黄昏に眠る雛鳥
「行きたくないなあ」
寂しさを煽る冷ややかな風と、暖かな日差しが同居する秋口に、季節外れにも、私のクラス、二年二組にはこんなウワサが蔓延った。
放課後の黄昏時、住宅街にほそぼそと店を構える駄菓子屋に、それはそれは綺麗な雛人形が現れる。小さいながらも存在感のあるその人形は、悩みを抱える子供にのみ心を開き、悩みを話せば、寄り添い、あらゆる解決案を出してくれるそうだ。
古風な語り口の言い伝え、その割にビジネスライクな関係性を築ける不思議な雛人形。そんな人形の話題に明け暮れているうちに、何故か私がその駄菓子屋に行く、という流れになってしまった。
「いいじゃん!絶対面白いって。それに亜海、最近悩み事多いんでしょ?」
「それは、そうなんだけどさあ。悩みで言ったら由依だって、夏希くんと良い感じなんでしょ」
「そんなに褒めないで欲しいなあ。良い感じだからこそ、もうお雛様に相談することなんてないの。ここからはうち自身の努力だから」
「分かった、分かったから。確かに、努力じゃどうにもならない悩みばっかりの私は、人形に頼るのが一番だよね」
「えっ、それってどういう?あ、ちょっと、違うの。そんなつもりで言ったんじゃなくて」
由依の声が止まないまま、私は放課後の教室を後にした。悩みを人形に打ち明ける、ということに、ある種の馬鹿馬鹿しさや、恥ずかしさを感じていないこともなかった。だが何より、相手の悩みを軽んじるような由依の姿勢が腹立たしかった。
血が昇って熱くなった脳を冷やすために、はたまたあの空間から逃れるために、乾いた秋空の帰路につく。
私のような中学生にとって、通学路は見慣れた景色であって、ゆえに安心感にあふれていると、最近までは思っていた。だが実際、何の変哲もない道路をゆく、その交通手段を、その反復される時間を、違和感も飽きもなく繰り返す日々と年月は、将来社会のパーツになる上で、言葉通りパーツ、部品としての耐久性を担保する為に設けられた、半ば強制的な、義務教育という名の洗脳に過ぎないのではないかと、思考を巡らせている。
ここ、どこだろう。急激に冷静になるあまり逆に周りが見えなくなっていたが、全く通学路ではない。コピー・アンド・ペーストで生み出されたかのように立ち並ぶ家々が、かえって不安感を煽る。
ふと、ある一軒家が目に留まった。良く言えば昔懐かし、悪く言えば小汚い、こじんまりとした、高く細い家。
高いと言っても他の住宅と変わりはない、だがその割にあまりに細い。ごく一般的な一軒家のリビングだけのよう、と例えても少し広いか、と感じる程に。
その特異な形状に惹かれてか、つい家の前まで寄ってきてしまった。するとどうやら家の部分は二階のみのようで、一階部分は、店頭開放型の駄菓子屋になっていた。
レトロを醸す電球色に満ちたその駄菓子屋は「黒露堂」というらしく、というか入口の大きなトタンに今にも消えそうな字で書いてあったのだが、住宅街とは考えにくい、異空間じみた店内の雰囲気に呑まれ、商品を見てみることにした。
汚い。埃だらけの箱もあれば、そもそも何も入っていない箱もある。入って右手側の壁には一面、なにやら駄菓子やちょっとした玩具が掛けられそうなフックがずらっと並んでいるが、まともな商品が掛かっていない。強いて掛かっているとすれば、片付け忘れたものであろう、水色のすずらんテープ、その破片が掛かっている。
とはいえその反対側、つまり入って左手側の壁はなかなか物色のしがいがあった。相変わらず壁のフックには何一つ掛かっていないが、膝より少し上くらいの高さにある商品箱の数々、そこには「ザ・駄菓子」とでも言いたくなるような駄菓子が勢揃いしている。
あのレタス太郎においしい棒、デッカカツ、それに見慣れた知育菓子なんかも置いてあった。中でもデッカカツは流石に買いたくなってしまい手に取ろうとしたそのとき、あることに気づいてしまった。
お金を持ってない。生憎というかなんというか、私はそこまでワルじゃない為、下校中に買い物をしちゃう、なんてことは今までに一度もない。なので、お金がない。
