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石碑

 それから康一は平日を塾で過ごし、週末の土曜日を迎えた。基本、塾があるのは平日のみなので、今日は何も予定がなかった。

 化け物によって寝ている間に襲撃を受けていないようだった。何故推定なのかというと、単に途中目が覚めることがなかったからだ。何事も無いまま康一は朝を迎えることができたが、安心できる確かな理由もないため、未だに警戒したままである。

 康一は敷地内の探索をしようと考えていた。化け物がいると分かった今、何もしないまま手を拱いているより、何でもいいから調べようと思ったのだ。落雷によって倒れた木の周辺を念入りに――。

 父は適切に対応しているから問題ないと断言していたが、自分の目で確かめなくては気がすまなくなっていた。

 父は早朝から出勤していて不在で、龍二は朝食後から離れ屋に遊びに行っている。弟は昔から康一と遊ぶより正太郎といることの方が多かったため、弟の不在は慣れっこだ。ただ、龍二は普段から離れ屋への訪問は多かったが、早朝から訪問するのは珍しかった。

 さらに、本日は朝から曇り空で、夏の厳しい日差しが厚い雲に遮られている。外出日和で天気にも恵まれた。調査するには絶好の機会だ。

 そしてなにより不思議なことは、康一の体調が安定していることだ。これ幸いと自分に任された家事をこなしてから、件の落雷の現場に向かった。

 その歩いている途中、脇の竹やぶの中から何かが動く物音がして、驚いた康一は思わず立ち止まってしまった。その方角を観察すれば、単に低い位置で藪の中の葉っぱが揺れ動いているだけだ。不審なものの正体はただの動物のようで、特段気にすることではなかった。

 周りから聞こえて来る鳥のさえずりや鳴き声はいたって長閑なもの。遠くの方で控えめに鳴く蝉の声がしている。

 ここは山の中なので野生動物がいるのは当たり前のことだ。康一は自分の早とちりが恥ずかしくなり、少し苦笑した。

 それから目的の場所へ辿り着き、目の前に広がる光景を眺める。奥に木製の塀がこの場の背景のようにずらりと一面設置されていて、その手前の地面には雑草が隙間なく埋め尽くしている。ただ記憶の中と異なるのは、ここに一本立派に生えていた高木が何処にも見当たらないということだ。代々祀っていたというあの古木は、落雷の後に撤去されたらしく、根元の残骸すら残っていない。生えていた箇所の地面は掘り起こされたような状態で少し盛り上がっていて、そこだけ雑草が無くて土がむき出しになっている。

 その木があった傍には雑草に隠されるように、ぽつんと石碑だけが残されていた。膝丈くらいの大きな石は、康一が物心つく前からこの場所にずっと置かれていた。表面に何か文字が刻まれているが、ほとんど苔に包まれていて解読不能だ。康一は今までこれに興味がなかったため、気にも留めたことがなかった。しかし、怪異の手掛かりを求め始めた以上、この石を調べるためにこの場に来ている。

 全ての怪異がここにあった古木から始まったと仮定するなら、すぐ傍に置かれていた石碑は何ならかの情報を自分に与えてくれるかもしれない。康一は近くにあった小石を拾い、必死にそれで表面に付いている苔を削り始める。

 石の正面側の付着物を粗方取り終わり、それによって文字が露わとなり重大なことが判明する。

「一上、……ええと誰だろう? え、墓!?」

 最後の文字に”墓”と書かれていた。石碑と思っていた石は、本当は墓石だったのだ。つまり、この場所に誰かの遺体を埋葬していたことになる。

 康一はその墓石の下の様子を想像して、真夏なのに腕に鳥肌が立った。

 ――もしかして、墓を放置していたから、祟りが起こった!?

