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墓参り

 翌朝、康一はけたたましい音で目が覚めた。始めは意識が朦朧としていて、何が騒がしく鳴っているのか分からなかったが、やっとその正体を思い出す。

 持ち主を起こそうとしつこく鳴っている目覚まし時計は、勉強机の上に置いてあった。康一はやっとの思いで立ち上がり、時計のスイッチを押す。一瞬で静かになった部屋の中で康一はため息をついた。

 昨日は家屋周辺に異常発生した蜘蛛対策をしたせいで、考えていたより疲れていたようだ。井上から蜘蛛避けのスプレーがあると聞いたので、ホームセンターで購入して実際に使ってみたのだ。

 ここ数日ほど廃屋かと思ってしまうくらい、蜘蛛の糸があちこちに掛かっていて酷かったからだ。

 康一は憂鬱な気分で、身支度を整え始める。今日は墓参りの日。いつもと少し気構えが違っていた。

 お昼前に父が運転する車で家族全員は外出して、近所のレストランで昼食をとった後、郊外にある墓場の駐車場に到着した。

 一斉に車から降りて、砂利が敷かれた地面の上に足を着ける。エアコンの快適さが無くなり、蒸し暑い不快なものへと環境が急激に変わる。今日は曇り空とはいえ、車内で楽をしていた身体には急激な温度変化は辛いものだ。

 道路を挟んだ向こう側にある雑木林からは、賑やかな虫の声が聞こえている。それを背景音楽にして、康一たちは無言で自分たちの家の墓へ向かう。

 お盆の時期なので、自分たちと同じようにお参り目的の家族連れを何組も目撃した。

 先頭は父が歩いており、その後を追う形で龍二と康一が続いている。隣を歩く龍二が手にしているのは、ろうそくなどが入った墓参りセットだ。スーパーのビニール袋に入っており、歩くたびにビニールが擦れる音がしている。

 墓地に入ると雑草が生えたむき出しの地面が続いており、足音が急に静かなものに変わった。

 お墓参りの時、父はいつも言葉少ない。それに倣うように、龍二と康一もここではいつの間にか会話を控えるようになっていた。

 今も何も話さずに歩く父の背中を見ながら、康一は母が亡くなった時を思い出していた。

 自分が六歳になる直前の冬だった。

 母は風邪をこじらせて、呆気なく亡くなってしまった。症状が重くなって病院へ緊急で運ばれた時には、既に手遅れだったらしい。

 もともと虚弱体質で呼吸器系が弱かったため、疲労が溜まるだけで咳をしていた母。数日前まで元気だった母が急にいなくなり、我が家は一変した。

 父がおかしくなってしまったのだ。仕事で数日留守にしていた間に起こってしまった母の不幸を、父は受け入れることができなかった。

 仏壇に飾られた遺影と遺骨の前で、ただ座り込む日々が続いた。日にちが経つごとに髭が伸び、髪も乱れたままで、段々と無精な姿になっていく父。

 食事すらまともにとらなくなったので、頬が痩せこけていった。

 何もせず母の遺影を見つめて、無表情なままずっと座っている光景は、幼心にも恐ろしかった。

 最初は父の気を何とかひこうと、話しかけたり膝の上に乗ったり抱きついたりしたのだが、何も反応を返してもらえず、やがて何をしても無駄なのだと諦めるしかなかった。

 それからは襖戸の隙間から覗いて、父の様子を観察するだけの日常が続いた。

 母がいた頃は賑やかだった広い屋敷の中は、糸を張り詰めたように静かになり、空気すら重く感じるようになっていた。

 まるで、母と一緒に父まで亡くなってしまったようだった。

 康一たちの世話は、時々様子を見に来てくれた坂井夫婦がしてくれて、日常生活にはほとんど不自由はしなかった。

 再び幼稚園に通うようになっても、家にいる父と龍二のことが気になって、早く帰りたくて仕方がなかった。

 まだ事情を理解できない龍二は、いつものように遊んでと康一にまとわりつき、両親の分まで自分が相手をしなくてはと、責任を感じるようになっていた。

 康一は龍二を連れて家を出て、よく敷地の庭で遊んだ。家には父がいるので、騒いで邪魔をしてはいけない気がしたのだ。

 この頃、四歳だった龍二はとてもやんちゃだった。危ないことを平気でするので、いつも注意していないと、何をしでかすか分からないくらいだった。

 大人の代わりに自分が面倒をみなくてはと、駄目と怒って注意しても、兄のいうことなんてほとんど聞いてくれず、徐々に弟の世話が重荷に感じるようになっていった。

 ある日のことだ。いつものように庭で龍二と遊んでいたとき、何度も康一が駄目と言っても、龍二が駄々をこねて言うことを聞かないことがあった。それで、ついに堪忍袋の緒が切れてしまったのだ。

「龍二なんか、もう知らない!」

 康一はそう怒鳴り、走ってその場から逃げて、垣根の後ろに隠れてしまった。後ろから龍二の鳴き声が聞こえていたが、それを振り切ってしまった。

 小さい子供の康一には限界だった。父は変貌して大変な状態だと言うのに、弟は康一の気持ちなんてお構いなしにわがまま。辛くて堪らず、思わず母が生きていた頃を思い出さずにはいられなかった。