更に言えば、店員が居ない。居たとして、駄菓子屋には黙って動かないおばあちゃんしか座ってないだろうから気づかなかったが、明らかにレジの元には誰も座っていない。
確認のためレジに近付くと、金属製の卓上ベルが置いてあった。なるほどこれで店員を、黙って動かないおばあちゃんをここに呼び出すんだな、と気づいた瞬間。
居た。期待していなかった訳ではない、むしろ、ここなんじゃないかと思っていたから入店したし、由依の話を聞いて、彼女なら私の悩みを、とずっと思っていた。
ウワサに聞いていた美しき雛人形は、本来店員が居るスペースであろうレジの元、その後ろの壁にある棚に、堂々と鎮座している。
雛人形が鎮座、と聞けば当然雛壇を想像するだろうが、彼女はいかにもキングキングしい玉座にご着席なさっていた。もっとなんというか、禍々しく、言い表せない迫力があるからこそ広まったウワサかと思い込んでいたが、その実迫力というのは圧倒的キング感によるものらしい。
私は、この諧謔的な、演出された親しみやすさなんかより、彼女の持つ力に用があるのだ。誰のどんな悩みでも親身になって聞いてくれる、そんな素敵な彼女に用がある。
「あの、こんにちは」
長いことこの黒露堂に居て、久し振りに声を出したからか、全体的に声が裏返ってしまった。私の声が気持ち悪いばっかりに、お雛様に嫌われてしまっては困る。
「えっと、私亜海って言います。中学二年生で、その」
「あはは、こんにちは、亜海。というか、君は気づいていないようだけど、実はとっくに日が暮れて、こんばんはの時間だよ」
「嘘、私この駄菓子屋にそんなに、あの、こんばんは」
「亜海は律儀だね。座りなよ、レジの中まで入ると木の椅子がある。古くてがたぴしなんだけど、ま、あたしと話せるんだから。そのくらいは辛抱してね」
「は、はい、ありがとうございます」
言われた通りレジカウンターの内側、すなわち店員、すなわち地蔵おばあちゃん用スペースには、地蔵おばあちゃん用の椅子があった。お雛様はがたぴしと言っていたが、案外座り心地は悪くない。彼女自身が大層な玉座に座っているから、他の椅子は大抵がたぴしみたいなものだろう。
「さてと。亜海、今日はここまで来てくれてありがとう。それで、あたしにどんな話を聞かせてくれるのかな」
「その、大変勝手で恐縮なんですけど、お雛様のことはなんとお呼びしたら」
「えーっと、そうだなあ。聞かれたこともなかったけど。とりあえず、コンって呼んでもらおうかな」
「コン、狐ですか?」
「んー、由来はあんまり気にしないで。そんなことより、ほら早く。雛人形だって、そんなに暇じゃないんだよ?」
玉座でリラックスしたまま言われても説得力の欠片もない。
「じゃあ、お話させていただきます。少し長くなるんですが」
「いいよ。あたしは一回も遮らないし、相槌も入れない。ただ君の言葉に耳を傾け続ける。さあ、どうぞ」
「はい⋯私は、亜海と言うんですが。亜熱帯の亜に、海で、あみと読みます。これの由来が、どうしても納得行かなくて、嫌いなんです。亜熱帯とか海とか、そんなのひとつも関係なくて。お母さんには好きなアイドルが居て、そのアイドルの方々がファンを呼ぶときの、所謂ファンネームを、そのまま私の名前にしようとしたんです。辛うじてお父さんが伸ばし棒は取ってくれましたけど、お父さんが居なかったらどうなってたことか。だって、ファンの象徴みたいな名前にされちゃってるんです。生まれきっての大ファン、みたいな。私の未来なんてどうでもよくて、お母さんの、そのときの私欲のためだけに私の名前を使われたのが、許せなくて」
声がまともに出ないと気付いた時には、嗚咽と涙が止まらなくなっていた。名前がコンプレックスだ、と打ち明ける事は、当然、付けた本人、すなわち親に相談できるようなことではないし、仮に気心の知れた友人に相談したとして、「名前が呼びづらくなる」というのは、関係性において大きな障壁となりうる。
「多分、一通り話し終わっただろうから聞くけど。亜海っていうその漢字は、誰が決めてくれたのかな」
「お、お母さんです」
