攻防
龍二だ――、そう思った途端、弾丸のように目にも留まらぬような猛スピードで、何かが康一の横をすり抜けてゆき、それは目前にいた黒い化け物と衝突する。
化け物は転がるように吹き飛ばされて、康一を捕えていた白い紐が化け物から切れた。
目を凝らして化け物に体当たりした人物を見れば、それは弟の龍二である。軽やかに地面に両足を着地させ、化け物と対峙している。
康一は唖然としながら、その様子を見守ることしか出来なかった。
龍二は康一を振り返り、その傍へ素早く寄って来た。その弟の表情は、とても険しい。
「りゅ」
康一が声を掛けようとした瞬間、近づいて来た弟によって強引に抱き上げられた。いわゆるお姫様抱っこの恰好で、康一を抱えたまま龍二は自宅へ向かって走り出す。
走るといっても、常識では考えられない程の速さである。
空間を切り裂くような速度で、一直線に突き抜けて行く。その衝撃と激しい揺れは、舌を噛みそうな程だ。康一は歯を食いしばり、振り落とされないように龍二に必死でしがみついて耐えた。
家にあっという間に着いて、龍二は玄関前で康一を地面へと下すと、有無を言わさず中へ押し込む。そして、玄関の戸の隙間から緊迫した顔を覗かせて康一を見つめた。
「絶対に戸を開けないで。外へ出ちゃ駄目だよ」
「お、おい!」
龍二の行動に戸惑い、康一は弟の服を咄嗟に掴む。まるで、龍二が化け物から康一を守ろうとしているからだ。龍二の矛盾した行為は、ただ康一を混乱させた。
複雑な表情をした二人の視線がぶつかった後、先に相好を崩したのは龍二である。龍二は無理矢理作ったような笑顔を向けて、自分の服を掴んでいる康一の手をやんわりと外すと、そっと握ってきた。
「大丈夫、俺が何とかするから! お兄ちゃんは、ここで待っていて!」
龍二に握られた手から伝わるのは、冷たい体温と僅かな震えだ。
よほど慌てていたのだろうか。康一への呼び方が『兄貴』ではなく、昔のように『お兄ちゃん』になっていた。
龍二は康一の手を離すと、素早く戸を閉めた。硝子越しに見えるのは、外から何枚も貼られてゆく長方形の白い紙だ。
「あと、一時間だから! 絶対に出ないでね!」
龍二は外で焦った様子で指図すると、玄関から遠ざかっていく。
「龍二!」
康一が叫ぶように弟の名を呼んでも、龍二は決して戻っては来なかった。
――絶対に戸を開けるな。外へ出るな。あと一時間。
玄関の土間で立ち尽くす康一の脳裏に、龍二の言葉が何度も甦る。
このような状況で、その意味を正しく理解出来る訳なかった。龍二はあの巨大な化け物から人間離れした動きで康一を助け出してくれた。弟は敵だと、少なくとも家に着くまでは、康一にとってそれが事実だったのに。
龍二と化け物であるミワとの会話は、二人が結託して康一を襲っていたのだと、そう思わざるえない内容だった。
ところが、新たな化け物の出現によって、その判断は正しかったのかと疑い始めている。本当の敵は誰なのか、正直なところ分からなくなっていた。
掛け違えたボタンのように、ちぐはぐな龍二の行動。自分の認識を一体どこで間違えたのか。あの化け物について事情を知っているなら、きちんと教えてほしかった。
――いや、でも。先に龍二の説明を拒否したのは、自分だ。
康一と言い合いした時に、事情を聞いてくれと懇願していた龍二。何故、あの時に弟の話に耳を貸さなかったのか。何故、すぐに弟が悪者だと決めつけてしまったのか。
康一は自分の思考と判断が果たして正確だったのかと不安になり、この時初めて根元が揺らぐのを感じた。
そして、誤解から生まれた自分の発言。それは龍二を酷く傷つける結果となっていたのでは。
あの時、康一の投げつけた言葉のせいで、泣きそうになっていた龍二。
