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 木曜日の朝、けたたましい目覚ましの音で康一は起こされた。いつもなら、燃えるごみの日はカラスの鳴き声によって、一度は安眠を妨害される。それなのに、全く気付かず今まで熟睡していた。そのことに康一は驚いた。生まれた時からここに住んでいるが、こんなことは初めてだ。

「でも、カラスの鳴き声に気付かなかっただけかな? 昨日は寝るのが遅かったし……」

 それよりも、今日も化け物に寝込みを襲われなかったことに康一は安堵する。このまま平穏が続けばいいと強く千切れるように願った。

 体調が安定しているお陰で勉強に専念でき、遅れていた部分の理解が深まる。夏休み当初の受験への危機感が、段々と解消されていく。

 何も不調を感じない。この久しぶりの感覚が何より嬉しい。そしてなにより、塾にいる間は、家で起きている悩みを忘れることができた。

 こうなると、塾の講義が終わった後に家へ帰らなければならないことが、最近一番の悩みだ。


「一上の調子、最近良いみたいだね」

 塾の教室でお昼休みに井上と一緒に昼飯を食べている最中のこと。井上に康一の体調の変化を指摘された。

 長机の上には、康一のコンビニ弁当、井上の家から持参してきた弁当が置かれていて、二人は仲良く並んで座っていた。

 康一の隣に座る井上は、骨格自体が少し細く、余分な肉が全くついてない、ひょろりとした感じの体形の持ち主だ。視力が悪いので常に眼鏡を愛用し、目がはっきりとした一重だから第一印象は神経質そうな印象を与える。けれども、話せば気さくで人当たりが良く、康一は彼の穏やかな性格に何度も救われている。

「うん、そうなんだよ。いきなり普通に戻ったみたいで」

「今年は一緒に祭りに行きたいし、このまま元気だといいな」

「うん、そうだね。ほんと、去年は行けなくて残念だったなぁ」

 毎年近所の神社で開催されるお祭りに、井上たち友達と一緒に遊びに行っていた。しかし去年は体調不良で康一は不参加だったのだ。

 氏子ではないので、実際に神社で行っている神輿などの行事には参加していないものの、通りに並ぶ縁日を目当てに足を運んでいた。

 昼食が終わってゴミを捨てに行く途中、同じ教室にいた他の塾生たちと目が合った。椅子に座っている女子三人が、盗み見るように康一に視線を送っていたからだ。

 彼女たちの顔に見覚えがないのに、そんなに注目される理由が思いつかない。康一を見る彼女たちの目つきが決して友好的ではなかったので、嫌な印象として残ったが、すぐに彼女たちから目を逸らしてゴミ箱へ向かう。何となく後味が悪く、引っ掛かるものだった。

 それから何事も無く一日が過ぎ去り、週末の金曜日になる。

 塾へ行くために自宅の玄関から外へ出た康一は、あたりの様子に何か不自然な物足りなさを感じた。しかし、その違和感は何なのか、それを明確に説明できるほど把握しきれない。

 まだ午前中とはいえ、夏の晴天の日差しはすでに厳しいものになっている。微かな風が木々を揺らし、葉が擦れる音が耳に届く。康一以外に他に気配がなく、他に物音はしない。その静まり返った周囲から、異様な不気味さが迫ってくるみたいで落ち着かなかった。

 康一は車庫に向かって無意識に足早で歩き、そこから自転車に乗って家から出て行く。運転しながら自転車のハンドルに張られた蜘蛛の巣を取り除くのは、もはや日課である。

 自宅がある山を下り、いつものように塾へ到着する。周囲の賑やかな音がとても喧しく、厳しい暑さが余計に辛く感じてしまう。建物の脇にある駐輪場に自転車を止めてから、康一はやっと先ほどの違和感の原因に気付いくことができた。