「なるほど。お母さんは勿体無い事をしたね、センスを持て余している」
コンにとって私の話は、関わりづらさの種などではなく、あくまで他人の悩みに過ぎないという前提の元、柔軟に、的確に解釈してくれているのだなと、とてもよくわかる。
「亜熱帯に使われる亜、と、亜海は教えてくれたね。この亜という漢字は、何かに次ぐ二番目って意味を持ってる。これだけ聞くと二番目にしかなれない、みたいな、最悪な解釈もできてしまうだろうけど。海が使われてることもあって、壮大さ、強かさの中に、人類としての矜恃を持たせる意味合いを感じるね、あたしは」
「ぜ、全然わかんないです」
「つまり!海、すなわち支配しきれない膨大な存在を頂点に置いたヒエラルキーがあったとして、凡人秀才天才、あらゆる生命体を差し置いて、頂点を除くナンバーツーには確実になれるってこと!」
「な、なるほど」
「だけど、この漢字のセンスがあって、その入口が自身の推しアイドルっていうのが、前述の通り勿体無いんだよねえ。」
「そう!そうなんですよ!結局そこに行き着くんです、どれだけ漢字が良い意味でも、読み方の由来が自分本位なら、意味が無いっていうか」
私の名前の話で、こんなに盛り上がれる相手がいたのか。誰かにとってはなんでもない悩みかもしれない、聞けば関わらなくなるほどに、どうでもいい悩みかもしれない。それでもこうして、向き合ってくれる相手がいる。共有して、共に悩める相手がいてくれる。
「あはは、酔っ払いみたいな怒り方してる」
「それはちょっと、酷くないですか⋯?」
「自分の名前の悩みを、誰かに打ち明けるというのは辛いだろうね。色んな問題がすぐに考えつく」
私は、彼女が知りたい。
「だからこうして話してくれたこと、凄く嬉しいよ。あたし自身誇らしいし、亜海もすっきりしたんじゃない?」
「そう、ですね。言いたくても、誰にも言えたことなかったことですし。」
「でしょでしょ。ごめんねえ、根本的な解決には至らなかったけど。まあどっちかっていうと、こうして、聞いてあげて終わりです、って事の方が多いんだけどね。あたしだって、ただの人間だし」
彼女の正体が知りたい。
「え、ただの人間って、どういう」
そのとき、黒露堂の天井から大きな物音が響いた。何かが落っこちるような衝撃だった。数秒してから、小さく、天井の軋む音がギシ、ギシ、ギシと素早く繰り返され、止まった。
「ごめんね、亜海ちゃん。今日はあたし、ここまで。またおいでね」
「待って、コン」
沈黙した雛人形と、寂しさを語る駄菓子と、それでも温かく照らす電球と、私とが、しばらく止まった時の中に居た。その日は、これ以上雛人形が、コンが私に応えることはなかった。
今日は一日中、コンの事で頭が一杯だった。彼女がどこの誰なのか、そもそも私の知っている相手なのか。ついでに、性別すら怪しい。声を聴いた所感で言えば女性の声そのものだったが、少年的な声に近いものを感じなくもない。私が平均とするのも変な話だが、少なくとも、私より低い。
「どうしたの月島。悩みごと?」
そう声を掛けてきたのはクラスの委員長、浅野さん。出欠をとるとき、浅野さんが序盤に呼ばれ、朝とは思えない程の活気溢れる返事をしてくれるお陰で、クラスに淀んだ空気が流れづらいのは言うまでもない。そして現状のように、ストレイ・シープを一匹も取り逃さず、全員まとめて導く、言わばクラスのイエスである。彼女のことは、浅野イエスさんと覚えて頂いて構わない。
「あ、ごめん。ちょっと困ってるかも」
「ほんとに困ってるのね。いいよ、話して?」
「今学校中でウワサになってる、駄菓子屋の雛人形の話、知ってるでしょ?」
「もちろんだよ。なんなら、委員会にもその話が出たくらいで。友達と会話するのだって、雛人形のことで持ち切りだねえ」
「委員会で?」
「やっぱそこ気になっちゃう?」
このイエス、なんか面倒臭いなあ。
「うん、気になっちゃう。どういう内容だったの?」