 怯えながらも、さらに石の表面を綺麗にして名前を読みやすくする。その結果、『一上 芳重』とそこに名前が刻まれているのが分かった。

「でも、これって男の名前だよね……?」

 もし、墓の主の祟りだというならば、化け物は男性であるはずだ。ところが、康一を襲ってくる人型の化け物は、女性の可能性が高い。落雷のあった夜、最初に無理矢理キスして襲ってきたのは、明らかに女性だったからだ。

 その後、康一の枕元に現れた化け物は、金色に光輝く目という共通点があり、さらに同様なことを繰り返しされたので、同一人物であることを今まで疑っていなかった。

「……一体、どういうことだろう?」

 手に入れた情報に困惑するが、現時点では結論は出す必要はないと問題は先送りにする。

 屈んだ姿勢を取り続けたせいで、康一の足腰は痺れ気味になってしまっていた。休憩がてら立ち上がり、他に何か手掛かりはないかと周囲をあちこち歩いて調べ始める。

「あれ?」

 ちょうど墓石の裏側に回って歩いていたところ、その石の裏面を見て驚く。表同様に苔に隠されている文字に気付いたからだ。

 早速除去作業に取り掛かり、すぐにその文字を判読した。

「ミワ、ト、トモニ、ネムル……?」

 新情報から推測できることは、どうやら一上芳重という人物は、『ミワ』という人と一緒に埋葬されたということ。

 ミワという女性らしきこの名前が、この怪異の手掛かりなのかもしれない。康一は何か予感めいたものをこの時に感じた。

「ニャー」

 いきなり竹やぶから猫の鳴き声が聞こえてきて、康一は思わずそちらに視線を送る。すると、視界に入ってきたのは、通り道からこちらに向かって歩いてくる龍二の姿だ。

 康一に用があって探しに来たのか、または偶然こちらに用があって来たのか。

 突然の龍二の訪れは康一にとって予想外で、墓石から離れて弟へと近づく。龍二は康一と目が合うと、「兄貴」と呼んで話しかけて来た。

「家にいないから、どこに行ったのかと心配したよ」

「あ、ごめん。心配かけて」

「こんなところにいたら、虫に刺されるよ。家に帰ろう」

 龍二に促されて、康一はここから離れることになった。

「よく僕があそこにいるって分かったね」

 道中、康一が浮かんだ疑問を口にすると、少し前を歩いていた龍二は慌てて振り向いて「えっ?」と驚いたような声を上げた。

 康一の指摘が意外だったのか、少し動転した様子の龍二に苦笑する。龍二の左頬にあった傷はもともと軽傷だったのか、怪我をした当日の夕方には、すっかり治っていて、弟の美顔は元通りだ。

「普段あんな奥まった所になんて行かないからさ。龍二に見つけられて驚いたんだ」

「あ、うん、そうなんだ。ええと、もしかして兄貴はあそこにいるかなぁって、勘が冴えたと言うか。落雷があったから気にして見に来ているのかもしれないなって思って来てみただけだよ」

 早口でまくしたてるような話し方に康一は違和感を覚えたものの、龍二の説明してくれた内容はすんなり納得できるものだ。引っ掛かりはすぐに消えて、歩いているうちに家に着いた。

「じゃあ、俺はまたおじさんの家に行くね」

 龍二は康一を見送ると、迷いない足取りで離れ屋に向かう。その弟の小さくなっていく背中が、康一には遠い。

「遊ぼうよ」

 幼い頃から、康一が龍二に声をかけても、離れ屋に行くからと、断られることが多かった。だから、今では誘うことはほとんどない。気付けば、『おにいちゃん』から『兄貴』と呼ばれるようになり、さらに距離を感じるようになった。

 そろそろお昼の時間だ。龍二はそのまま坂井の家に居座って、ごちそうになるかもしれない。最近、龍二は坂井の家で食事していた。夏休み前は康一も坂井から食事に誘われていたが、最近は声すらかからない。それが何を意味するのか分からず、ただ寂しかった。

 康一はこれ以上の思考を拒否し、一人で家の中に戻った。そして、そのまま真っ直ぐ自室に入り、学習机の椅子に座りこんだ。

 頭の中を占めるのは、先ほど調査した墓石のことだ。

 机の本棚に収納していたルーズリーフを一枚取り出して、メモ帳代わりにそこへ手に入れた情報を記述する。

『一上芳重の墓、ミワトトモニネムル』

 康一と同じ名字の人物は、恐らく一上家の先祖だ。

 辞書で『芳重』という名前の読みを調べると、どうやらこれで『よししげ』と読むのが正しそうである。墓石の状況から随分昔の人だと思われるが、家系図でもない限り、何代前の先祖なのか調べようがない。

 父の仕事が休みの時にでも尋ねてみようと、康一は考える。

 康一は椅子の背もたれに寄りかかり、両腕を上げて背筋を伸ばす。椅子がギシギシと音を立てて、康一の背中を押し返した。



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