坂道とビール
これも大昔のお客様のこと。
古い小さな一軒家に住む、お婆様がいた。
盆には息子一家が帰ってくるという。
最初のころは嬉しそうに話していらした。
それが年ごとに、憂鬱そうに話すようになった。
家はふつうの田舎の住宅地。
一番近い酒屋が、坂道の下にある。
息子夫婦を歓待するため用意するビールを、
350m缶24本入りの箱を、
手押しカートにのせて運ぶのだという。
つらい、つらい、と言っていた。
体がつらいという言い方だったが、たぶん、
本当につらいのは体より心だと思う。
息子たちは缶ビールを、冷蔵庫をあければ出てくると思っている。
子を思う母心ゆえに、老婆が坂道を運ぶことに気づいていない。
息子たちの心のなさが、つらいのだと思う。
こういう話はよく聞く。
女は共感力の強い生き物だからか娘たちは気づいてくれるが、
気づかずに母心を貪って傷つけている息子の話は、
よく耳にする。
そうして妻や母を過労死させた残念な話も、
ときどき耳にする。
まだ若かった私は、尋ねた。
小さい頃からこの家に暮らしていたなら酒屋の場所はわかるだろう。
母がビールを買う姿を見たこともあるだろう。
缶ビールは冷蔵庫から自然に生えてくるものでないのも、
知っているだろうに。なぜそうなるのか、と。
お客様は私の問いに、寂しそうに微笑んでおられた。
問題は、意外な形で解決した。
お客様が、おそらくはすまなそうな小声で、
息子たちに言ったらしい。運ぶのが辛い、と。
息子たちは理解して、翌年からは、
ビールだけは持参するようになったらしい。
苦情を言えば翌年から訪ねてもらえなくなるのではと怯えていた、
心のつかえがとれたお客様は、
心から嬉しそうに話してくださった。
世の母心あふれる方々へ伝えたい。
男性でも母心あふれる人はいる。
実の性別は関係なく、その母心へ伝えたい。
過労死する前に、話をしよう。
それで壊れる仲なら、それまでのこと。
話せば広がる世界もあるんだよ。
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