私を捨てた夫は、何も知らない
「別れてくれ」
夫――フランクは、まるで天気の話でもするみたいな軽さでそう言った。
広間の窓から差し込む午後の光が、彼の金髪を照らしている。
その隣には、見覚えのない女。
ふっくらとした腹部を両手で庇うようにして、フランクに寄りかかっている。
「……今、なんと?」
思わず聞き返した私に、フランクは苛立ったように眉をひそめる。
「だから、離縁だ。彼女――リリアが妊娠した」
〝妊娠〟という言葉に、胸の奥がひり、と痛んだ。
リリアという女は怯えたふりをしながら、けれどどこか勝ち誇った目で私を見る。
「おまえが悪いんだぞ、エレナ」
フランクは、当然のように私を責め始めた。
「俺が何度、子供が欲しいと言ったと思っている? なのにおまえはいつも言ったじゃないか『まだ早い』『今はその時期じゃない』って」
私は、何も言えなかった。
「貴族の妻として失格だ。跡継ぎも産まない、女としての役目も果たさない。だから俺は、ちゃんと子を産んでくれる彼女を選んだ。それだけの話だろ?」
――違う。
違う、違う、違う。
喉まで出かかった言葉を、私は必死で呑み込んだ。
私が役目を果たさない?
子供は早いと言ったのは、誰のためだったのか。
そのことを、彼はまったく気づいていない。
私が嫁いで半年後に、義父が亡くなった。その頃から、伯爵家の領地経営も逼迫し始めたことに気づいた。
凶作が続き、税の見直しと交渉に追われていた。
使用人の賃金も、ぎりぎりだった。
それらを一つ一つ整理し、夜遅くまで帳簿をつけていたのは――私だ。
あなたは、夜会で女遊びをして……この家のために何をしていたって?
「……わかりました」
静かにそう言うと、フランクは拍子抜けした顔をした。
「それでは私は、実家に戻らせていただきます」
「は?」
「離縁をお望みなのでしょう? でしたら、荷物をまとめ次第、すぐに」
「……ちっ、随分素直だな」
何が不満なのか、フランクは舌打ちした。
「おまえは本当に可愛くない女だな。もっと泣いて縋ってみたらどうだ? そしたら、使用人として使ってやってもいい」
そう言って、彼は鼻で笑った。
「お断りします」
「……まぁいい。どうせ実家に帰ったところで、おまえに居場所なんてないだろう。後で泣きついてくるなよ」
私はそれ以上何も言わずに一礼し、部屋を出た。
後で泣きついてこないでほしいのは、あなたのほうよ。
背中越しに聞こえたのは、女の小さな笑い声と、フランクの安堵したような息だった。
……彼は、まだ気づいていないのね。
自分が、何を失ったのかを。
*
実家は、王都から遠く離れた小さな男爵領。
「よく帰ってきたね、エレナ」
母は、何も聞かずに私を抱きしめてくれた。
父は無言で頷き、私の荷物を運ぶのを手伝ってくれた。
そして。
「久しぶりだな」
幼馴染のカイルが、少し照れたように笑って私を迎えてくれた。
彼は、私より二つ年上。
やわらかい表情に、美しい銀色の髪。少し見ない間に、ぐんっと背が伸びて、体格もよく、男らしい顔つきになっている。
でも、彼から溢れ出ている優しい雰囲気は、昔と変わらない。
父同士が親友で、よく私の領地に遊びに来ていた、伯爵家の次男。
子供の頃から、いつも一緒に畑を駆けまわっていた相手だ。
数年前、父の勧めで隣国に留学し、領地経営や商学を学んできた。
貴族として、土地を守り、人を生かすための学問。
昔から変わらない、穏やかな琥珀色の瞳。
今は父の右腕として、うちの領地運営を支えているらしい。
今の男爵領が安定しているのは、間違いなくカイルのおかげだ。
「変わっていないのね」
「エレナは少し……痩せたか?」
その一言で、胸の奥に張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。
私はここでやっと、深く息をつけたのだ。
フランクとの結婚は、政略的なものだった。
三年ほど前――。
この男爵領は、酷い天災に見舞われた。
長雨による洪水。続く冷害。
畑は流され、倉庫は空になり、税を納めるどころではなくなった。
領地は静かに、しかし確実に、破綻へと向かっていた。
「このままでは冬を越せない」
父がそう呟いた夜のことを、今でもはっきり覚えている。
机の上には赤字の帳簿。消せない数字が、いくつも並んでいた。