「って言っても、そんながっつり議題!って訳でもないんだけどね。ほんとに、会話の中でチラッと触れただけで。って言うのも、委員のひとりが、その雛人形には、所謂中の人が存在してるって主張してるの。つまり誰かが、悪意か善意かはさて置いて、雛人形のフリをして何かを画策してる」
委員会に間違えて私が出席していたのではないか、と思うほどに、私と丸っきり同じことを考えてる委員がいるみたいだ。
「その人はなんでそう思ったんだろう、その雛人形に会ってみたのかな」
「いや。会ったことはないみたい。けど逆に、この人たちなら雛人形のフリをしかねない、っていう目星を付けてるらしいの」
「それ、目星付けられた側はたまったもんじゃないよね」
「はは、確かにねえ。おおよそあれかな、月島さんもその雛人形の正体が気になってたり?」
このイエス、なかなか侮れない。
「いやっ⋯アハ~?そんなこと、全然ないよ全然。そもそも会ったこともないんだし。目星付けようとも思ったことないよ」
「嘘下手だねえ。良ければその委員の子、紹介してあげようか?」
「それで、僕の元に来たって訳?何それ、面倒臭い。大体さ、ふたりで嗅ぎ回ったら怪しまれるに決まってるじゃん。ひとりだからこそ結構候補絞り込めたのにさ」
「ああ、じゃあ全然良いんです。ありがとうございました」
「いや、良いから見なよ。そこの書類の三人が有力候補、といっても、本命はもう決まってるんだけど」
なんだろう、由依ってやっぱり良い子だったんだなあ。愛くるしいっていうか、愛嬌があった。それに比べてイエス、それに彼と来たら。面倒臭いのはどっちだ。
「ところで君、名前はなんていうの?」
「は?書類はもう見た訳?」
多少、この人の人物像を知っておこうと考えたのが間違いだったみたいだ。関わるだけで気疲れするタイプ。
書類に目を落とすと、彼に言われた通り、三名の詳細が記されていた。同学年の女の子がふたり、一学年下の男の子がひとり。彼らに共通するのは、
「不登校⋯」
「そうだ。そもそもこの魂宿るドール事件における動機というのは、相当限られてくるんだよ」
「魂宿るドール事件、って何?」
「⋯雛人形のフリをする動機は、相当限られてくるんだよ。仮に今お前が、雛人形のフリをするとしたら、どういう理由でする?」
「うーん、そんなに深いきっかけは思い付かないな。たとえばちょっと脅かしてみようとか、そういう雰囲気の」
「そうだろうな。だがその場合、脅かした奴の相談に乗る、なんて訳の分からないことはしない。つまり、雛人形という殻を利用して誰かと会話すること、及びその先の、本校生徒との良好な関係が望みなんだ」
なるほど確かに、だから不登校の生徒を候補に挙げたのか。学校に戻りやすい環境づくり、その方法として、雛人形を選んだ。筋が通ってる。
「いや、そうだな。お前、その雛人形に会ったことはあるのか?」
「⋯うん、あるよ、一回だけ。そのときに、ああ、この人は中身のある人間なんだって、あっちの発言から分かったの」
「なるほど。じゃあ、行って聞いて来て欲しい事がある。趣味、特技、それから生活の時間帯、生活ルーティン、年齢性別、えーっと後は」
「ちょっと待ってストップ。聞くのは良いけど、質問させて。まずなんであなた自身が行かないの、それと、なんで先生たちに頼まないの?」
「二つ目の質問については簡単だ。Xは、僕たち生徒に歩み寄っている。生徒が生徒に、手段がなんであれほぼ直接関わりに来ているのなら、そこに先生方が介入するのは美しくない、と僕が判断し、止めている」
「Xってもしかして、雛人形の中の人のこと?」
「一つ目の質問についてだが。普通に考えて、雛人形が喋り出したらめちゃくちゃ怖い。雛人形とのまともな会話は、まともな人間にできっこない。僕はまともだからな、まともじゃないお前に頼むのが早い。それと」
「⋯それと?」
「僕は田部という者だ。どうぞよろしく」
田部だったか田んぼだったか、変わった苗字をした彼に頼られ、またしてもこの住宅街に戻ってきた。街は閑静ながらも胸騒ぎがうるさいこの場所も、目的地が明確だと、どこか安心する。何より、そこにはコンがいる。
以前のように放課後由依と話し込むことも無いので、前回より幾らか早い時間に来ている。