その状況を思い出して、康一は自分が取り返しのつかない過ちをしたのではないかと、今更ながら後悔が襲ってきた。
「龍二……!」
龍二に謝らなくては――、その気持ちが頭を占めて、後先考えずに玄関の引き手に触れる。ところが、それと同時に後方から突然何か動く気配がして、驚いた康一は動きを止めた。
慌てて振り返り、その視線の先にいたのは、居間の入り口から顔を出している人影だ。
居間から明かりが漏れているが、その姿は黒い靄のように不明瞭でおぼろげだ。ただ、人型を模っているのは、見て取れた。
康一に注意を向けている怪しい存在。その出現に康一は息を飲んだ。
康一が人影を観察していると、それは長髪の持ち主だということが分かった。見えるのは影だけだが、頭部から垂れる毛の動きで判断できたのだ。
「もしかして、ミワ?」
人影は質問に何か答えている様子だったが、康一の耳には全く何も聞こえない。
「何を言っているのか分からないよ」
困り切って康一がそう呟くと、人影は身動きを止めた。康一の言葉に反応しているということは、話が通じているようである。
次に人影は何を思ったのか。右手を動かして、康一に向かっておいでおいでと手招きを始めた。
その人影の仕草に康一は注目する。空いている左手で右の袂らしきものを押さえていて、女性らしい淑やかな所作が見受けられる。そこから推測されたのは、その人影が和服姿の女性だということだ。
加えて、この和服の人影から想起されたのは、以前夜中に目撃した怪しい人影。あの時も長い袖が見えていた。
「来いってこと?」
康一がそう聞くと、人影は首を縦に動かして、問いかけに肯定している。
素直に従うべきか康一は悩んだが、すぐに答えは出た。龍二がこの家の中にいて欲しいと願っていたのだから、危険は無いはずだと結論づけたのだ。
康一が玄関から居間へ移動した時、そこには誰もいなかった。
慌てて人影を探すと、父の部屋の襖戸が開いていて、その中に立っているのが見えた。ちょうど窓際に佇んでいて、開いた障子から硝子越しに外の様子を眺めているようである。
父の部屋はちょうど玄関側の部屋なので、正面入り口の様子が分かるのだ。
龍二のことが心配だった康一は、急いで窓辺に近づく。父の部屋の窓にも、長方形の白紙が何枚も貼られていた。
自宅の門から母屋まで広がる敷地面積は、他の家庭に比べれば遥かに広い。恐らく学校の体育館ぐらいと同じくらいだ。正面奥には大きな門が構えていて、その左手には三台くらい余裕で入る車庫があり、反対側に進んだ先には離れ屋が建っている。
敷地内のあちこちに設置された照明が点いているお陰で、暗いながらも康一は様子を把握することが出来た。
龍二は母屋近くにいて、康一たちに背を向けて立っていた。その無事な姿に安心したのも束の間、開けっぱなしの門付近で康一を襲った蜘蛛の化け物を発見して息を呑む。ここから距離があるとはいえ、再び目にした恐怖の対象に康一は震え上がり、「龍二!」と弟の名前を咄嗟に叫んでしまった。
そして、思いも寄らないことは続くもので、次に康一の目が捉えたのは、二匹の動物の影だった。
蜘蛛の化け物よりも遥かに小さく、小柄な四本足の動物を思わせる影たちは、ちょろちょろと蜘蛛の足元を俊敏に動いていた。
体格は犬とか猫並みで、二匹とも尻尾らしきものが生えている。片方は細長く、もう片方は太くて長い。
この時、康一は思い出した。以前、家に忍び込んでいた二匹の人懐こい動物を。康一の呼びかけに応じた、猫の鳴き声そっくりな化け物を。
二匹は蜘蛛に近づき、肢で攻撃されたら少し遠くへ逃げる。それを繰り返して蜘蛛を敷地の中へ巧みにおびき寄せていた。
――でも、一体何がしたいんだ? 家に近づいたら、やばいんじゃないの!?
