11 大蛇のうねり(後編)
「ヨハン! 嘘でしょ……ヨハン!」
アウメリアは必死に彼を呼ぶ。しかしエリスがアウメリアの肩を強く掴んだ。
「ヨハンなら大丈夫だ! あいつがそう簡単にやられるわけがない!」
目を見開き、エリスは大声を出す。
それはアウメリアだけでなく、自分への言葉でもあった。
「それより、気を引き締めろ! ヨハンはいない! 残りは、私たちで討伐するぞ!」
「え、ええ! わかった!」
エリスとアウメリア、他の騎士たちは、改めて霧喰に相対する。
「フロロロロ……」
霧喰は宙に座し、威圧的にエリスたちを見下ろす。
大きい――。
アウメリアはそう思った。
胴体は大樹の峰のように太く、全長は棚引く雲のように長い。だが、その巨体を持て余している様子は一切ない。まるで指遊びをするかのように、霧喰は胴体を延々とくねらせていた。
エリスは騎士たちに指示を飛ばす。
「散開ッ! 包囲陣形、方円の形!」
「了解!」
騎士たちは一斉に動く。エリスの号令に、訓練により彼らの中に刻まれた「騎士団の型」が甦る。
包囲が完成しつつある中、アウメリアは魔力を練り始める。
足手まといになるつもりはない、なりたくない。誰よりも強く思っていた。
ゆらり……と。
空を泳ぐ巨体が、地上の騎士たちに影を落とす。
「来るぞッ! 備えろ!」
エリスの叫びと同時に、霧喰は体を鞭のようにしならせる。巨体による鞭打は地面を抉り、騎士の複数名が装備を砕かれ吹き飛ばされた。
しかし騎士たちは恐れを飲み込む。
「怯むな! 包囲しろ!」
「行け行け行け!」
誰一人として背を向ける者はいなかった。
彼らの動きを目で追っていた霧喰は、「フロロロ」と声を出す。すると表皮に粘着性の体液が滲み始め、そこから空気より重い水蒸気が溢れ出した。
エリスは強く舌打ちをする。
「霧を出すつもりか! 弓を持つ者は牽制しろ! 奴に霧を出させるな!」
雨のような矢が霧喰に降り注ぐ。しかし大蛇の表皮は厚く、粘り気のある体液のせいで傷一つ付かない。矢は刺さるどころか、滑り、弾かれていく。
その光景に騎士たちは歯軋りする。
「くそっ! どういう化物なんだコイツはよ!」
「――あなた達、どきなさい!」
動揺する騎士たちをアウメリアは一喝した。
顔に決意を浮かべた彼女は、両手を広げ魔力を集中させていた。
それを見たエリスは即断する。
「陣形解除ッ! 散開!」
数秒もかからず、騎士たちは一斉に霧喰から距離を取る。
そして霧喰が再び動き出すその前に、アウメリアは魔術を放つ。
「炎よ、煉獄の檻と化せ――“炎獄魔法”!」
霧喰の真下から猛烈な火柱が立ち昇り襲いかかる。その炎はまばゆく、焦げた腐臭を漂わせながら瞬時に霧喰を体を焼く。
「うぐっ……ぐぐっ……!」
アウメリアは懸命に魔力を込め、可能な限り火柱を維持させた。だが霧喰は一撃で倒れるようなことはない。火に包まれた体をくねらせて、纏わりつく炎を振り払った。
放たれた魔法は飛散し、火柱は空気に消えた。
「こ、これでもダメなの……!?」
またしても通じないのか――アウメリアが絶望しかけたその時である。
「アウメリア! 顔を上げろ!」
エリスの叫び声が聞こえた。
「見ろ! 皮膚が焦げ、霧を出せなくなった! 効いている証拠だ! お前の魔法は効いているんだ!」
「――――ッ!」
「もう一度だ! あと一撃、直撃さえさせれば――!」
「――倒せるってことね!」
アウメリアの目にも炎が宿る。魔法の火熱で痛む手を無理やり動かし、再び魔力を集め始めた。
しかし霧喰に待つつもりなどなかった。
「フロロロロ!」
霧喰が叫びながら山津波のように突進してくる。
その勢い、その圧力を見たアウメリアは瞬時に悟った。
(躱せない――!)