問題があるとすれば、コンが実体のある、他でもない人間であると知った以上、伺う時間を全く考えず向かうというのは申し訳なくもある。それが不登校の生徒ともなれば尚更、生活する時間もまばらになりうる。
田部の自己紹介を聞いた後、正確には聞き流した後、彼が語り出した、三名の候補の情報をそれぞれ思い出してみた。
まず一人目、夕木舞さん。私と同じ二年二組の生徒で、学校に来ていないことはもちろん知っていた。小学校も同じで、その頃は毎日登校していたし、むしろクラスの中心人物で、今でいう浅野イエスに立ち位置が似ていた。
次に桜田勇子さん。違うクラスだし、違う小学校に通っていた。田部が現在同じクラスらしく、二年生になってから数日経ち、来なくなったそうだ。田部が言うには、名前の漢字の事を、よくクラスの男の子に馬鹿にされているところを見掛けたらしい。そして、不登校になる数年前、確か小学四年生の頃と言っていたか、事故で左脚を失っている。
最後に、古賀蒼太くん。候補の中では唯一の年下にして唯一の男の子であり、正直私はなんの情報もなかった。私が聴いたコンの声のことを田部に話すと、
「なら、コイツである可能性は十分にあるな。なにせ中一だ、女と声の高さが違わなくても何も不思議じゃないし、雛人形の声が女っぽいからコイツを除外するのは違う。それに舐められがちな奴だった、声が高いのが理由のひとつだったかもしれない」
私は一度も「古賀くんじゃなさそう」と言っていないのにもかかわらず、やけに強い口調で否定してくるので腹が立ったのをよく覚えている。
一人称はあたしと言っていた記憶があるが、コンが古賀くんだったとして、雛人形のキャラクターに合わせて一人称を変えている可能性もある上に、古賀くん自身、性自認が女の子であることも考慮しなくてはならない。
現状、私は全く見当がついていない。三人のうち誰なのか、思案投首しているうちに、見慣れていないのに見慣れた様相を呈した、黒露堂の前に辿り着いた。
奥行きのある木の香りに満ち、進むほどに薄くなる現実味が、私をまた、陶酔させる。目の中心にはコンを、うっとりするような美しい雛人形を捉え続け、ついに私は、地蔵の椅子に座り込んだ。
「こんにちは、コン」
「あ、おはよう、亜海。昨日はごめんね、変なタイミングで終わらせちゃって」
「ううん、いいの。私の方こそごめん、話しづらいこと訊いちゃったよね」
一瞬の沈黙が流れた。
「そんなことより。今日は正しく、こんにちはの時間だったね。昨日と違って、店内を見て回ってないだろうから」
「今日は、コンの話を聴かせてくれないかな」
今度は、しばらくの沈黙が流れた。
「なんで、あたしの事が知りたいのかな。あくまであたしは、悩みを聞く雛人形として広まってるはずだよ」
「でも、本当はそれだけの存在じゃない」
「どうしたの亜海、今日なんか怖いよ」
「コンには感情があって、意思があって」
「亜海、やめて」
「雛人形じゃなく、人間としての身体があるんでしょ」
見惚れれば声も出ないであろう眼前の雛人形に、そう訴え掛けたのも束の間、この場所にそぐわない、高く鋭い声が響き渡った。
「違う。あたしは、あたしはただの雛人形なの。みんなと悩みを聞くだけの、人間なんかじゃなくて、あたしは」
「コン」
「あたしの何を知ってるの」
「コン、落ち着いてよ、私は人間としてのコンとお話がしたいだけなの、コンって存在を、否定したい訳じゃないの」
「それは耳当たりの良い言い方してるだけじゃない。そうやって亜海は、雛人形を化けの皮みたいに言って、本性を暴こうとしてるだけだよ」
「違う、私は」
気づけば、お互いの言うことに「違う」を返すだけになっていた。声を聞くほどに、声を出すほどに、脳の温度が上がり、溶け切って吐き捨てるしかない言葉しか残らなくなっていった。
「私は、コンと友達になりたいだけなの」
なにか言えば違うと返されるだけのやり取りは、ここで終止符を打たれた。表情ひとつ変えず声を荒らげていた雛人形が黙り込むと、私も次第に落ち着いていった。
