選択肢
康一が再び目を覚ました時は、既に部屋の中は真っ暗だった。変わりの無い自室の風景を見ても、平穏とは程遠い心境である。
康一は上半身を起こした後、項垂れて嘆息した。両手が僅かに震えているが、自分では止めることができず、どうしようもない。
確実に化け物は康一を狙っている。そもそも、外からやってくる正体不明の存在は何なのか。
事の始まりは、あの落雷だ。恐らくこの予想は間違いない。そこで出会った不気味な女に無理矢理キスをされたと思ったら意識を失い、それから度々寝込みを襲われて、確実に何かを吸い取られるような感覚に見舞わされている。
また、先ほど夢の中で聞いた女の声。
人間を喰いたいと切望していて、今はまだ出来ないと悔しがっていた。しかも、今日も康一を早く食べたいようなことを口にしていた。
そして、離れ屋でも聞いた不思議な足音。化け物は離れ屋にも出没している可能性があった。
「やっぱり、相談したほうがいいのかな……」
けれども、化け物がいるなんて普通ではありえない。しかも、化け物に襲われている痕跡や証拠はどこにもない。康一の証言だけだ。
普段から問題の無い人の話なら、まだ信用があるかもしれない。しかし康一といえば、原因不明の体調不良でいつも心配ばかり掛ける問題児だ。
こんな事を誰かに話した場合、ついに変な事を口にし始めたと見放されたり、失望でもされたりする恐れがある。だから康一には相談という選択肢は考えられなかった。
――自分の身は自分で守るしかないんだ。
その結論に至り、自分の苦境に唇を噛みしめる。
しばらくそうやって落ち込んでいると、日が沈みきって部屋の中が暗くなってしまい、気分だけではなく周囲までも闇に覆われ始める。ようやく寝所から立ち上がって照明をつけたお蔭で、自室は一瞬で明るくなった。
それから流れ作業のように、厚手のカーテンを閉めようと窓の側に寄る。漏れる光で虫が近づくからだ。その時にレースのカーテン越しに見えたのは、窓の外の大きな黒い蜘蛛だ。
花の模様をしたあの蜘蛛が、康一の部屋の窓際に巣を作っていた。同じ種類の別の虫なのか、以前見かけたものより一回りほど大きい。
蜘蛛は益虫といわれるけれど、嫌な事ばかり続いているせいで、それすら忌まわしい存在に感じてしまう。憂鬱な気分で厚手のカーテンを閉めて、視界からそれを消した。
康一が居間へ顔を出すと、龍二がいてちょうど夕飯中だった。
「兄貴、大丈夫?」
龍二は真っ先に康一の体調を気遣ってくれる。化け物のせいで頭痛のことをすっかり忘れていたが、具合はすっかり元通りになっていた。皮肉な事にあの白い靄の化け物が出た後には、不調の方がなりを潜めることが多い気がする。
康一は化け物にされた気持ちの悪い仕打ちを思い出して、口許を手で覆う。真っ先に向かったのは洗面所だ。歯を磨いた後、自分で夕飯を用意して一緒に食べて、いつも通り過ごすことができた。
「そういえばさ」
居間で寛いでいる時、康一はテレビを観ていた龍二に話しかけた。
「ん~?」
好きなバラエティ番組に夢中になっている龍二は、視線をテレビに向けたまま気のない返事をした。それを気にせず、康一はさらに口を開く。
「今朝なんだけど、野良猫が家の中に入り込んでいたよ。目が合ったら逃げられたけど」
そう説明すると、龍二は丸くした目を康一に向けた。
「え、本当!? 兄貴見たの? 目が合ったの!?」
「え……? まあ、そうだけど」
暗かったので影ぐらいしか見えなかったが、確かに目は合ったと思う。けれども、何故動物と目が合っただけで龍二にここまで反応されるのか分からず困惑する。しかし、康一は伝えたいことがあったので、それを一度脇に置いて話を続ける。
「二匹いたんだけど、そのうちの一匹に寝ているところをベロベロと顔を舐められて起こされたんだ。また警戒しないで入って来られてら困るから、窓を開ける場所には気をつけた方がいいかもしれないね」
「そ、そうなんだ……」
龍二の顔は苦笑いといった感じでひきつっていた。色々と康一に同情してくれたのかもしれない。それから龍二の視線はテレビに再び戻り、畳の上にごろりと横になる。
「なあ、龍二」
「なに?」
返事をする龍二の視線は、テレビに向けたままだ。
「龍二は最近よく眠れてる?」
「え? 寝た次の瞬間には朝になってるよ? どうしたの?」
「え、いや別に。寝られているならいいんだ」
「ふーん」
龍二は康一の次の話題にそれほど気を取られていない。
弟の無事に安堵する半面、もう一つの感情が康一の中で湧き上がる。それと同時に頭の中で囁かれる自分の声。
――どうして僕ばかり、嫌な目に遭うんだろう。
いつもならすぐに打ち消される不満は、自分の中で燻ったままだ。康一は龍二から目を背けて居間から出ると、自室へと戻った。