 ――母がいてくれれば。

 無性に母のことが恋しくなって、康一まで泣き出してしまった。

 しばらく康一を呼びながら泣く龍二の声が聞こえていたが、やがて泣き止んだらしく周囲は静かになった。

 最初は龍二が悪いせいだと怒っていたものの、弟の声が何も聞こえなくなると、今度は何をしているのか心配の気持ちが大きくなり、急に康一の頭は冷めていった。

 龍二の名前を呼びながら弟が先ほどいた場所に戻っても、既にそこには姿はない。一体どこに消えたのかと、不安になって康一は再び泣きそうになった。

「龍二、どこにいるの?」

 広い庭の中をあちこち探すが、こういう時に限ってなかなか見つからない。玄関を見ても龍二の靴はなく、家の中にはいないのが分かっただけだ。

 とうとう康一が最後に向かったのは、敷地の奥にある古木だった。天まで突き刺さるかと思うほど真っ直ぐ伸びた木の元へやってきた。

 頭上から声がしたので康一が仰ぎ見ると、そこにはどうやって登ったのか。瞳に小さく写る龍二は、遥か上方の枝に立って自分を見下ろしていた。

「龍二、危ないから降りて!」

 落ちたら無事では済まない大変な高さだったので、康一は早く木から下りて欲しい一心でそう叫んでいた。

「おにいちゃん、怒ってない?」

 不安そうに康一を見つめている龍二。そんな弟の表情は、亡き母の言葉を思い出させた。

 龍二はまだ小さいからお兄ちゃんが沢山色んな事を教えてあげてね――、と常々言われていたのだ。

 ――龍二はまだ小さいから、わがまま言っても仕方が無かったのに。

 何であんなに怒ってしまったのだろうと、康一は龍二に対して申し訳なくなっていた。

「怒ってないから、下りておいで」

 康一が優しく言うと、龍二は安心したみたいで嬉しそうに笑った。仲直りできて良かったと康一が安心した直後、龍二がとんでもないことを言い出す。

「おにいちゃん、りゅうじ、ここから飛び降りるんだよ!」

「え?」

 康一は龍二の言葉に血の気がひく。樹の上から飛び降りることがどんなに危ないことか、幼い龍二は分かってないのだ。

「駄目だよ! 登って来た時と同じように、木につかまって降りなきゃ!」

「見ててね~」

 康一の慌てた様子を気にせず、龍二は手を振って機嫌よく答えた。

「駄目だって!」

 康一の必死の制止の叫び声と、龍二が飛び降りたのは同時だった。この瞬間、康一の頭の中をよぎったのは父のことだ。

 ――もし弟まで大変なことになってしまったら、父はどうなってしまうんだろう。これ以上、おかしくなってしまったら。

 今よりも最悪な状況を康一は受け入れられそうにもなかった。

 ――だから自分が龍二を受け止めなくては。

 龍二に向かって必死に体を動かす康一。不思議なことにこの時の感覚は一時的に鋭敏になり、スローモーションのように落ちてくる龍二の姿を捉えていた。

 この時、自分がどうなるかなんて考えもしなかった。

 体の上に龍二が落ちてきた瞬間、想像を絶する衝撃が体を襲う。小さい自分の体で弟を支えきれる訳もなく、弟と一緒に地面に勢いよく倒れた。

 康一の意識はそこから無い。

 次に目を再び開けた時、康一は病院のベッドの中にいた。そして、何より驚いたのは、そこに父がいたことだ。康一の名前を呼ぶ声を聞いても、にわかに信じられない位だった。

 思わず起き上がろうとして力を入れた次の瞬間、上半身に激痛が駆け巡り、そこで初めて自分が怪我をしていることに気付いた。

「まだ体を動かさないでください、康一」

 久しぶりに視線を合わせた父は、痩せていて髪や髭は伸び放題で、無精な姿のままだったけれども、目だけは以前と同じ優しいものだった。

 康一の目から涙がどっと溢れて、感極まったのを覚えている。

 ――父が戻って来てくれた。

 このことをどんなに待ち望んでいた事か。次から次へと涙が頬を流れて、声をあげて泣いた。嗚咽が漏れるたびに胸がずきずきと痛んだが、この時ばかりはどうしようもなかった。

「康一、痛いんですか?」

 父は痛くて泣いていると思ったらしい。確かに胸は痛むけど、それが原因で泣いているわけではない。色んな想いを説明したかったが、口から出るのは泣き声ばかりで、首を横に振るだけしかできなかった。

 以前のように優しい父が戻ってきてくれた。きっと自分が怪我をしたために、父は心配で来てくれたに違いない。

 自分がこんな痛い目に遭ったのも、全部父が元に戻るために必要なことだったんだ。そう思えばこそ、康一は今日の出来事に感謝した。

 康一が退院して、元の生活に戻った後、父は母が亡くなる前のように働きに出るようになった。

 母がいなくて寂しかったけれども、父が母の分まで頑張ってくれるようになり、家の中は康一にとって再び落ち着く場所になった。

 ――でも、この頃から急に龍二が僕に対してよそよそしくなっていったんだ。

 康一は地域の幼稚園に通っていたが、龍二はどこにも通うことはなかった。その代わり、父が職場に龍二を一緒に連れて行っていた。

 龍二は離れ屋によく遊びに行くようになり、康一と一緒に遊ぶ機会は減っていった。そして、康一の体調不良が酷くなるにつれて、どんどん家族のお荷物になっていった。

 康一を助けてくれる龍二を目撃した人から「家でも仲が良いんでしょう?」と訊かれても、決して仲は悪くはないから否定をすることはなく、「喧嘩なんてするの?」と訊かれても、喧嘩するほど一緒に居る訳ではないので否定の返事をすると、「やっぱり仲が良いのね」と結論づけられる。

 龍二が康一を世話してくれるのは、ただ単に”家族”だからだ。

 気付かない内に溝が広がり、その底は深くなっていった。

 あの時、康一は父を取り戻した代わりに弟を失ってしまったのか。

 その答えが空を覆う灰色の雲の中の向こうにあるように、自分には手が届くはずもないと、康一は始めから何もかも諦めていた。



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