目的がさっぱり分からない康一は、ハラハラ心配しながら様子を見守る。
やがて、蜘蛛が門を通過して完全に敷地内に侵入してきた。龍二が動いたのはその時だ。それまで直立不動したまま様子を眺めていた龍二は、信じられない速さで動きだすと、蜘蛛の背後に回り込む。龍二の姿が康一から見えなくなった途端、後ろから攻撃を受けたらしい蜘蛛が、前方へとごろごろと転がっていく。
龍二はその隙に門を閉めて、さらに閂までかけて、外から開かないようにしていた。それから、長方形の白紙を素早く貼り付けている。
龍二たちの目的は、どうやら蜘蛛を敷地内に閉じ込める事のようだ。
蜘蛛を追い出して門を閉めれば、安全なのに――。そう考えたが、自分たち以外の他人が襲われる可能性もあることに気付いて、背筋がぞっと寒くなった。
龍二は康一を助け、周囲にも気を配り、勇敢に立ち向かっている。それに比べて、誤解をした挙句に龍二を怒りのまま罵った自分。
康一はあまりの情けなさに血の気が引いた。けれども、今は落ち込んでいる場合ではない。目の前では蜘蛛によって龍二が攻撃されている。
自分のために戦っている龍二を身守らなければならない。これ以上の愚行は重ねたくなかった。
素早い動きで龍二は相手の攻撃を避けていた。目の前で次々と披露される、龍二の超常的な身体能力。初めて知った事実に驚いたものの、事態の好調さの前では些末なことだった。
龍二の激しい攻撃を何度も蜘蛛は受けていて、その度に飛ばされたり、転がされたりしていた。その蓄積されたダメージによって蜘蛛は弱り、もうすぐ決着がつくはず。そして再び平穏が戻ってくると、希望を感じ始めていた。
しかし、ちぎれた肢が再生されて元通りになるのを見た時、康一は一抹の不安を覚える。
もしかして、蜘蛛に攻撃は効いているのだろうかと。
龍二を支援している動物の一匹が、青い火の球を何もない空間に生み出し、蜘蛛に向けて飛ばしていた。どうやら尻尾の太い動物は、不思議な力で火炎による攻撃ができるらしい。
炎が蜘蛛に命中した瞬間、蜘蛛の体は大きく痙攣して、その箇所が少し削られていた。
すると、今まで龍二ばかり狙っていた蜘蛛の標的が、火炎攻撃した動物へと瞬時に切り替わる。
他を見向きもしない蜘蛛による集中攻撃が始まる。龍二たちが間に入り、狙われた動物を庇っていたが、無残にも蜘蛛の肢によって串刺しにされてしまった。
地面に倒れた動物は、それから動かない。
「そんな……!」
残酷な光景に、康一は衝撃を受ける。
この蜘蛛の過剰なまでの反応から、化け物の弱点が火である確率が高いと推測されたが、肝心の攻撃が封じられてしまった。
再び蜘蛛の攻撃対象は龍二に戻り、平行線なままの攻防が繰り返される。その状況が続き、ただ時間だけが刻々と過ぎて行く。
――あと一時間。
康一は龍二の言葉を思い出す。しかし、時計を見れば、まだ時間は半分しか経過していない。
そんな中、徐々に変化が現れたのは龍二だ。激しい戦闘時間は、確実に龍二の体力を削り、疲弊させていた。身体中から汗が流れて、肩を上下させながら呼吸をしている状態だ。
その一方で、蜘蛛の化け物は変化が見られない。このまま戦いが続けば、圧倒的に龍二が不利になっていく。
怪しくなる雲行きに、康一の握りしめていた手は、汗でじっとりと濡れていた。