父は領民に慕われ、有能な領主だった。その父でさえもどうしようもならないほどの、天災だった。
そこに持ちかけられたのが、伯爵令息であったフランクとの縁談だった。
「資金援助と引き換えに、結婚を」
露骨な条件だったけれど、選択肢はなかった。
フランクには社交界でいい噂がなかった。女遊びが激しく、金遣いが荒いことも知っていた。
私は一晩考えて、頷いた。
家のために。私が嫁ぐことでこの家と領地が救われるなら、それでいい。
そう思ったからだ。
父はこのお金で、きっと領地を立て直してくれる。そう信じることができた。
転機は、二年半前に伯爵が急死し、フランクが爵位を継いだときだった。
突然の父の死。
大きな領地。
多くの使用人。
重すぎる責任。
遊んでばかりいたフランクには、荷が重すぎた。
だから、私が領地経営を手伝った。
私は、幼い頃から父の領地経営を見て学んできた。
社交の場よりも、領地で父の仕事を手伝うほうが好きだった。
将来は父を支えようと、密やかに思ったこともある。
フランクの家――伯爵家の財政は、意外にも酷かった。
放漫経営、無計画な浪費、帳簿の不備。
このままでは、いずれ破綻する。
うちに資金援助をしてくれた恩もあったため、私は必死で立て直すことに決めた。
だから、子供の話が出るたびに、私は首を横に振った。
「まだ早いわ」
フランクに愛などなかったし、夜遅くまで帳簿に向かい、交渉に出向き、頭を下げる日々に、心も身体も、余裕なんてなかった。
でも、フランクは何も見ていなかったのだ。
もう、私は戻らない。
実家での生活は、驚くほど穏やかだった。
私は再び帳簿を見て、作物の流通を整え、領民と話し合いを重ねた。
父はそれを「助かる」と言い、母は「無理をしないで」と微笑む。
夜には、家族と食卓を囲んだ。
時々、カイルも一緒だった。
笑って、話して、眠る。
こんな日常を、私はいつから失っていたのだろう。
ひと月ほどが経った頃、噂が届いた。
〝元夫の領地が、荒れている〟と。
税の徴収が滞り、使用人は辞め、領民が不満を募らせている、と。
私は何も言わなかった。
だってそんなこと、予想できたことだから。
ただ、少しだけ、苦笑した。
*
――おかしい。
そう思ったのは、いつからだっただろう。
『フランク様のご寵愛を受けているリリア様、最近は別の男とも仲がいいらしいわよ』
社交の場でそんな噂を耳にしたとき、僕は鼻で笑った。
――そんなはずがない。
だが、胸の奥に、ちくりと嫌な棘が刺さったような感覚が残った。
だから、リリアが「親しい友人と会うから、お金が必要なの」と言ってきたその日、僕は彼女の後を追った。
馬車を降り、裏路地へ入っていくリリア。
薄暗い、酒場の裏口。
こんなところで、友人に会う?
すでに違和感だらけだったが、その先で聞こえてきたのは――。
「ねぇ、そんなに強く抱かないで? お腹に赤ちゃんがいるんだから」
「……父親が誰か、わかってんのか?」
「さぁ? でも、あなたに会うためのお金には、困らなくなりそうよ」
甘えたリリアの声と、知らない男の荒々しい声。
嘘だろう……?
僕は震えながら、扉を蹴り開けた。
「リリア――!」
狭く、薄暗い部屋の中。
リリアは、見知らぬ男の腕の中にいた。
唇は重なり、指は絡み合い、言い逃れのできない、決定的な光景。
「フ、フランク様っ!? ち、違うの、これは……!」
「何が違う! 妊娠している女が、こんな場所で何をしている!?」
怒り狂う僕に、男が露骨に舌打ちをした。
「なんだよ、貴族様か。うるせぇな。金だけ出して、さっさと帰れよ」
「なんだと!?」
「あんた、この女に騙されてるぞ」
「ちょっと、余計なこと言わないで……!」
ははは、と、男は軽く笑った。
男にとってリリアは、客の一人にすぎないようだ。
リリアは顔を青ざめて、「違うのよ、フランク様」と呟いた。
何も違うことはない。
僕を騙した?
誰の子かもわからない……?
「ふざけるな!!」
頭の中が真っ白になり、僕は叫んだ。
「僕の妻を追い出して、誰の子かわからない腹を抱えて、金をせびっていたのか!」
「は……、何よ、あの女を追い出したのは、あなた自身でしょう!?」
「……っ」
リリアも、負けじと言い返してきた。
もう、僕から金をもらうのは無理だと、開き直ったようだ。
ああ……これがこの女の本性だったのか……!!
