6 モルス大森林
モルス大森林は、王都から東へ向かった先に広がっている。
遠目には美しい。しかし一歩踏み入れれば、生きて戻る保証はない死地と化す。
木々が視界を遮り、太陽すらも隠し、方向感覚を奪う。足場は悪く、数多くの魔物も生息していることから、かつては魔の森とも言われていた。
一方で、そこから取れる木材は良質で丈夫であり、高値で取引される。そのため、度々王国が兵の部隊を派遣しては資材の採集し、市場に流通させていた。
その日もまた、王国兵の部隊が任務にあたっていた。日が沈み、辺りを闇が支配しはじめた頃である。
森の中には、濃い霧が広がっていた。
「ハァ……ハァ……」
落ち着かない呼吸を必死に整える兵士が一人。
彼は大地に隆起した大樹の根に身を隠しており、右腕と右足には深い傷を負い、動くことすら出来ない。
蒼白の顔に浮かぶ両目はギョロギョロと動き回り、僅かな物音にすら心拍数を跳ね上げる。
空気の中に血生臭さが混ざり込む。
彼の体は、乾いた血でざらついていた。だがそれは、自分のものだけではない。周囲に散らばる、無数の肉片によるものであった。
腕、足、そして頭。甲冑ごと枯れ枝のように粉砕され、割られ、或いは千切られた、かつて兵士だったものの残骸である。
それも、一人二人のものではない。数える気すら起こらぬ程の、おびただしい数の死体が凄惨に散らばっていた。
(なんだアレは……なんなんだよ……!)
兵士の脳裏に、先刻の悪夢が蘇る。
いつもの任務のはずだった。大部隊で森を訪れ、野営をしていた時、それは何の予兆もなく現れた。
まさに悪夢としか言いようのない光景だった。
数百名の兵が、まるで落ち葉のように吹き飛ばされ、指揮の声も、剣戟も、詠唱も、悲鳴さえも、すぐに聞こえなくなった。なす術もなく、兵の部隊は数分と持たずに壊滅したのだった。
見たこともない魔物だった。
全体像は暗がりで見えなかったが、頭部は人間の女に似ていた。実に美しく、恐ろしいほどに。だがそれは精巧な彫刻のように余りに整いすぎていて、魂の欠片も宿していなかった。
二つの目は仄黒く揺れ動かない。波紋一つない沼のように深く淀み、見る者を闇に沈める。口は頬まで裂け、まるで微笑むかのように人を食い漁る。
そしてその悪夢に刻まれた鳴き声は、実に独特なものであった。
「フロロロロ……」
また、奴の声が聞こえた。
一瞬で世界が凍り付いた、その刹那――。
メキメキメキ……!
兵の守り木は脆くも破壊される。大樹は倒れ、根は引き抜かれ、地面が抉られ、怯える兵は、巨影の前に晒される。
「あぁ……ああぁ……」
声も、口も、身も震わせ、涙で滲む視界はその影を捉える。涙が勝手にこぼれていた。声を出そうにも声帯が凍りついたかのように喉が渇き、ただ生きたいと心が叫ぶ。
「フロロロロロ……」
「うああああああ……!!」
誰の耳にも届かぬ彼の声は、直後に途切れる。
そしてモルス大森林は、惨劇も悲鳴も呑み込み、平然と静謐なる夜に戻るのだった。
霧は未だに広がる。
それはまるで、滴り落ちる飢えた獣の涎のようだった。
――これら一連の出来事が王国に伝わったのは、数日後のことであった。
◆
王都の中央にそびえ立つ純白の王城。
その袂にある施設では、この日も激しい訓練が行われていた。掛け声を響かせ、汗を流し、時に出血すらも厭わず、彼らはひたすらに研鑽を積む。
彼らは皆、白き鎧を身に纏っていた。
その鎧こそが彼らの誇り。
彼らの名は、王国騎士団。
兵の中でも選りすぐりの強者で結成され、一度任務に出れば必ず大きな戦果を収める、王国最強の組織である。
そして騎士団の司令部では、険しい表情で報告書に目を通す女性がいた。
まだ若いが背は並の男よりも数段大きい。薄い栗色の髪を後ろで結び、視線は鋭く、腰に携えるやや大きな剣がよく似合う。
そして彼女は、装備とは裏腹に美しかった。
「――部隊は壊滅、か……」
「はい。現場は酷い有様でしたよ」
彼女が目を通していたのは、モルス大森林での事件報告であった。
モルス大森林に入った部隊は、帰還予定日になっても戻らなかった。そのため救助部隊が急遽編成され森へと向かったのだが、そこで見つかったのは、痛ましい悲劇だけであった。
その報告を受ける女性こそ、若くして王国騎士団副団長を務める才女、エリス・クロムハーツである。
彼女は報告書をそっと机を置くと、数秒目を閉じ、犠牲者を悼む。
「……御苦労だったフィル。生存者は?」
「第一陣では発見出来ませんでした。しかしあれほどの惨状です。生き延びた者がいるとは到底考えにくいでしょう」
「そう、か……。魔物の仕業か?」
「そうとしか考えられません。しかし、それにしては妙な点が……」
「妙な点?」
「魔物の痕跡が見つからなかったんです。小型の魔物が死体を喰い漁った跡はあったんですが、遺体の損傷を見る限り、兵達を襲ったのはかなりの大物。そんな魔物が襲ったのならば、当然兵達も迎撃したことでしょう。しかし足跡はおろか、毛の一本すらも見つからなかったんです。正直気味が悪かったですよ」
