友人宅
康一が向かった先は、井上のところだった。
彼の家は住宅街にあり、この一帯の区画化された宅地には沢山の家が並んでいる。井上とは小学生からの付き合いということもあり、康一にとってこの周辺は勝手知ったるものだ。
頭上に広がる、果てしなく澄んだ青空。その清々しさとは裏腹に、康一の胸の内には暗雲が広がり、暴風と共に土砂降りの雨が降り続いていた。
途中公園の近くを通りかかった時、植えられた樹木から、賑やかに鳴く蝉の声が耳にまで届く。雀や鳩も元気に活動していて、餌を探しているのか地面をくちばしで突きながら歩いていた。
久しぶりに感じる様々な生き物の気配。その一方で、何故自宅周辺だけが、まるで周囲から切り取られたみたいに静かな状況に置かれているのか。その奇妙さに改めて強く感じる。
やがて、井上の家に辿り着き、低めの柵に囲まれた二階建ての一般的な家の前に自転車を止める。庭には低木が所々植えられており、玄関ポーチへ続く階段に花の鉢が綺麗に並んで置かれていた。駐車場にはいつも見かける白い乗用車がなく、ぽっかりとアスファルト舗装された地面が見える。
康一はその家の玄関前に近づく。震える手を押さえながらインターフォンを押すと、「どちら様ですか」と聞き覚えのある女の子の声が返ってきた。
「一上ですけど」
「あ、先輩ですか、ちょっとお待ちください」
すぐに玄関の扉を開けてくれたのは、井上の妹の涼香だ。康一たちより一つ年下で、康一が在籍する美術部の後輩にあたる。
「先輩、いらっしゃいませ」
色白の涼香が、笑顔を浮かべながら康一を見つめている。切れ長の一重の目がさらに細まっていて、歓迎ぶりが伝わる。
「こんにちは」
康一が未だに治まらない動揺を抑えながら挨拶すると、涼香はわずかに頭を下げた。彼女の普段と変わらない様子を見て、康一はやっと安堵を覚える。
「こんにちは、先輩。兄なら上の部屋にいますので、どうぞ」
井上の家にはよく遊びに来ているので、家の中の部屋の配置はほとんど分かっていた。
二階にある井上の部屋前まで行き、扉をノックして「一上だけど」と言うと、部屋の中から「どうぞ」と声がする。
康一がドアを開けた途端、エアコンの涼しい風が身体を撫でた。
視界の先には井上がいて、学習机の椅子に座りながら戦車のプラモデルを手にしていた。
井上の部屋には、戦車を始め、ゼロ戦や戦艦、戦闘用の乗り物などのプラモデルが沢山ある。そして、本棚にぎっしりと並んでいる、第二次世界大戦などの戦争に関した書物。
井上の自室は、彼の趣味で埋め尽くされている。
約束の時間より早くやってきた康一を井上はごく普通に迎え入れてくれた。けれども、「早いね、どうしたの?」と井上に訊かれたので、「弟と喧嘩しちゃって、家に居づらくなって……」と本当のことを話せず康一が曖昧に答えると、「へー、珍しいね!」と心底驚かれた。
康一が部屋に敷かれている絨毯の上に腰を下ろすと、井上はプラモデルを机の上に置きながら
「一上からそういう話を聞くの、初めてかも」と呟いた。
「そうかな……?」
井上にしみじみとそう言われたので、康一は思い返してみる。その結果、確かに井上の言う通り、該当する記憶が無くて、すぐに納得してしまった。
康一は遠慮ばかりして、喉元まで出かかった台詞をいつも呑み込んでいた。今まで相手に何も言わなかったから、喧嘩なんて起こるはずもない。
それなのに、今日という今日は思いっきり感情のままに叫んでしまった。相手が悪いとはいえ、何となく後味の悪いものが康一の中に残っている。
「俺はよく涼香とくだらないことで喧嘩するし、上田も妹の愚痴をよくこぼしているけど、一上は家族のそう言った話をしないなぁって思っていたんだ」
