11−5 蝶の羽音
『とろとろ』
微かな声でした。
微かな声ですが、紛れもなくそれは夜久巴さんのものでした。
「離れて...!」
私は咄嗟にそう叫びました。
もる子さんはハッとしてから、距離を取ります。
「なにかわかった?江戸鮭ちゃん」
「分かりません...分かりませんけど、気づいたことは」
「どんなこと?」
「...まだ確信がないです」
「そっか。じゃあどうすればいい」
「近づいてください。夜久巴さんに、出来ればお顔の近くに」
「顔?」
「はい...。何か、聞こえるんです」
「そっか。わかった。江戸鮭ちゃん。気づいたらすぐに言って。私は言われた通りに動くから」
「は、はい...」
「よし。じゃあ、ちゃんとしがみついててね」
「え?はぃ、はいぃ!?」
あらん限りの速度で詰め寄るもる子さんですが、先程のように声が聞こえることはありません。
何かの聞き間違いだったのか、それとも希望にしがみつきたい私の幻聴だったのか、淡くも期待は散りかけていきました。
そのとき何度目か、また足元が取られました。
よろめくと同時に後方に大きく飛びましたが、私を放り出すようにして、もる子さんは転倒します。
絶望的なピンチでした。
ですがそれは私の中で確固たる解答につながるものでもあったのです。
足元が取られる瞬間、夜久巴さんは口に手をやりました。
まるで「静かに、ね」と言わんとするように、幼子を宥めるように、突き立てられた一本指。
それは彼女の癖なです。
彼女が言葉を発するときの癖なのです。
そして確実に私は耳にしました。
彼女が言った『どろどろ』という言葉を。
「走って!」
私は咄嗟にそう言い放ちました。
言葉を耳にするやいなや、彼女は体制を立て直しながら無言で駆け出します。
その姿を見た夜久巴さんは不敵に笑みを浮かべます。
もちろん一緒に、唇に指を当てたのです。
そして本当に微差というように唇に動きがありました。
もる子さんの位置は既にいつもの間合いです。
ですが、このまま一撃を加えても絶対に避けられるか、当たらない事はわかっています。
ですから、私は賭けに出ました。
「走って!」
もう一度叫んだのです。
互いの間合いを保たせることなく、絶対的なゼロ距離まで。
想定外と言うように夜久巴さんの表情が歪みましたが、それも一瞬の出来事です。
ですが、これで行くしかない。
そうしてもる子さんが彼女を、夜久巴さんを通過する瞬間、その瞬間に私はもう一度叫びました。
「ストップ!!」
地面が削れるほどの急制動。
もる子さんの体は、絶対にありえないことですが夜久巴さんを通過している途中で止まったのです。
「え?」
静寂と土埃に、夜久巴さんに似つかないとぼけたような声が響きました。
続きは今日中