「見えざる大型の魔物か。十中八九、特殊個体だろうな」
更にフィルは続ける。
「それと、もう一つ気になることが。近くの街の住民が言っていたのですが、大森林で濃い霧が発生していたそうです」
「霧……? それが何か関係あるのか?」
「現時点では何とも……。いずれにせよ、元老院からは早急に討伐せよとの指示が出ていますね」
報告しながら、フィルは思わず呆れ笑んだ。
釣られてエリスも冷笑する。
「能力どころか、姿形すらも分からない特殊個体を早急にとはな。相変わらず、あの御年配共は好き勝手言ってくれる」
しかしエリスは、すぐに表情を戻す。
「だが、早急に対処する必要があることは間違いない。この件についてギルドに依頼を出すという選択肢もあるが……」
「間違いなく、元老院からは猛反対されるでしょうね」
「反発が起きるのは騎士団でも同じだろう。お前とてそうじゃないか?」
その光景を想像したフィルは、思わず口を尖らせた。
「……あー、正直嫌ですね。ムカッ腹が立ちます」
「そういうことだ。無論相手次第ではそれも視野に入れる必要はあるが、それは最終手段だ。彼らに借りを作ると後が怖い」
「では、早速部隊編成をしますか?」
「そう、だな……」
歯切れ悪く返答する彼女は、胸騒ぎに眉をひそめる。
エリスは考えていた。
確かに騎士達はそれぞれが別格級に強い。だが壊滅したのは一般人ではなく、訓練された兵の部隊なのである。
仮に騎士団で部隊を編成し討伐に向かったとして……果たして、何人が無事に帰還できるだろうか。
(もっと確実な戦力が欲しいところだな。元老院からも反対されず、ギルドとの関係も薄く、特殊個体とも戦える戦力が。しかし、そんな都合のいい奴なんて……――)
ふと彼女の脳裏に、とある人物の顔と声が浮かび上がる。
――僕がエリスを守るよ――
それは、彼女の記憶に鮮烈に焼き付いた光景。
絶望が希望に変わり、初めての感情が芽生えた瞬間であった。
(……余計なお世話だ。バカモノ)
いつの間にかエリスの心は熱を帯び、表情は柔らかくなっていた。
彼女の変化に、フィルはすぐに気付いた。
「どうかしましたか?」
「……いや、私も案外、面の皮が厚いものだと呆れたんだ」
(今更どの面下げて奴に頼むつもりだろうな、私は)
その案を思いついた自分に、心底嫌悪感を感じる。
しかしそれ以上に、彼が来てくれると想像しただけで、先程までの不安は影を潜めていた。これ以上の最善策は存在しないと、強い確信を持つほどに。
「……一人、心当たりがある。そいつに助力を求める。士官学校時代の知り合いでな。今は、最果ての地で領主なんてものをしている」
「最果てで領主? ……もしかして、ヨハン・ウォレスですか?」
その名を口にした時、フィルの眉間にかすかな皺が寄った。胸の奥に針のような何かが刺さる。
「ああ。奴を討伐部隊に組み込む」
フィルは露骨に疑心を目に宿した。
「ヨハン・ウォレスのことは知っていますが……なぜ奴を? エリス様には悪いですが、たかが辺境の領主を呼んだところで……」
彼の言葉には棘があった。
憧れ以上の感情を密かに抱く彼にとって、エリスが別の男の名を口にしたことがどうにも癪に障る。
「フィル、お前はウォレス領について何を知っている?」
「最果ての荒野ということは。街どころか、民一人いないと聞いていますが」
「その通りだ。正直に言えば、あの地に領主を置く意味などほとんどない。重要なのは、あそこにヨハン・ウォレスがいるということだ」
「どういう意味でしょうか?」
「いずれわかる」
そしてエリスは席を立つ。
「どちらへ?」
「城に行き、陛下に謁見を賜る」
「へ、陛下に!? なぜですか!?」
「領主たるヨハンを動かすことが出来るのは陛下のみ。故に、勅命を出して頂けるよう陛下に直訴するつもりだ」
驚くフィルを横目に、エリスは身支度を整える。
「し、しかしエリス様! 騎士団には優秀な者も多く、この俺だっています! 何もそこまでしなくとも……!」
「違うぞフィル。そこまでしてでも、だ。何しろ奴は……」
エリスは立ち止まり、胸の内に問い質す。
なぜそこまでするのか。なぜ彼が必要なのか。
強いから……確かに彼の力は知っている。だか本当にそれだけなのだろうか。
……そんなことなど、聞くまでもなかった。
そしてフィルに向けた彼女の顔に、国騎士団副団長としての面影はなかった。
純粋なエリス・クロムハーツとしての、不器用なはにかみ顔であった。
「……何しろ奴は、私が惚れた男だからな」
面映さから、彼女は逃げるように部屋を出ていく。
彼女の中には、未だやましさがある。それでも、その足に迷いはない。
かつて目にした彼の面影は、それほどまでの輝きを放っていた。
一方、フィルは。
「惚れ……って、え? え? えっ!?」
思いも寄らないエリスの言葉を耳にし、現実と逃避の狭間で慌てふためいていたのだった。