アウメリアの顔から血の気が引いた時である。
「――うぉおらぁッ!」
一人の騎士が間に入り込み、霧喰の頭部に戦斧を叩きつけた。魔力帯びた斧は紫の光が放たれ、激しい金属音と共に弾き、その突進はアウメリアから逸れる。
無論騎士も無事ではない。
砕けた両腕が無惨に垂れ下がり、一目で戦える状態ではないとわかった。
「うぐッ……くっ……!」
騎士の呻き声に、アウメリアはハッとする。
「ちょ、ちょっとあなた! いったい何を――!」
そして彼女は気付く。
自分の前に、騎士たちが武器や盾を構え立ち、守ろうとしていることに。
それを指揮するのは、やはりエリスであった。
「アウメリアを守れ! 必ず彼女が、突破口を開く!」
「おおおおおお!!」
「…………ッ」
エリスの号令と騎士の叫びに、アウメリアの目頭が熱くなる。喜びでも感謝でもない感情を滾らせる情熱が、胸の中から外側へ広がっていく。
霧喰は再び体をくねらせ始めていた。
「アウメリア!」
「わかってるわよ! エリス!」
彼女は体に残る魔力を総動員させる。
「炎よ! 煉獄の檻と化せ――!」
一瞬、アウメリアは霧喰と目が合う。
その目はどす黒く濁る。しかしアウメリアに、もはや恐れはない。
「――“炎獄魔法”!」」
再び放たれた火柱は霧喰を囲み、その体をさらに焼き尽くしていく。今度はその効果が見える。霧喰の動きが鈍くなり、表皮が少しずつ茶色に染まり色を濃くしていく。
――その隙を、エリスは見逃さなかった。
強く跳躍した彼女は炎の壁を突き破り、霧喰の眼前へと迫る。
その剣先は、霧喰の眉間に定められた。
「さらばだ……霧喰ぃッ!」
エリスの剣が霧喰に突き刺さる。
その一撃は正確無比、刃が表皮を割り、骨をも砕き、最後にはその命を奪う。
「フロロロロ……」
一度だけ、霧喰は弱々しく鳴き声を出す。
しかしすぐにそれも枯れ、巨大な体から一瞬のうちに力が抜けた。
大蛇が宙から崩れ落ちる。
地上にぶつかると重い地響きで地面を揺らし、周囲の騎士たちはその威圧感に一歩下がった。
「ハァ……ハァ……!」
アウメリアは、もう立ち上がる余力も残っていない。魔力をほとんど使い果たし、全身から力が抜けていた。
エリス達は彼女を守るように陣形を組み、様子を伺う。しかし霧喰は、ピクリとも動かなかった。
「……対象、沈黙」
エリスは、任務の達成を宣言した。
その瞬間、騎士たちはようやく表情から力を抜き、ある者は仲間と拳をぶつけ合い、ある者は座り込む。
勝利の喜びよりも、安堵が強く出ていた。
アウメリアもまたその場に崩れ落ち、地に手を突いたまま息を整えている。
エリスは、彼女の横まで来ていた。
そして小さく微笑み、同様に腰を降ろす。
「何とかなったな。ありがとう、アウメリア嬢のおかげだ」
「当然よ、当然。……でも、あなたの最後の一撃、見事だったわ」
「ふふふ……当然だ」
二人は、クスクスと笑い合った。
するとエリスは一呼吸強く息を吐き出し、「さて……」と呟いて立ち上がる。
「私はこれからヨハンを迎えに行く。アウメリア嬢はここで休んでいてくれ」
「え? で、でもまたあの化物と戦うのよね? エリス一人だけなんて……」
エリスは首を横に振った。
「どうやら君は、ヨハンのことをまだよくわかっていないようだな。あの程度の魔物であれば、奴一人で討伐してる頃だろう」
「え?」
アウメリアは、エリスが何を言っているのか理解出来なかった。
一体目は不意打ちのような形で撃沈した。しかし二体目には通じないであろう。
そんな化物を……自分と騎士団が総力を上げてやっと討伐した化物を、ヨハンは単独で討伐できるのだという。
「ねえエリス。ヨハンって、いったい――」
アウメリアが言い終える前である。
それは余りにも突然に、彼女達の耳に届いた。
「――フロロロロ……」
瞬間、その場にいる者全てが動きを止める。
視点は固まり、指の一本すら動かせず、耳に届いた信じられないその声を何度も脳内で聞き返していた。
「……ま、待って。何、今の声……」
アウメリアが呟くと、巨大な影が、ゆっくりと、しかし確実に広場を飲み込んでいく。
頭上から濃密な殺気が降り注ぎ、空気が肌にまとわりつくような不快感をもたらした。
全員が顔を上げる。
その視線の先、そこに浮かんでいたのは、霧喰。
黒い二つの瞳で、エリスたちを睨んでいた。
胴体には穴が空き、白い体液がボタボタと落ちていた。
それは、ヨハンが最初に撃墜した個体。
深い傷を負いはしたが、絶命には至っていなかった。
「なぜ、こいつが……」
エリスさえも、悪夢の復活に顔を青くする。
その一言が、全員の胸に突き刺さった。
「フロロロロ……」
霧喰の声に、風が止まり空気が淀む。まるで空間そのものが凍りついたようだった。
アウメリアは疲弊し、騎士たちは傷だらけ。エリスすらも疲労の色が濃く滲んでいる。
騎士の数名が膝をつく。
誰かが「無理だ……」と呟いた。
形勢は完全に逆転。エリスたちの顔に浮かぶものは、先程まであった勝利の安堵などではない。
仄暗い、どこまでも深い、絶望の色であった。




