫌われたくないからと、気付いていても何も注意しなかった。
ミワとの会話を盗み聞きした時も、弟の話に聞く耳を持たなかったのは、結局康一の弟に対する不満や不安が爆発したせいだ。あの時、自分の怒りが最優先で、弟に全く気遣いがなかった。
康一はどんな時も相手より自分を優先して物事を決めていた。
そんな自己本位な性格に自分がなっていたなんて。認めがたい現実に、康一はただ衝撃を受ける。
――本当に助けに行かなくていいの?
康一の良心が再度囁きかける。このまま家から出なければ、龍二を助け出さなければ、皮肉な事に情けない自分が立派に証明されて取り返しがつかなくなる気がした。
何より、このまま弟が殺されて良い訳がなかった。
「龍二の手……」
康一は思い出す、先ほどの玄関での出来事を。龍二は安心させるように康一の手を握っていたけれど、弟の手は小刻みに震えていた。
――龍二だって本当は怖かったんだ!
それでも、龍二は康一を守るために行動を選択した。康一から酷い言葉を投げつけられたにも関わらず。家族なのに、肝心なところで弟を信用できなかった康一を助けるために。
「僕は、龍二に謝らなくちゃ……」
龍二を想い、やっと自分が何をすべきか決断する。
それからの康一の行動は速かった。父の部屋から自室へ向かい、そこにあったスプレー缶を持ち出して玄関に行く。そこで急いで靴を履いていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
康一が振り返ると、目の前には一枚の短冊のような紙があり、人影がそれを康一に向かって差し出していた。そして、人影は空いている手で外を指さしている。
「持っていけってこと?」
康一が意味を尋ねると、人影は頷いていた。それを確認して、康一は紙を奪うように受け取り、覚悟を決めて玄関の戸を開ける。
家と外界を隔てていた仕切りが目の前から無くなった途端、生温かい風が康一の頬を撫でて吹き抜けていく。
龍二は地面に倒れて身動きが取れないまま、蜘蛛の肢によって攻撃を受けていた。必死な形相で抵抗している弟の姿に、康一の頭は真っ白になる。
「龍二!」
康一の大きな叫び声が辺りに響き、蜘蛛が制止する。それから蜘蛛は康一がいる方へ躯体を方向転換させると、赤い眼の照準を龍二から康一へと切り替えていた。
蜘蛛の注意が自分に向いて身が竦むが、康一は気合を入れて再び口を開く。
「龍二、服を脱いで逃げるんだ!」
龍二は目が落ちそうなほど大きく見開いたと思ったら、次の瞬間には慌てて言われた通りに行動を始めた。
それに康一が安心したのも束の間、蜘蛛の注意が康一へ完全に向き、長い脚を動かして一気にこちらに迫ってくる。
康一の背後には玄関があり、敵に詰められては逃げ場を失う。しかし、既に門の前の広場は、龍二がいる上に、粘々な液体だらけ。
逡巡は一瞬のこと。康一は庭へ向かって全速力で駆けていく。その康一の後を化け物が追う。
離れと母屋の間にある庭は、木々がいくつも植えられている。そのため、躯体が大きい化け物には身動きしづらく、康一のような一般人でも比較的逃げやすい場所かもしれない。そうすぐに判断していた。
そして、手の中にあるスプレー缶。これは蜘蛛避けの薬剤だ。蜘蛛の化け物に効けばと、藁にも縋る気持ちで自室から持ち出した物である。貰った紙はズボンのポケットに仕舞いこみ、缶を持ち直して構える。
庭は坂井が日常的に手入れしている自慢な空間だ。これからこの大事な庭を荒らしてしまうことに康一は胸がチクリと痛んだ。
植木に手当たり次第に薬剤を散布しながら、康一は真っ直ぐ前に進む。そして垣根に回り込んで化け物から身を隠し、さらに自分の周囲にある枝葉に薬剤を散布した。
隙間から化け物を窺えば、庭に入る手前で歩みが止まっている。薬剤が効いているのかもしれない。そう康一がほくそ笑んだ時、「兄貴!」と絶叫する龍二の声が聞こえてきた。
暗くてはっきりと見えないが、無事に束縛から逃れた龍二が庭までやって来たようだ。
良かった――と康一が安心した次の瞬間、衝撃音と共に蜘蛛の化け物が吹き飛ぶ。しかも、それは康一がいる方角へ向かってくるではないか。
康一は安全な方へ身体を投げ出して、まさに這う這うの体でその場から逃げ出した。その直後、すぐ傍で震動が起こり、木々が薙ぎ倒される無残な音が聞こえた。
無数の枝葉が康一の上に降って来て、「うわぁ!」と反射的に情けない声を上げてしまう。慌てて身体を起こして蜘蛛の様子を確認すると、それは康一の目前に落下していて、赤い眼がちょうど康一を捉えていた。
恐怖が足元から頭の先へ駆け抜けて、康一は無意識に叫んでいた。
それから足が縺れそうになりながらも、必死に蜘蛛から逃げようと後退した時である。康一は足元を何かで引っ掛けてバランスを崩し、再び地面に転倒してしまった。
次の瞬間、凄まじい激痛が右の側頭部に走り、痛みで我を忘れるほどだ。周りをよく見ないで動いたせいで、すぐ傍にあった庭石に躓き、さらに同じように置かれていた石に頭を強打してしまったのだ。
意識が朦朧とする中、視界の端に棒状の影が映る。それは康一の脇腹をかすめて、もの凄い速さで突き刺さる。蜘蛛の長い肢が、康一を攻撃していた。さらに上から降り下されようとしている黒い肢が見えて、康一は死すら覚悟して目を瞑る。それと同時に、「ミワ!」という龍二の悲痛な声と共に、鈍い衝突音が耳に届いた。