「……うん、そうだね」
井上は康一の家庭の異変に気付いていないまでも、何かしら違和感はあったようだ。
「だからさ、今日はちょっと安心した」
「え、安心?」
井上の言葉に康一は面食らい、思わず訊き返してしまった。
「なんか一上って、家族に遠慮しているところがあったからさ。喧嘩したってことは、相手と衝突したってことだし。少しは本音を言えたのかなって」
「あ、うん……。そうだね……」
井上の言う通り、確かにお互いの不満をぶつけ合って衝突した。
――でも、井上の家とは違って、もう修復不可能なんだ。
井上の優しい心遣いに応えることができず、康一は少しだけ申し訳ない気持ちになった。
それから康一たちは井上の部屋に滞在して、二人で絨毯の上に座り込み、ゲームをしていた。
その時、部屋のドアをノックする音が聞こえて来た。
「涼香だけど」
「うん、入っていいよ」
井上が答えると、涼香が飲み物とケーキをのせたお盆を持って入ってきた。黒っぽいケーキはチョコレートのようだ。
「これ、涼香ちゃんが作ったの?」
「そうですよ」
康一の質問に涼香は答えてくれた。涼香の趣味はお菓子作りと占いで、兄妹揃って趣味人である。
康一が井上の家に遊びに行くと、必ずと言っていいほど涼香は作ったお菓子でもてなしてくれた。
「チョコレートケーキだよね? これもまた美味しそうだね」
「どうぞ、召し上がってください」
「うん」
せっかく持ってきてくれたのだから、すぐにお皿とフォークを手にとって一口食べると、ビターなチョコの味が広がる。
さらに口の中で甘いベリー系の木の実の風味がアクセントとして活かされていて、とても美味しい。
「美味しいね。中に何が入っているの?」
「ブルーベリーのシロップ漬けですよ」
「へー、涼香ちゃんは本当にお菓子作りが上手だね」
「うふふ、まだ沢山ありますから、よろしかったらどうぞ」
涼香の顔は得意げに微笑んでいる。井上はそんな妹を見つめながら自分もケーキを食べ始めていた。
「そういえば、上田先輩なんですけど、今日は来ないんですか?」
涼香が尋ねてきたので、「来る予定だけど……」と、康一は答えながら時計を見る。既に約束の時間から十五分は過ぎていた。
「あいつは約束の時間を滅多に守らないからな」
井上がケーキを頬張りながら呟いたので、康一はその台詞に苦笑する。
上田の遅刻は、散々注意しても治りようがなく、もはや常習犯である。予測通り、集合時間より三十分くらい過ぎて、上田がやっと現れた。
「ごめん、ごめん~。今やっているゲームが、なかなか区切りまで終わらなくて!」
上田は顔面に流れる汗をタオルで拭くために、一時的に眼鏡を外していた。着ているTシャツも汗で湿っている。
「あれ? 一上、負けてるじゃん!」
着いた早々、テレビ画面を見た上田が状況を読みとったらしい。
「そうなんだけどさ~。うーん」
結局、康一は負けてしまい、「また俺の勝ちだな」と、井上がにやりと笑った。
康一は上田にゲームのコントローラーを譲り、井上たちがプレイを始める。その二人の対戦を康一は傍らで見守っていた。
他愛のない話をしながら、和気あいあいとした雰囲気を共に過ごす。久しぶりの居心地の良さに康一は喜びを感じずにはいられない。
憂鬱な気分が薄らいで、自然と口許が綻んでいた。
「一上、何ニヤニヤしているんだよ」
そんな康一の様子を上田に気付かれて茶化されてしまう。
「ニヤニヤじゃなくて、せめてニコニコって言って欲しいな……」
苦笑しながら康一がそう言い返すと、友達の楽しげな笑いが部屋の中に響き渡った。




