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家族の予定

 康一は玄関の開錠音を聞きつけて、「おかえりなさい」と真っ先に父の元へ駆け付けた。

 父はいつも夜遅くに帰ってくる。風呂は職場のシャワー室で済ませているらしく、帰宅直後には洗面所で用を済ませた後、自室に籠ってそのまま就寝してしまう。

「どうしたんですか、康一」

 普段顔を合わさない康一がやって来たので、父の表情は意外そうだった。

「父さんの盆の休みの予定を聞いていなかったから……」

「ああ、そういえばまだ話していませんでしたね」

 父は居間に鞄を置くと、康一と会話しながら洗面所へ行き、そこで手洗いと歯磨きをする。龍二が既に寝ているため、二人は小声だ。

 掛けてあったタオルで父は濡れた手を拭いた後、再び居間へ戻って壁に掛けてあったカレンダーを見つめた。

「どうしてもお盆の時期に実家へ帰らなくてはならないんですよ。だから、この日は一泊二日で帰省します」

 父は説明しながらカレンダーの日付にボールペンでメモしている。日付は来週の十三日と十四日。ちょうど地元の祭りの日と重なっている。

「一泊二日? いつも二泊くらいしていなかった? 龍二も一緒なんでしょ?」

「今回、龍二は行きませんよ。康一と留守番をお願いします」

「え、そうなんだ?」

 龍二は毎年父の実家への訪問を楽しみにしていたので、今年の決定は不可解なものに感じた。何故だろうと考えを巡らせて、すぐにある考えに思い至る。

 ――もしかして、僕の体調のせい?

 そういえば、龍二の電話の会話で「家の用事があるから無理」と何かの誘いを断っていた。今までの経緯を踏まえれば、康一の体調が心配で傍を離れられないと、心配されている可能性が高い。

 ――僕のせいで、また龍二に迷惑を掛けている。

 康一が気付いた事実に苛まれている最中、父は淡々とカレンダーに他の用事も記入している。

「今年の墓参りは、次の日曜日にします。康一、予定はないですよね?」

「あ、うん……」

 父は康一の生返事を聞きながら、カレンダーの十二日の欄に”墓参り”と書き込んでいた。それが終わった途端、父は自分の部屋へ移動する。

 康一が後をついていって中を覗くと、父は手早く服を着替えていた。そして、ふと康一の視界に入ったのは、床の間に飾られている掛け軸だ。これは康一の母方の祖父の遺作で、若い頃の母の姿が描かれていた。母の祖父は父と結婚する以前に亡くなっていたが、水墨画を趣味で描いていた人だったらしい。

 絵の中の母は、和服の格好で正面を見据えて静かに佇んでいた。

 康一が幼い頃に母が亡くなったため、ほとんど母の事は記憶に残っていない。それでも、この絵を見るたびに思い出すのは、母が自室で何か書きものをしている姿だ。康一は母に構ってほしくて膝の上に乗ってわざと邪魔をしていた。

 康一が母の手から筆を奪って紙の上に落書きを描いた時に、「康一は絵が上手ね。おじいちゃんに似たのかしら?」と褒められたことがあった。

 それがとても嬉しくて、絵をたくさん描くようになって、どんどん巧くなっていった。また母に褒められたい――、小さい頃はその一心で。

 今日夢で見た母は、そんな康一の頭を静かに撫でてくれていた。暑さにうなされて寝苦しかったのに、その夢を見た途端、ヒヤリと冷たくて快適な気分になったのを覚えている。

 優しい母の手の感触のお陰で、荒れていた心が落ち着き、八つ当たりしてしまった龍二に素直に謝ることができるようになった。

「康一、どうしたんですか?」

 着替え終わった父に話しかけられて、康一は掛け軸に気を取られていた事に気付き、慌てて本来の目的を思い出す。

「あの、龍二が留守番するのって、ひょっとして僕のせい?」

 康一が質問を投げかけると、父は困惑の表情をしたので、図星なのだと答えを聞かずとも分かってしまった。

「やっぱりそうなんだ……。僕のせいで龍二に迷惑掛けてばかりで……」

「康一、違いますよ」

 父の否定の言葉を聞いても、康一にはただの気遣いとしか思えなかった。

「……あのさ、僕一人でも留守番なら大丈夫だよ。去年もそうだったし。体調だって最近ずっといいんだよ」

 康一がそう主張しても、父の表情は晴れず同意してくれる様子はない。

「龍二には家にいてもらいますので、予定は変わりませんよ。それに誰も康一のことは迷惑だと思っていません」

「でも、龍二が可哀想だよ。僕のせいで」

 父は康一の台詞を遮るように「康一」と名前を呼ぶ。

「家族とは助け合うものです。私だって康一にはいつも助けてもらっていますよ」

 父の言葉は嬉しいものだった。しかし、それは父の気持ちであって龍二まで同じとは限らない。そして、龍二の本当の気持ちは父にも自分にも分からない。

 康一はそれ以上言い返せなくなり、ただ無言でその場に立ち尽くす。父との間に沈黙が流れ、会話は途切れてしまった。

「康一、明日は燃えるゴミの日ですから、捨てるものがあったら玄関に出しておいて下さい。それでは、お休みなさい」

 父はそう言って自室の戸を閉めて、康一から姿を消した。まるで物理的に父から拒絶されたみたいに。そう考えてしまい、康一の心の中に影が射す。父にそんなつもりはなかったかもしれないが、康一は釈然としないまま自室に戻った。それから布団に入っても、昼寝をしてしまったせいで眠気が全く訪れず、気付けば日付が変わるまで遅くまで起きていた。

 ――父さんにせっかく会えたのだから、ついでに家系図についても尋ねれば良かった。

 そのことに後で気づいて後悔していた。

 長時間経ったせいでトイレに行きたくなり、部屋を出た。家のトイレは玄関側の廊下にあるので、居間を通過しなければならない。

 家族はもうとっくの前に就寝しているので、家の中は物音もなく静かである。忍び足で廊下を進んでゆく。

 家の中は電気が消されていて暗く、背後の自室から漏れる明かりだけが頼りだ。廊下の突き当たりまで来て、居間の入り口の前に立った。

 そして真っ暗なその部屋を眺めた時、康一の心臓が凍りつく。奥にある玄関側の廊下で、誰かが横切る影を目撃したからだ。

 人影は移動していたため、壁に隠れてすぐに見えなくなる。それでも一瞬目にしただけでも分かった、袂のある長い袖。恐らく和服を着用していたのだろう。

 康一は息を飲み、しばらく立ち止まって様子を窺うが、怪しい気配が近づいてくる様子は無いようだ。康一は恐る恐る居間に入って、廊下へ近づく。その途中、居間の照明をつけて明るさを味方につけた。

 玄関側の廊下を念入りに確認しても、怪しい人影はどこにも見えない。少し安心することができたが、それでも怯えながらトイレに入り、慌てて用を足す。

 康一は自室に戻ると、敷いてあった布団で丸くなった。いつもなら部屋の電気は全て消すのだが、真っ暗なのが怖くてつけたままだ。

 覚醒している状態でも日常的に起こる怪異。康一は身の危険が近づいているのを感じずにはいられない。それでも為す術は無く、現状を受け入れるしかなかった。



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