喧騒と静寂の代わりに、雛人形から啜り泣く声が聴こえた。こもった音だ。私の耳を人形にぴったり付けないと聴こえないほどに小さく、近いのに遠い、まるで電話相手が遠くから話しているような、そんな感覚だった。
オクシモロンに負けず複雑な状況。泣き続ける雛人形は、だんだんとその音を小さくしていき、最後にはプツンと、何も聞こえなくなった。
すると店内に、鉄を打つような金属音がこだました。十回ほどそれが聴こえると、土が擦れるような音に変わる。それが足音だったと気づいたのは、いつの間にか、店頭に知らない人間が立っていた瞬間だ。
「あんた、もう今日は帰んな」
「えっと、失礼ですが、あなたは」
「ここの、黒露堂の店主だよ。今あんたが座ってるその椅子、それに普段座ってるババアさ」
普段座ってる、という割に、私が来るときは決まって誰も座っていないのはなぜだろう。
「あの、コンは」
「コン?知らないね、誰のことだい」
「じゃあ、あなたの苗字を教えてくれませんか」
「あんた、それで友達になりたいって、本気で言ってるのかい」
一瞬、言っている意味がひとつも分からなかった。だが、すぐに思い出した。田部が言っていたことだ。
「いいかい、あの子が仲良くしたいと思ってるあんたらがそんな姿勢だから、ずっと閉じ篭ってるんだ。向き合うなら、あの子自身と向き合いな」
今日も、ここに来て良かったんだろうか。昨日、コンのおばあちゃん、と思しき人物から言われたことを反芻し、コンの正体が誰なのかを暴くことは、罪に等しいのではないかとも考えた。
だが恐らく、あのおばあちゃんが言いたかったのは、そういうことではない。理解したいと願うことは、情報を吐露させるという行動に直結しない。雛人形から引き剥がしてしまうのではなく、雛人形と一体のコンと関わっていくこと、それが、コンと向き合うということだと考えた。居ても立ってもいられず、放課後の夕方を駆け抜けた。
この黒露堂に来る度、違った感情に支配される。
最初は、ただ不安だった。由依とのやり取りから派生した衝動が、好奇心を確かに産んだ。好奇心とはすなわち、不安や未知に打ち勝とうとする本能の強かさ、その表れだと思う。だから、楽しみであると同時に、不安感が付き纏っていた。
昨日は、陶酔と言おうか、狂信と言おうか。雛人形に夢中になるがあまり、知りたいであったり、関わりたいであったり、あるいは暴きたいといった、これまた本能的である種悪趣味なエゴイズムの奴隷になっていた。
今日はかえって、冷静さに支配されている。
「こんにちは、コン」
雛人形は喋らない。
「昨日はごめんね。コンと友達になりたいって言うのは、本当に本当で。でも、その方法を間違えすぎてた。全部そっち任せで、コンから話させて、平等にしようみたいな」
きっと聴いてくれていると信じて、少し間隔をあけて話す。コンが心の中で、相槌を打ってくれているだろうから。
「だから、私がコンのことを考えたっていうことを、証明したいの。暴きたいんじゃない、無理矢理連れ出したいんじゃない」
コンはきっと、誰かにこうされるのを待っていたんだと思う。いつか学校に通えるように、雛人形を通じて、生徒と仲良くなろうとしたのなら。きっと、壁を壊す役目が必要だと思う。
「コンは、夕木舞さんだよね」
雛人形の口からは何も聴こえない。文字通り引き結ばれた口元を動かすことはない。まあ、今までに一度も無かったのだが。
「犯人を当てる、みたいになっちゃってごめんね。そんなつもりはないの。きっと説明を求めてるだろうから、話させてもらうね。
実は、雛人形のウワサは学校中でされてるんだけど。中にはその正体を調べてる人もいたの。その人に話を聞いてみたら、学校に行けてない子がその候補だって言ってて。中でも三人に絞って、その人は考えてたみたい。一人目は一個下の古賀くん、二人目は同い年の桜田さん、最後に、舞。