「もういい。二度と僕の前に姿を現すな!」
「もし本当にあなたの子だったら、どうするのよ!?」
「知るか! おまえの〝恋人たち〟に、どうにかしてもらえ!」
「最低!」
叫び声を背に、僕は部屋を出た。
ああ、ああ……なんということだ。
すべて、間違っていた。
エレナを追い出してしまった。
僕に残ったのは、収まらない苛つきだけだった。
それから、領地は一気に傾いた。
税が集まらない。使用人が辞める。
僕は今まで、何も見ていなかった。
誰がこの領地を支えていたのか、気づいていなかった。
「……エレナ」
領地は、崩れる寸前だったのだ。
だからエレナは、必死で立て直そうとしてくれていたのだ。
彼女は、美しいだけの女ではなかった。
強くて、賢くて、物事をしっかりと考えられる女性だった。
「……なんて、いい女だったんだ」
気づいたときには、もう隣にはいない。
*
実家に帰って数ヶ月が経った、ある日のことだった。
「エレナ!」
屋敷の門前で、聞き覚えのある声がした。
そこに立っていたのは、憔悴しきった元夫――フランクだった。
「迎えにきた」
その言葉に、私は心の中で溜め息をついた。
「……なんのご用でしょうか」
「帰ってきてくれ。俺が悪かった」
深々と頭を下げる彼を、私は静かに見下ろした。
「彼女には……他にも男がいた。腹の子の父親が誰なのかは、わからないんだ」
そんなこと、知りません。と言いそうになるのを、ぐっと堪える。
「それに、領地の仕事も……全部、おまえがやっていたんだな」
今さら気づいたように、彼は言った。
「おまえがいないと、何も回らない。俺には……おまえが必要だ」
その言葉を聞いて、私は確信した。
この人は、最後まで、何もわかっていない。
「だから、言ったでしょう?」
私は、微笑んだ。
「まだ、子供は早いって」
「エレナ……」
「あなたの領地は、崩れる寸前でした。もう少しで立て直せそうだったというのに……」
フランクは、言葉を失ったように黙っている。
「すべてを私に丸投げして、何も知ろうとしなかった、あなたの責任です」
「エレナ、僕は……!」
「あなたは、私を裏切った」
私は、はっきりと言った。
「エレナ……」
「もう、遅いです」
そう告げて、踵を返そうとした私に、フランクは尚もすがる。
「待ってくれ! 僕たちはやり直せるはずだ!」
「……いいえ」
けれど私は、首を横に振った。
「あなたなんか、もう知りません」
門が閉まる音が、やけに大きく響いた。
それは、過去と今とを、きっぱりと切り分ける音だったのだと思う。
「大丈夫かい?」
そんな私をそっと見守るように立っていたのは、カイルだった。
「ええ……大丈夫よ」
私は、顔を上げて微笑んだ。
もう、振り向かない。前を向く。
震えてもいない。泣いてもいない。
自分でも驚くほど、心は静かだった。
「強くなったな」
カイルは、ふっと微笑んでそう言った。
「昔だったら、きっと無理して笑ってた」
「……覚えているのね」
「当たり前だろう」
フランクの前に現れて追い返すことはせず、そっと見守ってくれていた。
それが、彼の優しさだ。
「家族みんな、あなたには本当に支えられているわ」
私がそう言うと、カイルは首を横に振った。
「支えてきたのは、エレナだよ。父君も、母君も。君にいつも感謝していた」
「そんな……」
私がいない間も、三人で私の話をしていたの?
それを想像すると、少し恥ずかしくて、でも、なんだか胸があたたかくなる。
「これから、どうするんだ?」
「この領地を、守っていきたい」
父と母――そしてカイルが守ってきてくれた場所を、今度は私が守る。
それを伝えると、カイルは少しだけ目を細めた。
「それなら、俺にも手伝わせてほしい」
まるで、当然のように。
そう言って、彼は笑った。
「でも……あなたももう、自由にしていいのよ?」
その言葉に、カイルは困ったように微笑んで、一度目を伏せた。
「自由だよ」
そして、まっすぐに私を見つめる。
「留学も、戻ってきたのも、ここに残るのも……全部、自分で決めた」
そっと私の手に触れ、その手を優しく包み込むカイル。
「俺は、エレナの隣にいたい」
「え――」
「これからは、俺が君の隣にいるよ。どんなときだって、一緒に悩んで、一緒に考えよう」
「カイル……」
それは誓いでも、命令でもなかった。
選択肢を私に残したままの言葉。
「……ありがとう。あなたとなら、きっと――」
私は少しだけ目を伏せてから、顔を上げた。
私は知っている。
自分の価値を。本当に守りたいものを。
そして――本当の幸せを。
お読みいただきありがとうございます。
婚約者が浮気していると思ったら……な、お話しの、連載があるのでこちらもよかったら覗いでみてくれると嬉しいです!m(*_ _)m
『王女との浮気現場に突入したら、なぜか婚約者からの溺愛が始まりました』
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明るいお話です!
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