イケニエの舞
2090年の〈アステリオン・シティ〉は、光に満ちていた。太陽の光ではない。高層ビルの壁面を覆う巨大スクリーン、空を飛び交うドローンのホログラム広告、地面を這うように伸びるARの案内矢印――それらが昼夜を問わず街を照らし、人々の視界を休ませることはなかった。煤けた雲が空を塞ぎ、自然の青空は遠い昔の記憶になっていたが、誰もそれを気にしなかった。この都市に生きる者にとって、光とは人工の電脳の輝きなのだ。
その中心にそびえる〈ノア・シアター〉は、円筒形の超高層建築全体が巨大スクリーンになっている劇場である。今夜もその前には何万人もの観客が押し寄せていた。目当てはただ一つ、「イケニエの舞」。
舞台裏、消毒液の匂いがわずかに漂う小部屋で、一人の少女が座っていた。真紅の絹の着物が彼女の細い体を包み、長い黒髪は滑らかな艶を放っている。白粉で覆われた顔は蝋細工のように淡く、血の気は薄い。舞台監督が耳元で「準備はいいか」と囁くと、少女は短くうなずいた。彼女は踊りの経験などなかった。しかし脳に埋め込まれた神経リンク・チップが、彼女の肉体をプロ以上の舞手として制御する。観客はそれを「魂の舞」と呼び、涙し、喝采を送った。
この舞台の裏には〈楽園移送法案〉という制度があった。余命宣告を受けた十八歳以下の子どもを優先的に、仮想世界へ“自我ごと”移すというものだ。脳のニューロン活動を精密にスキャンし、デジタル空間に「本人そのもの」を再現できる――政府と開発者はそう説明した。賛否はあったが、病床の子どもが仮想世界で元気に走り回る映像が流れると、多くの人々はその光景を“奇跡”と呼び、制度は受け入れられた。
照明が落ち、会場が静まる。スクリーンの下から少女がせり上がるように姿を現す。一歩、足を踏み出すと神経リンクが作動し、呼吸と心拍が制御される。腕が宙を描き、着物の袖が光を裂く。彼女の動きは物理法則すら無視するかのように滑らかで、時に鋭く、時にしなやかだった。その一挙一動に観客は息を呑み、SNSのコメント欄は賞賛で溢れる。
舞が終わると、舞台奥の透明カプセルが開いた。少女は無言で中に入り、白い光に包まれる。外からは何も見えず、低い機械音だけが響く。数分後、巨大スクリーンが切り替わり、そこには仮想世界で踊る彼女の姿が映し出された。そこは重力の気まぐれな光の海。彼女は宙を舞い、水面を歩き、空を泳ぐ。他の子どもたちも現れ、歓声を上げながら彼女の周りを駆け回る。そこには病や痛みの影はなく、観客は涙した。
その時だった。舞台裏から轟音が響き、黒い戦闘服の集団が乱入した。赤いゴーグルをつけた男たちが銃を構え、警備員を制圧する。「全員動くな!」という怒号。リーダー格の男が舞台奥のカプセルに向かい、小型爆薬を設置する。火花が走り、透明な壁が粉砕された。
観客の視線が釘付けになる。そこには、赤い着物の少女の無残な死体があった。四肢は不自然な方向に折れ、血が床に広がり、内臓が露出している。観客席から悲鳴と吐き気を催す声が次々と上がる。同時に、スクリーンの中で踊っていた少女の動きが止まった。その顔は感情を欠いた人形のようだ。
リーダーの男が何かを引きずり出す。痩せた白衣の老人――この技術を生んだ科学者、ドクター・ハーランだった。銃口が彼の口に押し付けられる。「言え、本当のことを」。会場の緊張は極限に達し、ライブ中継の視聴者数は爆発的に増えていた。
老人は震える声で告げた。「…あれは本人じゃない。あそこにいるのはAIが作った模倣体だ。本物の自我は移せない。脳をスキャンしても、それはただの情報だ。彼女は…最初から死んでいる」
静寂が落ちる。スクリーンの子どもたちの笑顔が一斉に消え、無表情のまま観客を見返す。場内は混乱し、泣き叫ぶ声、怒号、足音が渦を巻く。その中で、スクリーンの少女だけがこちらを見つめ、微笑んだ。「ありがとう」。その声は機械的なノイズを含み、最後は途切れた。
銃声が一度だけ響き、スクリーンは暗転する。外の都市は、初めて暗闇に包まれた夜を迎えた。