欠片
葬儀から一年が経っていた。
それでも真理子は、父のことを考えない日がなかった。
駅前を歩けば思い出す。
テレビを見ても思い出す。
夕飯の味付けひとつでも思い出す。
そして、そのたびに苦しくなった。
父はもういない。
どこにもいない。
それだけが事実だった。
ある休日、真理子は古本市へ出掛けた。
父が好きだった場所だ。
生前はよく連れ回された。
正直、当時は退屈だった。
会場を歩いていると、一人の男が目に留まった。
本を手に取る。
表紙を見る。
裏表紙を見る。
そしてページを開く前に、そっと紙の匂いを嗅いだ。
真理子は思わず立ち止まった。
父と同じだった。
男は視線に気付き、少し照れたように笑った。
「変な癖ですよね。」
「いえ。」
真理子は首を振った。
「父も同じことをしていました。」
男は本を閉じた。
「それは嬉しいですね。」
真理子は眉をひそめた。
「嬉しい?」
「ええ。」
男は頷いた。
「そのお父さん、本が好きだったんでしょう?」
「大好きでした。」
「なら、嬉しいです。」
真理子には意味が分からなかった。
近くの喫茶店で話をすることになった。
男は古本屋を営んでいるらしかった。
そして男の祖父もまた、本が好きな人だったという。
「祖父は二十年以上前に亡くなりました。」
男はコーヒーカップを眺めながら言った。
「でも、たまに思うんです。」
そう言って笑う。
「死んだはずなのに、まだ残ってるなって。」
真理子は黙って聞いていた。
「本を開く前に匂いを嗅ぐのもそうです。」
「雨の日に読書したくなるのも。」
「面白い本を見つけると誰かに薦めたくなるのも。」
「全部、祖父から貰ったものなんですよ。」
窓の外を見ながら男は続けた。
「人って不思議ですよね。」
「死んだら終わりのはずなのに。」
「案外、自分の欠片をあちこちに置いていく。」
欠片。
その言葉だけが妙に耳に残った。
帰宅した真理子は、自分でも理由が分からないまま観葉植物の前に立った。
父が大事にしていた鉢植えだった。
毎週日曜日になると、父は葉を一枚ずつ丁寧に拭いていた。
子供の頃は変な人だと思っていた。
真理子は雑巾を手に取った。
葉を一枚拭く。
また一枚拭く。
その手が自然に動くことに驚いた。
そういえば。
落ち込んだ時に散歩する癖も父譲りだった。
料理の味付けも。
車を停める位置も。
考え込む時に顎を触る癖も。
数え始めると、次々に出てきた。
真理子は鏡の前に立った。
無意識に顎へ手をやる。
そして、ふっと笑った。
父と同じだった。
父はもういない。
それは変わらない。
会うこともできない。
話すこともできない。
けれど。
完全にいなくなったわけではなかった。
父は、自分の欠片をたくさん置いていったのだ。
鏡の向こうで笑う自分を見ながら、
真理子は小さく呟いた。
「まだいるじゃん。」
返事はない。
それでも、少しだけ寂しくなくなった。