なぜ他のふたりじゃないのか。まず桜田さんは、数年前、事故で脚を失くしちゃってるの。覚えてる?私が最初に黒露堂に来た日、うっかり舞が口を滑らせて「あたしはただの人間」って言っちゃったの。その後、上の階から凄い物音がして。大きい衝撃は、きっとボロを出したこと、そしてそこを突かれた事に驚いて、転んだか、どこかから落ちたか。問題はその後何回か、一定のリズムで床が軋んでいたこと。これは元々座ってた場所とか、寝てた場所に戻る為に歩いた、そのときに出た音だと思う。仮に松葉杖を使ってたとしたらリズムがズレるし、どこかに手を着いて移動したとしたら、素早いリズムにはならない。だから桜田さんじゃない。⋯古賀くんは、私に情報をくれた人が言ってた事なんだけど、彼は舐められがちだったんだって。そういうタイプの子が、対話前提、悩みを聞く前提のこの方法で、学校に戻ろうとはしないと思うの」
「⋯なるほどね。それで?」
「⋯舞は小学校の頃から学校に来なくなるまで、ずっとリーダー的立ち位置に居た。つまり、誰かの話を聞いてあげる立場だった。舞はこのときの経験を活かしたりして、もしくは誰かの話を聞くこと自体が好きだったから、雛人形になったんじゃないかな。それに、一番最初にウワサが流れたのは、二年二組だったの。クラスにウワサを流すなら、やっぱそのクラスの人かなって。桜田さんは物理的に不可能⋯だと思ってて。古賀くんと舞を比較したとき、舞だと思ったの」
「あはは、凄いね、そこまでわかっちゃうなんて。まさか、転んだことまでバレてたとは」
軽快な笑い声に胸を撫で下ろす。続けて喋りすぎたからか、顔が熱い。
「ごめん、嫌じゃなかった?」
「ううん。むしろ、亜海がしたかった通りになってる。あたしの事をちゃんと見てくれてるんだなって思えたよ」
「よかった。本当によかった」
「ちょっと、まだ泣かないでね?今からそっち行くんだから」
聞き覚えのある、だが記憶より随分と楽しそうな金属音が店内に響き渡る。
店頭を眺め待っていると、中の人、夕木舞が現れた。記憶にある姿より随分細く、白い肌をしている。元々高めだった身長が、黒いロングヘアで一層高く整って見える。
姿を見た反応を口に出しても良いものだろうか。迷った末、今はやめておいた。
「ずっと、気になってたことがあるんだけど」
「なになに、このお雛様になんでも訊いてご覧」
「なんで、コンなの?」
「ええ、ちょっと!そんな恥ずかしい事訊かないでよ」
これのどこが恥ずかしい事なんだろう。
「舞って逆から読んだら、いまになるから⋯いまを漢字にして、音読み、みたいな⋯狐っぽくて可愛いな、とか、考えなくもなかったけど」
「なんだ、そんなこと。可愛いじゃん」
「あはは、やめてよ」
顔を隠して笑っているところを見ると、対面での会話が久し振りなんだな、と思う。邪推かもしれないが。
「これから、学校はどうするの」
「んー、亜海が思ったよりずっと早く暴いちゃったから、まだ雛人形ごっこはしようかな。でも」
舞が、飾り気のない笑顔をこちらに向ける。
「そう遠くないうちに、亜海に会いに行くよ。そのときは歓迎してよね」
「当たり前だよ、待ってるから。友達として」
話しながら、長く優雅なまつ毛に見惚れているうちに、永遠に感じるような、一瞬の沈黙が過ぎった。
「ほら、もうこんなに暗い。こんばんはの時間だよ。今日は帰りな、また明日おいで」
「明日は土曜日だけど、いいの?」
「あはは、当たり前じゃん!友達なんだから。待ってるよ」
黄昏が落ち去った暗闇の中に、華奢な腕を振る舞が溶けていった。一瞬のやり取りだったような、そんな気がする。案外あっさりと、雛人形の正体は、私だけに知られることになった。
これからあの雛人形は殻を破り、羽ばたくのだろうか。そのティザー映像を見れたと考えると、私はなんて幸せ者だろう。
そんな思いに耽りながら、夕方の黒露堂を置き去りにした。
「それで?土曜の夕方に僕を呼んで何の用?Xに会わせるとかなんとか言ってたが」
「この人が私にヒントをくれた人だよ、舞。一応彼にも正体を教えてあげようかなって」
「あはは!その節はどうも、なのかな。私がXだよ、お名前は?」
「確か、田んぼくんだったよね」
「へえ、変わった苗字だね。よろしくね、田んぼくん」