 こんなにいい天気なのに、家では何も鳴き声がしなかった。

 市街地にある塾では、盛んに蝉の鳴き声が辺りから聞こえている。そして、鳥のさえずりや他の生き物の気配も。

 山の中にある自宅では、蝉が生息する木々がたくさんあって、いないなんてありえない。それなのに、あの静寂は一体なぜ起こったのか。

 康一は嫌な予感がして仕方がない。これからどんな不吉なことが起こるのか、全く想像したくなかった。


 康一が不安を抱えていても、塾の講義はいつも通り終わった。来週いっぱいまで夏期講習は連休となり、塾にはしばらく訪れる予定はない。

 井上と一緒に教室を出て、建物の入口に向かって階段を下り始める。すると、更に階下の方で歩きながら会話している女子たちの声が、康一たちのもとまで届いて来た。

「龍二のお兄さんが、毎日塾に通っているってどういうこと?」

「結局仮病で学校サボってたんじゃない?」

「由里も可哀想だよねー。そのお兄さんのせいで別れる破目になって」

「たいぶ文句言ってたよね。龍二が自分よりお兄さんを優先するって」

 彼女たちの会話の内容から、康一の事が話題になっていることに気付く。頭の中が真っ白になるが、それでも足は自動的に動き続けて階段を下りる。気付いたら建物を既に出ていて、駐輪場に着いていた。隣にいた井上も無言のままだ。康一が自分の自転車の側に寄った時、「一上」と井上が声を掛けて来た。見つめた彼は康一に対して気遣わしげな表情を浮かべている。

「あんな会話気にするなよ。俺はちゃんと分かっているから、本当に具合が悪い事」

「……うん、ありがとう」

 康一を見つめる井上の目は、優しさで満ちていた。

 彼がいてくれて良かったと、康一は心の底から思った。

 思わず下を向いて唇を噛みしめる。そうしなければ泣いてしまいそうで、「またな」と挨拶してくれた井上に対して、手を振るのが精一杯だった。

 本当は家で起きている怪異のことも井上に相談したかった。彼ならきっと自分のことを理解してくれる。そう思う半面、やはり最悪の事態を想定してしまうと、軽々しく話すことは出来なかった。

 ――数少ない友達を失いたくない。

 それから康一は自転車に乗って、あの怪異に支配された自宅へと戻らなければならなかった。

 脳裏に浮かぶのは、塾で耳にした女生徒たちの会話だ。龍二が彼女と別れたのは、康一が原因だったらしい。重苦しい感情に潰されそうになりながらも、康一は自転車のペダルを漕ぎ続ける。

 自分の体調が悪いせいで、龍二に迷惑を掛けている。そして、龍二の友人たちから、それが原因で康一は責められている。偶然立ち聞きしてしまった会話が脳裏で甦る。意図的ではなかったにせよ、彼女たちに悪意をぶつけられ、康一は打ちのめされていた。それは康一の存在すら消し去ろうとする。自分でも改善できない状況をどうすればいいのか分からず、辛い気持ちだけが胸の中に増えていく。その時、康一の中で恐ろしい考えが一瞬過ぎっていた。

 ――龍二さえ、いなければ。僕はこんな目に遭わずに済んだのに。

 自分自身の醜い感情に康一は震えあがった。必死にそんなことはないと、思考を振り払った。

 やがて自転車は自宅のある山道に入り、砂利が敷き詰められた暗い通りを突き進む。周りを木々で囲まれているので、陽が傾けば一層光量は遮られて視界は悪い。この鬱蒼とした雰囲気は、まるで自分の心境そのものに思えた。

 重苦しい気分に浸っていると、突然木々の奥から何かが動く音が聞こえてきて、康一は足を思わず止める。慌てて振り向けば、一瞬だけ動く赤い光が見えた気がした。

 不審なものを見た方角を必死に見回したが何も見えず、何かがいる気配も感じない。

「気のせいだったのかな……?」

 康一は腑に落ちないものを感じながらも再び前進してゆく。そして、とうとう目の前に現れたのは、住み慣れた我が家だ。自転車を止め、ペダルから自分の足を地面に下ろして、この自分の住処を見つめる。

 その時、康一が気付いたのは、家の側を走る黒い獣の影だ。康一から遠ざかっていき、すぐに物影に隠れてしまった。

 康一は獣が消えた方角を強い目つきで見据えたものの、すぐに顔を伏せて自転車から降りた。

 明日から家で過ごすことになるが、果たして康一は無事に休み明けを迎えることが出来るのか、今後の見通しは暗然としていた。



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